見出し画像

いよいよ本格的に木の模型を作り始めました

今日はここまで組み立てました
1945年、ドイツの国会議事堂

いよいよ本格的に木の模型を作り始めました。イタレリ。
説明書を見ると分かりますが、まだ真ん中の建物の土台、階段を作っただけで、先は長そうです。
正直、制作のテンションを維持出来なさそうなので、この議事堂を作り終えたら、粘土細工の道具をDAISOで買ってきて、新しく始めるのを励みにしています。
もし、制作中に心がダレたら、戦車の兵士達の塗装でもして、気分転換します。

履帯を付けたら完成予定の戦車

academyのM10、プラモデル作りを始めた時に買って積んでいましたが、ここまで作りました。この戦車もパーツが細かくて、手間が掛かりました。塗装に関しては、ウェザリング塗装をせず、デカールも貼らずにおこうと考えています。この戦車の筆塗り、けっこう気に入っています。
この戦車のキットに付属していた兵士達5人は、組み立て終わって、途中まで塗装しているのです。

音楽もそうだったのですが、参考になることはあっても、人様の作品を視聴して、そのまま真似をしたくないというか、自分が創作するには違和感があるというか、坂本龍一さんや小室哲哉さんの曲に、私はかなり影響を受けていますが、自分がどのような曲を作っていくのか、何となく掴めるまで5年程度掛かりました。
模型作りも同様に、自分の方向性を把握するまで5年は掛かるかな、と見通しています。私は模型制作歴1年と数ヶ月。まだ先は長そうです。

RICOHのR10で撮影した後、iPhoneのカメラで自動補正を掛けた模型写真
iPhoneカメラで撮影して、ビビッドフィルターを掛けたプラモデル写真
iPhoneカメラで撮影しただけの無加工なプラモデル写真

私の模型写真は、iPhoneカメラからRICOH R10を使用するようになり、解像度を下げました。見比べると分かりますが、R10で撮影した写真の方がエッジが緩く、柔らかい写りになります。

今日、友人と話していて、私にとって模型写真はポートレートなのではないか、と気付きました。私は散歩がてらにスナップフォトを撮影し、ポートレートフォトは久しく撮っていませんが、模型写真がポートレートに相当するのだとしたら、自分のスナップフォトとの違いを面白く捉えました。

私のスナップフォトには、出来るだけ撮影者である「私」が表出しないように気を付けています。エンタメではなく、個的な感じです。実際、愛想がないし、ウケも気にしていません。
模型写真の方がポジティブで、「こんな模型を作ったお」という写真です。報告であり、模型の宣伝であり、ささやかな自慢です。素敵だな、自分も作りたいな、自分も作ったな、などと思ってもらえれば、私は嬉しいです。

スナップフォトの場合は、素敵だな、と人様から言われてもピンと来ないし、報告や宣伝でもありません。写真の中から「私」を無くそうと努力をしているので、受け手に何かを伝えようと思っていないのです。良い写真を撮ろうとする自身の心さえ邪魔です。

模型写真の場合は、自身で作った物なので、思い入れがあります。出来るだけ良く撮りたい。しかし、良く撮り過ぎてもいけません。ただ素朴な写真であれば良くて、物そのものの面白さや魅力を伝えれば良いのですが、どうしても「私」の思い入れが写真に入ります。この思い入れ=愛着がポジティブなのです。

人様のプラモデル写真や動画を見て、上手いなぁ、と思うことは多々あっても、同じように自分が作りたい、と思いません。人は人、自分は自分、と思って、参考にしたいところだけを覚えておきます。最近だと、Seriaのダイアモンドヤスリを紹介している動画を見て、木を削るのに良さそうなので、2本買いました。実際、階段の凸凹を削るのにちょうど良かったです。
人真似では満足しなくて、私は私が満足するやり方を自分で編み出さなければなりません。これは、写真でも音楽でも絵でも変わりません。

