【物語】そこに映るのは(後編)
書かれた住所を訪ねてみると、普通の民家だった。玄関のドアに『診療中』の札が掛かっていなければ、通りすぎただろう。
私は、そっとドアを開けて中をのぞいた。待合室だろうか。ソファがおかれた部屋は、応接室のようだった。入るのをためらっていると、奥のドアから白衣を着た女の人が出てきた。小柄で柔らかい雰囲気をまとった可愛らしい人。
「あの、予約とかしてないんですけど」
「大丈夫よ。少し掛けて待ってて」
スリッパに履き替え、大きなひとり掛けのソファに座った。こんなに座り心地のいいソファがあるのか、と誰もいないことを確かめて、もう一度座ってみる。壁には、柔らかいタッチの花の絵が三枚。ゆっくり息をすると、お香のような優しい香りがした。
『鏡の病院』という名前から、鏡がたくさんあるのか、それとも特別な鏡があるのかと思っていたけれど、待合室に鏡は見当たらなかった。
十分ほどして、診察室に通された。十畳ほどの診察室は、まるで書斎のようだった。壁側には本棚。窓辺には、木の机。窓からは、中庭に咲く紫陽花が見えていた。こんなところで仕事ができたら、素敵だろうな。
「どうぞ、座って」
先生の声で我に返り、あわてて丸い椅子に腰をおろした。
はじめに簡単な問診があった。仕事中に倒れたことやその時の症状、いまの状況をできるだけ細かく伝えた。先生は優しく頷きながら、私の顔を見ていた。問診が終わると、先生は机に立ててあった白い縁のある鏡を手にした。
「自分の顔、映してみて」
渡された鏡を受けとり、自分の顔を映した。じっくりと自分の顔を見たのは、いつぶりだろう。目の下には青いクマが薄っすらと浮かび、肌も乾燥してカサカサになっていた。こんなに疲れた顔をしていたのか。手入れもできていない自分が情けなくなった。
「鏡を見たまま、私の質問に答えてね」
「え、はい」
私は自分の顔を見ながら、返事をした。なんだか不思議な感覚だった。
「あなたがいま、思っている自分は、どんな人?」
いま思っている自分。自分の顔を見ながら考える。
「仕事を休んで、会社やみんなに迷惑をかけている人、です」
鏡に映った自分が、泣きだしそうな顔をした。
「他には?」
「役に立たない不甲斐ない人」
私は、いま思っているダメな自分を言葉にして並べた。言葉にすればするほど、鏡の自分はどんどん悲しい顔になっていく。それを見ていられなくなり、言葉が出なくなった。私が黙り込むと、先生がゆっくりと話はじめた。
「じゃあ、その自分である『我』を除いたら、そこに映るのは?」
我を除く? ガを除く……。
鏡の自分。
私は鏡を見たまま、はっとした。
「神、です……」
「尊ぶべき存在ね」
尊ぶべき存在。先生のその言葉に、鏡に映った私から声が聞こえた。
『やっと気づいてくれた』
言葉にできない感情が、溢れた。涙と嗚咽でぐちゃぐちゃになりながら、私は鏡の自分に伝えた。
「ごめんね、気づかなくて。頑張ってくれて、ありがとう」
『鏡の病院』からの帰り道。とても晴れやかな気持ちであることに気づいた。空は青く、風が心地いい。
先生からは、薬の代わりに、小さな鏡のキーホルダーをもらった。先生は「お守りね」と言っていたけれど、きっと忘れないため。
私は、残っている有休を使って、旅行にいくことを決めた。温泉に入って、マッサージを受けて、美味しい料理を食べよう。大切な『尊ぶべき存在』を、ゆっくりともてなすために。
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