アコーディオンと曇のフラワーリング

 七月の晴れた朝、痛むほどの強い衝動に駆られ、リュックひとつで旅にでた。心の方位磁石に導かれ、幾つかの列車を待つことなく乗り継いだ。降り立った駅舎をでたとたん、まぶしかった夏の香りがした。駅前から乗った路線バスの運転手は髪の長い若い女性だった。彼女の髪が大きく揺れると、その先に湖が見えてきた。あの夏の思い出に微笑む風景ばかりになり、僕は次のバス停でひとり降りた。女性運転手は、よい旅を、と声をかけてくれた。僕は、ありがとうと返して、君もね、とつけ加えた。バスの運転も旅のようなものだよねとふと思ってそう言った。走りだしたバスはハザードランプを何度か点滅させ去って行った。
 ひと夏のあいだアルバイトしたロッジのようなホテルは今も変わらず湖畔に建っていた。腕時計を見て、時間かせぎに湖畔の遊歩道をしばらく歩いた。アルバイト期間中、僕には一階の奥のツインの客室が与えられていた。アルバイトは僕ひとりだった。夜には庭のベンチに腰掛けて、満天の星空を眺めるのが好きだった。
今日泊まりたかったが、列車の中で見たケータイの旅の予約サイトではホテルは満室になっていた。それでも僕を突き動かしたものは探知機の点滅するランプのように僕をそこへと向かわせた。僕はベルが鳴る玄関のドアを開け、フロントへと進んで行った。内装がまるで変わっていて、少し戸惑った。フロントにひとりいたショートヘアの若い女性は、僕を見ると一瞬息を止めたように見えた。
「すみません、僕ですね、二十五年ほど前の夏に、ここでアルバイトしたことがある者なんですけど、ちょっと近くに来たもんですから一言ご挨拶をと思いまして」
「ええ、憶えています」
 彼女は微笑みを浮かべてそう言った。
「ああ……君は」   
 面影があった。彼女は当時まだ五歳の、僕に妙に懐いていたあの可愛らしいお嬢さんだと気づいた。
「こんなところではあれですから、あちらでお話ししませんか?」
「お忙しいんじゃ」
「覚えてると思いますけど、あと一時間もすればそうなります」
「そうですね、覚えてます。貴重なおやすみの時間にごめんなさい」
「お気遣い下さったんですね」
彼女に案内され、僕らはロビーの奥のソファへと向かった。


