【物語】後藤家の夏の一日
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▽▽▽ 紫乃さんの記事 ▽▽▽
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どこにでもある、ありふれた家庭だと、ボクは思っている。某磯野家のように、毎週、話題があるわけでもなく、某野原家のように、感動的な映画になるわけでもない。
そんな、ありふれた後藤家の日常を、ありふれた非日常に変えたのは、一匹のハエだった。
お盆前の八月。うだるような暑さの中、朝から母ちゃんがエアコンとにらめっこをしている。テレビから流れる高校野球中継。ちゃぶ台の前で座ったじいちゃんは、熱いお茶をすすりながら、炎天下の甲子園を見つめていた。
「おかしいわねぇ~」
「おはよう。どうしたの?」
「エアコンがつかないのよ」
リモコンを握りしめて、人差し指の先が曲がるほどの強さで、何度も押す母ちゃん。困ったときは、力業。それが、後藤家のDNAには、刻まれているようだ。
「あーーー、暑い! なんとかしろ!」
広げた新聞をバサバサとたたみながら、父ちゃんがちゃぶ台の前に、どかっと座る。また、トイレで新聞を読んでいたのだろう。ちゃぶ台においてあるうちわを握ると、これでもかという力で扇ぎはじめた。
渾身の力でリモコンを押しても、電池を入れ替えても、コンセントをさし直しても、エアコンは、静まり返ったまま。エアコンだけが、スンと涼しい顔をしている。
「暑っ! お母さん、エアコンは?」
「それが、つかないのよ。おかしいわねぇ」
「なんで、エアコンつけてないの?」
「それがね、つかないのよ」
起きてきた姉ちゃんにも、兄ちゃんにも、同じ回答をする母ちゃんは、ある意味、聖人だと思う。ボクなら、一度ですませたい。ボクの尊敬の気持ちをよそに、母ちゃんは電気屋さんに電話をかけ始めた。
力業でダメなときは、他力本願。命綱のエアコンをみてもらえるよう、近くの電気屋さんにお願いをする。どうやら来てくれるのは、夕方近くになるようだ。
扇風機はフル稼働し、各自の手には、うちわなり扇子なり下敷きなり、風を起こせる道具が握られていた。ちゃぶ台のまわりに集まった後藤一家は、じっとりと汗を滲ませながら、冷たい麦茶をあおる。
じいちゃんだけが、熱いお茶をすすり、汗ひとつかいていない。乗り越えてきたものが、ちがうのだろうけど、キラリと光るハゲ頭から、想像するのは難しい。
午前中から頑張るセミの声が、気温をぐんぐん上げていく。
「なんじゃコイツ! 鬱陶しい!」
静まり返った居間に、父ちゃんの怒鳴り声が響く。見ると、一匹のハエが、父ちゃんのまわりをぐるぐると飛んでいた。
「コイツのせいで、暑いんじゃ!」
理不尽な罪をきせられるハエ。本人(本ハエ?)は、たぶん気づいていない。飛んで火にいる夏の虫、というのは、こういうことを言うのだろう。タイミングが、悪すぎる。
新聞を丸めて、ハエに立ち向かうも、空を切るばかり。一度、火がつくと、燃え尽きるまで鎮火しない。父ちゃんは、怒りを床にぶつけるように、床板を軋ませながら、物置の方に向かった。
「叩き斬ってやる!」
そう言って、構えたのは木刀。親の仇のように、ハエを睨む。
「ちょっと、お父さん、落ち着いて」
止めに入るのかと思った母ちゃんの手には、フライパン。
「お父さん、面積せますぎ!」
参戦した姉ちゃんの手には、テニスラケット。
「お前の、ほぼ穴だからな」
そう言った兄ちゃんの手には、虫取りアミ。
全員が臨戦態勢に入った。
「成敗してくれるわ!」
父ちゃんの振り下ろした木刀が、母ちゃんをかすめる。とっさにフライパンで防ぐ母ちゃん。カーンというゴングが鳴った。
「お兄ちゃん、そっち!」
「よっしゃ、任せろ!」
兄ちゃんのアミが、母ちゃんの頭に被さる。
「ちょっと、マサキ」
「母ちゃん、邪魔!」
「そっち行った!」
「猪口才な!」
「どこ、狙ってるんだよ!」
「お兄ちゃんのいる場所が悪い!」
アミにラケットに木刀にフライパン。後藤家の居間で、各々が空を切る。ハエは、飛び交う道具をかいくぐりながら、戦闘機のごとく飛びまわる。木刀をひらりと交わし、フライパンの前でUターンし、ラケットのアミ目を抜け、虫取りアミの前で急降下する。
そして、安全地帯を見つけたかのように、ふととまった。とまった先は、じいちゃんのハゲ頭。全員が息をのむ。チャンスは、いましかない。
「じいさん、じっとしてろ」
「お父さん、そんなので叩いたら、おじいちゃんがあの世だよ!」
「マサキ、お前、生け捕りにしろ」
「カナコのせいで、さっき、ひしゃげたし」
「お兄ちゃんが、どんくさいからでしょ!」
家族が業を煮やす中、ボクはじいちゃんのハゲ頭を、ハエたたきでペチッと叩いた。
「ゲームセット」
高校野球を見終えたじいちゃんが、つぶやくと、張りつめた空気が、ふっと和らいだ。
構えていた道具が、下ろされる。
急に、セミの声が聞こえはじめた。
ひと汗かき終えた後藤家の居間を、窓から入ってきた風が、すっと通りぬけた。
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