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誰も支配しない・誰にも支配されない

ずっとイライラしっぱなしだったため、疲弊ピーク。またしても週末動けない。なぜ、海外にいても日本人に嫌な思いをさせられるのか。あるあるかもだけど、この悩みだけは尽きない。

昨日海外にいる友人と話していて、「支配」「コントロール」について考えた。

去年から自分の歴史を振り返り紐解いていって気づいたのだけど、私はどうもこの「支配」という言葉に引っかかってるらしいということ。どこかに閉じ込められたくない、監視されたくない、という物理的な支配はもちろん、精神的に誰かに縛られている状態がとにかく嫌なのである。でもこれって人によっては守られているとかその人だけのものでいるとプラスに考える場合もあって、そこが人との違いだなと思う。自分が特別だって感じ、私は苦手なのだと思う。

不思議なもので、支配されたくないと思っていたのに、誰かを無意識に支配しがちなのであった。「支配」という言葉で真っ先に思いつくのは母親であるのだけど、それは本当にここ最近でやっと分かったこと。いや、言語化に成功したことである。母=支配してくる存在、を言語化する前は、何か分からない嫌悪感であったため厄介だったが、今はそれほど苦ではない。

恐ろしいことに、私は過去の友人や付き合った男や夫も含めて支配しがちだった。しかも母親が私にしていたようなやり方で。これは私の勝手な考えだけど、母親からの支配は思考にまで及んでいて、無意識にそのやり方が嫌なのに正しいと思ってしまっていたのではと。今更振り返ってみて思うことなので分からないけれども、自分的に腑に落ちている。

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以前、共感について書いた際にモヤモヤしていたのが、共感されることは嬉しいこともあるが、「分かります!私もです!」が強すぎると支配に感じてしまう自分がいたのだと思うということ。私にとって、寄り添いを超えた共感は支配感が強いようである。だから自然と拒絶感につながる。

これまた不思議なもので、なぜか引きつけがちなのは、私が思う支配感が強い人である。去年ネタにしていた不毛な関係の男性とか、まさにそう。本人が自覚していてもいなくても、言葉が強い人は相手を自然に支配している。だからそういう人から「~ですよね」「~でしょ」という同意を求められるのは、若干支配されていると感じる。その点、私も言葉は強い方だから気をつけねばだけども、言葉が強い同士で合うわけがないのである。

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支配されるのが嫌いだけど相手を支配していた自分。これもまた病気のように制御不能だったな。今冷静に振り返ってみると、私は一体どうしたかったのか、相手に何を求めていたのか分からないことが多々ある。それは友人に対しても、付き合っていた人に対しても。間違いなく今分かるのは、私がしていたのは相手に対して期待以上の支配であったこと。怖い。

詳しく書くと3000文字くらいになりそうだからやめる。

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そんなこんなで多少マシになった最近の私が思うこと、それがタイトル通り「誰も支配しない、誰にも支配されない」状態である。

一人暮らしも独身でいることも、やはりここに結び付く。例えばごみの分別とか、細かくやりすぎるのも適当すぎるのも違う気がして、その適度な部分はやはり自分基準である。食事とかお酒飲むのとかもそう。寝る時間、余暇の過ごし方もそう。誰にも何も言われないのが一番ラク。誰かと一緒には外でやればいいって思ってしまう。

自己責任の極みかなと思う。これでもし、起業できる能力とアイディアがあったら、私が無意識に理想としている状態により近づけるのかもしれない。結局のところエンジョイ自己責任な人間なのだ。

既婚と独身、同居と一人暮らし、組織に属することと独立、どっちが大変なのか、一般的なことなんてどうでもよくて、自分に合ってる方を選択できる世の中なのだから、大変であったとしても自分に合ってて楽しい方を選びたい。世間の当たり前とか常識とかそういうのからも支配されたくない。

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友人と話していたことに触れ忘れた。文化や宗教や歴史的背景なんかも支配要素だと思う。これらは外に出てみないと、外から見てみないと分からないものだからさらに厄介かもしれない。家族と同じかそれ以上に影響を及ぼすもの。人間社会って、自然とこういう逃げられないものに囲まれているのだなと思った。

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疲れすぎてこの一週間くらいまともに寝れてないので思考がめちゃくちゃである。どうやったらリセットできるのか。なぜ滞在先のプールが工事中なのか、なぜ近所のマッサージが閉業なのか、なぜ暑い国なのに冷房が強すぎて凍えながら生活するのか。なぜが尽きない毎日。まさにアウトオブコントロール。困ったね。

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