 彼女とは三十分ほど話した。ロビーに置かれたグランドピアノが僅かに光沢を失っていた。アルバイトしてた時に何度か弾かせてもらった。購入したてだったからピカピカだった。支配人もマダムも一昨年の感染症の大流行で亡くなったとのことだった。今は彼女と旦那さんが先頭に立ってこのホテルを切り盛りしているらしい。ホテル内の全面改装は今年行ったということで、心機一転という彼女の言葉がその心の内を表しているようだった。僕はお願いして墓地への簡単な地図を書いてもらった。近くの湖岸の一画に新たに造られた墓地だった。そこで、ふたりが眠るの石碑に、時間をかけて手を合わせた。気持ちを沈めたくて、ひとつ先の降りたバス停まで歩くことにした。すると、ひとりの少年がホテルの方角の道から駆けてきた。ハアハア言いながらそばまで来ると、少年が即座にベンチに座り込んだので、僕はほっとけずに彼の隣に座った。話を聞く意思を示すため、リュックは肩から下ろして地面に置いた。
「大丈夫かい?」
 彼は呼吸を整えながら何度もうなずいた。
「お母さんがまた来てほしいって」
 彼は一気にそう言った。
「そっか、君は彼女の……ねえ、ホテル、繁盛してるみたいだね。今日泊まりたかったんだけどね、予約で一杯だった」
「きょうは団体さん、学校の」
「ああ、僕がバイトしてた時も結構あったよ、スケッチ大会とか、キャンプとか」
「うん、それ」
「もとに戻ってよかったね」
「うん」
 そう言った彼の顔はとてもうれしそうだった。
「おじさん、むかし君のホテルでアルバイトしてた時があってね」
「おじいちゃんやおばあちゃんたちと働いていたんだね」
「そうだよ。君のお母さんは君よりまだ若かった。まだ五歳だった」
「へえ~」
「何をやっても楽しかったなあ。誰といても楽しかったよ」
「へえ~」
「君も、大切な人たちを亡くしてしまったね」
彼は大きくうなずいてから、言った。
「おじさんも?」
「うん……」
「そっか」
「うん」
「ねえ、聞いていいかな?」
「何でも」
「この国の大人の人たちは、どうしちゃったの?」
 確かに、大人たちはみんなどうかしちゃっていた。あまりにも多くの人たちが命を落としてしまったが、それだけではない何かが、彼らの心をどんよりと覆っていた。
「それはたぶんね、助けられたのに、助けられなかったせいだと思う」
「みんな、できることはやったよね」
 彼はそう尋ねると、なぜかすがるような目で僕を見た。
「できることはやったけどね」
「けどね?」
「うん。ひとりも死なせてはだめだったんだ」
「それは無理だよ」
「わかってる。でもそうしなきゃいけなかったんだ」
 彼は湖をじっと見つめ、何とかその言葉を理解しようと努めているようだった。
「その考えでいると、やりきれなくなっちゃうよ」
 それを聞いて僕は、彼のさっきのまなざしに、やはり応えてあげるべきだったんじゃないのかと逡巡した。
 湖面のさざ波が、アイススケートをしているみたいに見えた。彼が、上半身を前後に揺らし始めた。視線の端で見ていた僕が、彼に顔を向けると、止めた。
「ねえ、北風と太陽っていう話を知ってるかい?」
 彼は小さくうなずいた。
「とても素晴らしい教訓を教えてくれる話ではあるんだけどね」
「知ってる」
「そう」
「えっ、違うの?」
 彼は興味を持ったらしく、目を丸くして僕を見た。
「僕の解釈は違う」
「どう?」
「うん。この話はね、才能の話なんだ」
「才能って、例えばこういうの?」
 空の彼方には真っ白な入道雲があって、それが加速度的に大きくなっていた。彼はその雲を儀式のように顔で象っているように見えた。僕はこの意外な展開に、どこかワクワクしていた。
「ぼくね、雲をあやつれるんだよ」
「雲を、あやつれる?」
「うん」
「どんな風に?」
 彼は真上の真っ青な空に手を振って挨拶し、それから指で絵を描き始めた。
「いま、ドーナツを描いたよ」
 僕は彼の指から、彼が指差す真上の空へと目を移した。そこには確かにドーナツ型した雲がひとつあった。さっきまで彼方の入道雲以外には雲はまったくなかった。いや、後方から流れてきた可能性だってあるか……
「マジック?」
「幼馴染みのコもそう言った」
「マジックも才能だけど、それはいつからできるようになったの?」
「半年前くらいからかな。マジックじゃないけど」
「ごめん……えっ、君は抗体検査はしたかい?」
「うん、陽性だったよ」
「無症状の?」
「うん。おじさんは?」
「君と同じ。もしかしたら僕たちの祖先がウイルスと関わって生き残ってきたように、僕らは何かをするために、遺伝子に取り込まれたのかもしれないね」
 彼は強くうなずいていた。
「生き残らないといけないんだね」
「うん。大切な人たちを思い出すためにもね」
「そっか……」
 彼はそう呟くと、あっもうひとつ用事があったと言って慌てて立ち上がり、礼をすると、来た道を走って帰って行った。一度だけ彼は急に立ち止まり、振り向くと深々と頭を下げた。僕は大きく手を振った。真上の空を見上げると、ドーナツは誰かにパクリと食べられてしまったようにきれいさっぱりと消えていた。


 あれから十年が経った。僕は今パリにいる。志していたアコーディオン奏者として。晴れた日には街角で演奏する。そして投げ銭を頂く。日々糧はそれだけだ。毎日が精一杯で、それでいて充実していた。演奏も毎回が真剣勝負だった。それが、今の僕にしたと思っている。演奏を終えて今日の糧をポケットに仕舞うと、ふいに声を掛けられた。ウェーブした柔らかそうな髪が印象的な美青年だった。すぐに、彼だとかわかった。
「やあ、雲くん」
「はい、雲くんです」
「カフェでも、どう?」
「ええ、是非」


