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たいち君の場合(2)

前回の出来事があっても、僕たちは普通に(いや、僕は内心ハラハラしながら)友達として会い、ときどき夕食を作ってもらったり、一緒に飲みに行ったりしていた。そのまま泊まりもしたし、音楽の話をしながら、いつの間にか二人で寝てしまっていたこともあった。

コーヒーの香りで起きた。ロフトで(たぶん一緒に)寝ていた。ロフトからリビングを見下ろしてみる。先に起きていた彼は、フランス語のリスニングCDか何かをかけながら、フランス語の勉強をしている。カーテン越しに明るい光が差し込んでいた。おはよう、と僕がいうと、コーヒーカップを持ちながら、おはようと手を挙げた。朝から熱心だね、というと彼は「ゆういちさんに触発されて、フランス語は真剣に勉強しようと思いましてね笑」なんて、ニヤニヤして恥ずかしそうに言いながら、テキストを閉じて、二人の朝食の準備を始め(てくれ)た。こんな日が何度もあった。なんとも眩しい雰囲気だった。

少し前に、僕に初めての彼氏ができた。ひとつ下の「つよし君」である。
彼とどのようにして出会って、付き合うことになったのかは「つよし君の場合」で書こうと思う。僕は国文、彼は建築学科といった風に、当時の僕たち二人の間には、忙しさに格段の差があった。会えることも少なかった。むしろ僕は、お隣のさんのたいち君といる時間の方が長かったくらいだ。彼とは続かず、結局別れた。忘れもしない、十数年前の5月4日だ。

つよし君からの突然の電話で、僕たちは別れた。記憶によれば、数時間に及ぶ電話——確かそれは,夜の11時頃に彼から着信があり,深夜2時の頃まで話をしたと思う——で、気が動転して僕は混乱の最中にいた。これ以来、僕は人と、いやゲイと付き合うことが怖くなってしまった。小中高と恋愛のまねごとのようなことを何度かしたけれども、この別れは本当に堪えた。涙が止まらなかった。この時の詳細をこの勢いで書きたいけれど、やっぱり「つよし君の場合」で書こうと思う。

これを境に、僕はひたすら遊びに耽るようになった。毎晩のように相手を変えて、夜遅くまで遊ぶ。一日に朝から夜まで、異なる相手と遊んでいたこともあった。付き合えば「別れ」が定義される。だったら、付き合わなければ良いのではないか。そもそもパートナーとセフレの違いってなんだろうか。こんな理屈にならないような「ヤクザな考え」で頭を一杯にして、毎晩のように僕は、その日見つけた獲物を襲い、我慢できなくなったアレをぶちまけていた。そこそこにして相手を帰らす。一人になる。無限大の虚しさに襲われる。睡眠薬と少しの酒を煽って眠る。この繰り返しだった。

さて、切られた携帯を眺めながら、焦っていた僕は、適当に携帯を触っていた。無意識に、いつの間にか、たいち君に電話をかけてしまった。すぐ我に返り、焦って電話を切ろうとしたけれども、幸か不幸か、繋がってしまった。適当な言い訳が見つからず、しどろもどろに「ごめん間違えた、何でもない」と言う僕に対して、その声のトーンや雰囲気から何かを感じ取ったのか、彼は「こんな時間に電話をしてきて、何でもない、は無いんじゃない」と、心理的な距離が近いがゆえに表現できる一種の冷たさを添えて、訝しげに、しかし僕を心から心配するように、いや言葉を重ねるならば、僕に何かを期待をするかのように答えた。

「ごめん、寝てた?今から部屋に行っていい?」と僕が涙声で呟くように言うと、たいち君は、彼独特の、鼻にかかった甘く優しい声で——僕は少なくともその時、優しくも甘い声であると感じた——「いいよ、おいでよ」と答えてくれた。慰めてもらいに行くような形で彼の部屋に行くことになった。僕は涙を拭って平静を装い、とぼとぼと歩いて、1分もかからないところにあるたいち君の部屋を訪ねた。息をととのえ、平静を装うには、短すぎる距離だった。

チャイムを鳴らし玄関を開ける。たいち君の部屋の匂い——あの懐かしい匂い——がした。玄関から覗くと、彼の優しい顔が見えた。彼は部屋着で、お茶(確かそれは、たいち君ご自慢のほうじ茶であった)を淹れて待っていてくれた。おいで、と言って招いてくれている。僕は涙をこらえて部屋に上がった。お茶を口にした後、そのとき僕は「つよし君」を架空の女性に置き換えて、事の始終と顛末をポツポツと話し始めた。彼は、そもそも僕が本当に恋愛沙汰にあったことに驚いていたが、同時に焦りと(恐らく)悲しみを見せまいと、必死に微笑みながら強気に振る舞っているように感じられた。

話を一通り終えた。たいち君は激怒した。「そんな理由は絶対に嘘だ!ゆういちがそう考えるのも、そもそも違う。騙されている。君は傷つけられている。俺が今からそんな女を怒る。怒鳴る。そいつの電話番号を教えろ!」。すごい剣幕だった。僕が逆に宥めていた。このとき僕は、彼が僕に対して、相当「特別な感情」を抱いていることを直感した。その「特別な感情」は友人関係を超えた、何かであるような気がした。自意識過剰なのかもしれないけれども。たいち君の顔が少し変わって見えた。

僕が一通り吐き出し終えた後、そして、たいち君が激昂が収まった後、二人してふと、お腹が減っていることに気付いた。この日は何も作ってくれなかった。近くのコンビニに行った。僕はお赤飯のおにぎりを買った。彼は何を買ったのだろう。よく覚えていない。ただ二人して、ビニール袋をブンブンしながら、お店を出たことは覚えている。途中で変にお互い可笑しくなってしまって、ケラケラ笑っていたのだ。

しかしいざ帰り道に出てみると、二人とも無言になった。逆に僕が気を遣うように、今夜は月が綺麗だね、なんて呟いた程度だった気がする。たいち君は僕に寄り添うように——いまにして思えば、まるで僕の肩に手を回すようにして——、そしてときどき僕の顔をちらと覗きながら歩いていた。僕は彼の部屋に戻らず、そのまま自分の部屋に帰ることにした。そう伝えた。

コンビニからの帰り道は、途中にT字路があるだけの一本道だった。そのT字路——たいち君は右に曲がり、僕は直進する、あのT字路——に差しかかろうとした時、彼が急に歩みを止めた。いつの間にか、一歩か二歩先を歩いていた僕は、ふとそれに気付き、急に心配になって振り返った。本当に月がきれいな夜であった。たいち君の背後には綺麗な、春の空気でときどき朧げになる月があった。美しく滲む月光を背にして彼は、真剣な、しかし悲しそうな、悔しそうな、いや涙すら浮かべていそうな眼差しで、少し間をおいて、こう言った。

——君は悪くない。

この後は(3)に続く。
僕は「たいち君」に徹底的に翻弄されていくことになる。

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