今は、模型に遊んでもらっている感じです。木のドイツの国会議事堂なんて、組み立てるだけで精一杯で、あれこれと考える余裕はありません。そして、組み立てるだけで楽しいです。
模型作りは手先を使うので、少しは器用になるし、脳トレになるでしょう。そして、模型作りは健康でないと出来ません。細かい作業をするには集中力が必要で、元気がなければ集中出来ません。
毎朝、早起きをして、模型作りを続けている私は、自身の健康の為に模型作りをしているのかも知れません。短気もいけません。

気長に楽しく模型作りをしています。

人様のプラモデルフォトや音楽を視聴しても、不快に感じることはあまりないのですが、写真だけはいけません。
特に、SNSの評価を気にして(成果主義)、実のところ自己中心的で、写真を蔑ろにしている写真は見たくありません。
これは、写真を見る人を騙している、バカにしていて、写真の本質について何も思慮していないのに、自分は写真が上手いと思っていると、写真を見ると分かってしまうのです。

「SNS映えするからこの写真をアップしよう」というのは私的に良いのですが、「本当はこういうのが良いのだけど、分かる人(いいね)が少ないから、SNSウケする写真を撮ってアップしておこう」というのが、私は、好きではありません。本音と建前が分からないと思っているかも知れませんが、写真を見れば分かります。これぐらいには、写真は雄弁なのです。
私は、時に分かりにくい文章を書いてアップしますが、読み手をバカにはしていません。バカにしていたら、分かりやすく書く努力をするでしょう。それか、まず書こうと思いません。
写真や創作について書けば、分かりにくくなるのは明白で、煩雑になります。「考える」というのは、難しくて、ややこしいことの果てにあります。これは、実際が難しくて、ややこしいのだから、仕方がありません。

写真の本質は関係性なので、基本は相手(被写体)を褒めることです。写真の撮り方とは、相手をどのように褒めるのかの作法であり、受け手にどのように相手の良さを伝えるか、それだけです。
そして、関係性である以上、相手のことを褒めている程で利己心に利用することが、写真にはよくあります。例えば、成果主義によるSNS映えもそうでしょう(ポートレートは撮り手の自己愛が表出しやすいですし)。
模型写真の場合は、自分で作った物なので、利己心があって当然じゃないか、と私は捉えています。頑張って作ったから褒めてもらいたいのは、人として共感出来ます。なので、私は模型写真に関しては、ポジティブに撮れますし、逆に他人事としては撮れないでしょう。私の物ですから。

私は猫や動物のショート動画をたまに見て癒されますが、これらの動画を撮っているだいたいの人達は、自分のことよりも動物の方に重きを置いているのが分かります。自分が飼っている動物を人様に見てもらいたい、かわいいのだから。このような気持ちに邪なところはなく、正直で良いな、と私は思います。
SNSにアップして多くの人に見てもらいたいのは、利己心もあるでしょうが、我が子自慢であり、受け手に癒されて欲しい、という純粋な想いからだと思われます。

SNSでプラモデルフォトを見ると、迫力を出そうとしたり、リアリティを出そうとしたりして、工夫をされている写真を多く見ます。映え。
それはそれとして、私がR10というオールドコンデジでわざわざ模型写真を撮っているのは、模型が小さいからです。小さい物を近くで大きく見ようとすれば、細部がボヤけます。例えば、iPhoneカメラでは、細部までハッキリ写り過ぎるのです。ボヤけているのは、私の目が悪いからでしょうが、私はこのように見えているから、写真で再現しているだけのことで、iPhoneに写真データを取り込んで、模型写真に自動補正を掛けているのは、サービスみたいなものです。
実際に見えている感じよりも、iPhoneで自動補正した写真はヌケが良いのです。R10で撮って出しの写真は、本当にヌケが悪い。これでは模型に悪いな、と思って、自動補正というお化粧をしています。

先日、友人が動物園に出掛けて、レッサーパンダを撮影した写真を見ました。これには敵いません。
友人がスマホで撮影したレッサーパンダの写真は、技術的には良い写真とは言えないでしょう、データを拡大してアップにしているので、解像度も低いですが、とても良いレッサーパンダでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?