 夕暮れのカフェテラス。僕たちは再会をワインで祝した。
「ところで雲くんは、どうしてここに?」
「あなたに会いたくなって」
「またまた」
「いえ、ほんとです」
「ほんとに?」
「運良くレコード会社の担当の方が会って下さって、あなたが祖母に贈ってくれた手紙と、あなたがアルバイトしていた頃の写真を見せたら信用してくれて」
「苦労かけたね」
「いえいえ全然。レコーディングの時だけ帰ってくるんですか?」
「そうだね。ある程度曲ができたらね」
「聞きました。その収益はすべて寄付してるんですよね」
「いい曲作るためにね」
「カッコいいなあ」
「君だって」
「はい?」
 僕は知っていた。僕だけが知っていたのかもしれない。雲を完璧にあやつれるようになった彼が国中を飛びまわり、雨が降り続く場所から雲を追い払って災害から守っていることを。
「障子に目ありだから言わないけど、君が救っていることはわかってるよ。あの不思議で、最後はドーナツになる雲の動きを見ていればね」
「約束は守ってくれてるんですね」
「もちろん。未だ怒りの熱は上昇気流になっているようだけど、君の努力はきっと実を結ぶよ。君は強いよ。僕は留まることができなかった。留まると寂しくてね、耐えることができなかった」
「きっとボクには、まだ寂しさはわからないんです。誰かを深く愛したことがないから、まだ愛されたよろこびだけなんですよ」
「ああ……」
「いつしかあなたがボクの憧れになった。あの夏からあなたは世界じゅうを飛びまわり、何かが始まりそうなところで、音楽によって人々のこころのバランスを整えてあげてるじゃないですか」
「そんなチカラは僕にはないよ」
「いえ、あなたの音楽は研究されてますよ、ボクたちの国でもね。ある研究者はあなたの音楽には聴こえない響きがあって、それが自然界と調和し、ものすごいプラスのエネルギーを生みだしているようだと言ってました」
「それは初耳だ」
「ボクはそれは、あなたの波長がもたらしているものだと思っています」
「そのことはそっくりそのまま、君にこそあてはまることだよ」
 彼は静かな微笑みを浮かべ、それからワインに口をつけた。彼がテーブルにワイングラスを置くのを待って、僕は言った。
「ひとつ思い出したことがあるよ。支配人と、ああ君のおじいちゃんと一度ね、あの湖のほとりで釣りをしたんだ。支配人は若い頃、世界じゅうの雲を見てまわったらしいね。聞いたことあると思うけど」
「はい、写真見せてくれて、いろんな雲の話をしてくれました」
「自由で、軽やかな人だった……そっか……僕は思うんだけど、旦那さん、ひょっとして空の一部になったんじゃないかな?」
「ああ」
「君は空に手を振ってたから、たぶんそれは感じていたんだよね」
「ええ。ボクはそうすることで、おじいちゃんと話している時に感じていた、あの元気にしてくれるエネルギーを得ていたんです」
「うん」
「ここでまた始まりそうなんですか?」
「噂では、氷の中にいたやつらしい」
 街ゆく人々が一瞬僕を振り返ったような錯覚を覚えた。僕は慌てて頭を振り、ふたたび人々を見渡したが、こちらを気にしている人は誰ひとりとしていなかった。よくある幻覚だった。何かが起こりそうな時、頻繁に起こりだす前兆みたいなものだった。
「大丈夫ですか?」
 彼が心配そうに顔を覗く。
「大丈夫。お腹へっただけだよ」
 彼は無邪気に笑った。
「街には今、世界じゅうからいろんな才能が集まってきているよ」
「人々を救うために」
「そう」
「あの、覚えてますか? あの時、北風と太陽の話してくれましたよね」
「うん」
「あれ、人の心を動かすのは、つまり人を救うことができるのはどっちだって話なんですよね? 誰にも備わっている驚異的な才能を開花させて、そのチカラを発揮することができるのはどっちだなんだっていうそういう」
「僕らがその証しになる」


 僕は精算を済ませ、荷物一式を背中に背負うと外にでた。彼は広い歩道に設置されたベンチに腰掛けていた。いつの間にか空は薄い雲に覆われて、美しい淡いピンク色に染まっていた。彼に近づくと彼は僕に軽くウインクした。僕が精算している間に外で待つ彼がそうしたんだろう。その凄まじい彼の進化が彼のこれまでの日々を如実に物語っていた。行き交っていたパリの人々はその足を止め、しばし空を見上げ、皆一様にやわらかな微笑みを浮かべていた。僕はあの日みたいに荷物を地面に下ろすと、彼の隣に座った。(おわり)

 

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