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泥棒

〜夜の読み物 《秋 2022.9.30》〜



「あちっ」

コーヒーは勢いよく手の甲にかかり、ワイシャツの袖まで茶色いしみが飛び散った。
仕方なくマシンから引き抜こうとしたコーヒーカップをまた戻し、なにか拭くものはないか探す。

シンク下の戸棚の取っ手に白いタオルがかかっているが、なにを拭くためのものなのかわからない。
誰かに聞こうにも定時はとうに過ぎていて、誰もこちらにやってくる気配はない。

とりあえず赤くなってしまった手を水で洗い、ワイシャツの袖口も少し水で濡らしてみたが、そんなことでしみは落ちなさそうだ。
寒くなってきておろしたばかりのシャツをこするように洗うことは躊躇われ、かかっているタオルで軽くたたくように水気を取った。
ペーパータオルのようなものもなにも見当たらず、コーヒーマシンのまわりにできてしまった黒茶色の水たまりもタオルで一気に拭き去った。


あいつが悪い。


やっと口をつけはじめたコーヒーはまだ熱く、ちびちびと壁にもたれながら飲む。

あいつのせいでコーヒーがこぼれてやけどをしそうになった。
あいつのせいで新しいワイシャツまで汚れた。早々にクリーニングに出さなければならない。面倒ごとが増えた。

何をどうしたらより効率的に稼げるか。
どこに手をつければ人より前に出られるか。
稼ぐこと。人より上に行くこと。それしか興味はない。
どこがゴールなのかもわからない。
ゴールなどないのかもしれない。
それでも、もっと上へ、上へとただただ上り続ける。
きっと俺の脳はそんなふうにプログラミングされている。
生まれながらの宿命のようなものだ。

毎日は常にそんな状態で、それ以外のことは流れていく景色にすぎない。
着実に積み上げてきた結果がさらに大きな結果を生み、俺はますます景色に興味を持たなくなる。

そんな俺でもうまくいかないこともある。
うまくいかない時や今みたいに一息ついている時、あいつはひょっこり俺の思考にやってくる。
ケラケラ笑ったり、意味の分からないことで怒ったり泣いたりするからまあ忙しい。情緒不安定なんじゃないかって心配になったりもする。

待ち合わせ場所に行くと、たいていあいつは先に待っていて、俺の姿を見つけると小走りで駆け寄ってくる。
あいつは、とりとめのない無駄話をひとしきりした後に俺に話を振る。俺は仕事のことしか話題らしい話題もないから、あいつにもわかるようにかみ砕いて話をしてやる。

最近は機嫌がいいことが多かったように思う。
それだけに、届いていたメッセージの内容に驚いて電話をした。
「そんなしょうもない嘘なんてつかないよ。プロポーズされて、別に嫌じゃなかったから結婚することにしたの。それだけだよ。」
あいつはそう言った。
相手はどんな奴なのか問いただしたけれど、はぐらかされた。
そもそも俺はとやかく言える立場ではないし、あいつもそういうことは分かっているのだろう。
今日が10年目だってことも、あいつはきっと分かってやっているのだ。
だけどあいつは、そのことを俺はとうに忘れて気づきもしないと思ってるのだろう。


あいつは泥棒だ。


なあ、今、笑ってる?
泣いてる?


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