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自分の人生の運転席に、自分以外の人を乗せるということ。

ここ数日「自分とはどんな人間なのか」と考えることが多く、心理学の本を読んだり、自己分析の動画を見たりしていました。

一昨年に適応障害の診断をされたこともあり、図書館で精神疾患に関するコーナーをウロウロしていた時、「自己愛性パーソナリティ障害」についての本を見つけました。

私が読んだのは、精神科医の市橋秀夫先生が監修されている、大和出版「自己愛性パーソナリティ障害 正しい理解と治療法」という本です。

聞いたこともない障害だったので、障害についての説明やその原因、具体的な考え方などを読みました。
それはもう衝撃的でした。自分の感覚を、ここまで言語化されたものを初めて読みました。当てはまる、のではなく、私を説明してくれている、という感覚に近かったです。

ここでは簡略化して説明しますが、この障害は等身大の自分がいないことが問題となります。常に思い描く理想の自分か、あるいはとりえのない何もできない自分しかいません。生きるには何かしら条件が必要だと感じていたり、自分は特別なんだと信じているがそれが妄想だということも実は気づいていたりします。

本の中に、こんな例えがありました(ウロ覚えですが)。
自分の人生の道を進む、車に乗っているとします。「自分」の人生の道であるのに、その車の運転席には他人を乗せてしまっています。その人は状況によって、親であったり上司であったりします。その人の運転に任せてしまっているので、自分はただ助手席から、その人の進む道についていくしかありません。

私は自己分析をする中で、この運転席にのせる人は誰にしようかな、と考えていたことに気づきました。

自己愛性パーソナリティ障害の方は、自分の障害を認めない、という傾向もあるようです。私は一度挫折した事や、客観視しがちな事もあり、すっと入ってきました。
(自分でそうだと思っただけで、もしかしたら違うかもしれませんが)

どんな自己分析の本を読んでも、何度診断を受けてみても、しっくりこなかった原因は、等身大の自分で答えていなかったからかもしれません。
その時なりたいと思っていた自分を分析していたようなものです。

そんな少し浮世離れした考えではなく、地に足をつけた考えができるようになってきました。
これからの等身大の自分が何をしていくのか、楽しみです。

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