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距離の置き方

断捨離中です。人間関係の方。

Facebookの友人を整理することが年に一度くらいある。友人一覧を見て、もう顔も思い出せない、この人誰?状態の人は基本的にアンフレンド。本人がアカウントをほとんど使用してない場合も、その人がどうとかではなくてアンフレンド。自分が相手に連絡を取りたい意志があり、且つ、手段が他にない場合はアンフレンドしない。自分にとって大切な人だから。

海外あるあるの一つだと思うが、以前放っておいたら友達がドカドカ増えてしまい、600名だったか700名だったかになってしまい、「いや、私友達そんなおらんし。ていうかそんなたくさんいらんし。」となった。特に日本人。すいません、差別的で。何でこの人と繋がったんだっけみたいな人は多くて、会いたいとも会いたくないとも思わない人と繋がる理由が分からないわけさ。自分にとって有害でも無害でもない人って、私の中では位置づけが大変微妙である。

有害なら迷いなく切れるけど、無害のときに今まで迷っていた。無害だけどこれ以上何の進展もないだろうなという人。相手がどう思ってるかは知らないけど、でも相手から何年も何も言ってこない、自分の投稿を見てる様子もない、そうであればアンフレンドしたところで何も変わらないと思い、大事な友人の近況を確認できるようにするため、どんどんと友達の数を減らしている。数十年かけてでも自分の大事と思う人だけになったらいいなと思っている。死ぬ前にいけっかな。

常に有害ではないけど有害なときもある人。最近この類に対峙した。好きな面もあるが同時に拒絶に近い嫌いな部分もある。好きがやや上回る絶妙な均衡を保ててればいいが、それが何かの拍子に崩れた時、拒絶が全てを飲み込む。

これが一度起こり、しばらく距離を置いてみて、お互いなんとなくまた歩み寄ってごまかしごまかしやっていたのに、また何かの拍子で崩れる。その繰り返し。そうなるとだんだんと元に戻すのが難しくなると思う。特に決定的な何かを見たり感じてしまった瞬間、私としては無理だなと思ってしまう。

ま、今回そういう人がいたのですわ。ある意味特別な人なんだろうと思う。拒絶に近い嫌いと好きが共存する人。でもこの類の人に私は昔から苦しめられた、というか悩まされた。たぶん母親もこの類なのだろう。今はシンプルに好きじゃない人だけど、子どもの頃、少なくとも大学くらいまでは違ったと思う。ま、親ですからね。

そんなわけでこっそりと手に毬栗を握りしめて、そして相手の背中にエイっと投げたのである。「私はもう自分からあなたに近づきませんよ」、と。そしたら思った以上にスッキリしてしまった。あ、やっぱり嫌いだったんだって。もとい、今は嫌いなんだって。また好きになるかもしれないし、ならないかもしれない。でも決定的に今回「I'm done with you」となるものを見てしまい、しばらくしてもそれが自分の中で消化できなかったのだから、毬栗投球は今の私に必要だったのだ。

I'm done with youって久々に使ったけど、しっくりきたな。意味は自分でお調べください。とても使えるフレーズです。


こんな時間にこんな記事投稿してますが(時差ちょっとあります)、ぶっちゃけ激務。つらい。あぁ、つらい。あぁあああぁあぁ、つらい。つらいつらいつらいつらいつらいよーと叫びたい。仕事が夢に出てくる病気発症中。くっそー。