見出し画像

承認欲求の話でもあるが、私は上手下手をこだわらない

承認欲求の話でもあるが、私は上手下手をこだわらない。どうせならば、下手を楽しむことにしている。私はイラストを約1年描いてきて、プラモデルを3ヶ月程度作っているが、下手である。

年末に描いたイラストたち
スプラ3のイラストを模写
全て鉛筆で描いている
だいたい1枚30分で描いた

私にとって絵を描くこととプラモデルは似ている。どちらもオリジナルでないこと、アナログであること、私が不得意なこと、下手であること。
プラモデルは筆塗りなので、均一に塗れない。私が筆塗りしかしないのは、絵の延長線上にあるからかも知れない。スプレーの方が簡単にキレイに塗装出来るのは知っているが、簡単でキレイだからこそ、自分でしたいとはあまり思えない。

だいたい完成した零戦と、まだ未塗装の恐竜たち

最近組み立てて筆塗り塗装した零戦は、明日、恐竜たちの塗装と共に、仕上げの筆塗りをする予定。アクリジョンの筆塗り専用塗料を使用していて、アクリジョンは隠蔽力が弱いから、零戦の成形色のグレーが透けている。さらに、筆ムラもすごい。
私は、プラの成形色が透けることも、筆ムラも気に入っていて、これらを活かしてプラモデル作りが出来たらいいな、と考えている。オモチャのチープ感。

最近、写真関連の記事を読んだ。写真上達のアドバイス的な内容。書いてあることはだいたい、ごもっともだと思ったけど、作例の写真がイマイチというか、分かっていないな、見えていないのだろうな、と思わざる得なかった、写真の本質、存在そのものが。
ソツがない写真。それが上手な写真だとすれば、私はそれを目指す必要がない。ソツのないプラモデル、それが上手なプラモデルだとしたら、やはり私が目指す必要はない。
作品で一番重要なのは、自身にとっての必要性であって、他者にとっての必要性、ニーズなどではない。零戦をストロベリーピンクで塗っても構わないし、下手であっても構わない。

最近、写真のアドバイスをしたのだが、一番大事なのは、撮りたいという気持ち、撮りたいモノや場所があって、何度も撮り続けることが大事で、そうやっていれば、様々なことを感じて、気付いて、勝手に上達していくだろう。
モノならば自身の心と通わすこと、場所ならば目に見えない力場を感じること。そういうことを仰る人を、私以外で私は知らないのだが。

上手いを目指すことは、存在の本質を狭めて定義することに等しい。上手いを目指せば、下手に存在価値がなくなる。価値がなくなれば存在理由もなくなり、認識において存在自体が唾棄され、ないことにされる。
だから私は上手いを最上とはしない。下手を楽しむこと。子どもの絵を見て楽しむように、自身の童心を楽しむ。

こういうことを実践している私の配信は過疎っている。今は主にプラモデル作りをしながら雑談配信をしていて、2時間程度、リスナーが誰も来ない、来てもすぐに居なくなることがザラで、それでもへこたれず続けていられるのは、私が過疎っていてもへこたれないからである。
まず、私は、私の価値観、人生観などを人様に理解してもらうことを諦めている。下手を楽しむ、なんて誰も言わない。写真の本質を理解したいならヘーゲルの「精神現象学」を読んだらいい、なんてのも誰も言わない。
これは、本質を理解したい人が少ないからなのか、私にとっての本質と、多くの人たちにおける本質が異なっているのか、どちらなのだろうけど、どちらにしても、今となっては、理解されないだろうことに変わりはないから、どちらでも構わない。

承認欲求をこじらせている人の多くは、異口同音であることに悩んでいるのではないのか。だから、これは「個性」を巡る問題でもあるはずだ。
プラモデルというのは、説明書があって、パーツがあって、説明書通りに作れば誰でも同じように完成する、と考えている人がいるかも知れないが、塗装まで視野に入れれば(さらには改造などもある)異口同音にはならない。私の場合は、上手い下手は置いておいて、私のようにプラモデルを塗装する人を他に見たことがない。多分、オリジナリティが溢れているだろう。

ポケプラのミミッキュ

吉本プラモデル部主催の「模コン」にポケプラのミミッキュの写真を送った。当日、模コンのライブ動画を見ていたら、芸人さんが私の作ったミミッキュのプラモデルを「カワイイ」とコメントしてくれて、嬉しかった。
当然、私の作ったミミッキュは1stステージで紹介してもらい、1stステージと言っても、かなりレベルが高くて、審査員のプロモデラーの方々が面食らった感じだった。模コンへの参加作品は多くて、全ての作品にコメントがもらえるわけではない中で、私のミミッキュにコメントをもらえたことは奇跡みたいな幸運だったのかも知れない。

模型コンテストで、ポケプラを作って応募する人があまり居ないだろうことは想像に難くない。ポケプラは子ども向けの初心者向けのプラモデルキットだという価値観があって、せっかくのコンテストだから、もっと難しいキットや大人向けのキット、あとはガンプラが主流になっていく。
そんな中でミミッキュ。筆塗りのみ。さらに、筆塗りが下手。周りの参加作品から浮いている。だからこそ、コメントをしてもらえたのではないか、と私は捉えている。

話を戻し、私の配信はだいたい過疎っている。リスナーが誰もいない時が多い。それでも構わないのは、そういう配信も必要だろう、という面もある。もし過疎っているのがイヤならば、人様の配信に顔を出して「営業」をして、内容やトークを過疎らないように「マーケティング」して工夫すればいい。
自分を人様に合わせること。世の中のニーズに合わせること。それをして、自身の「無個性」に悩んでいるとしたら、私からすれば本末転倒である。
周りの空気を読んで生きていれば、つまり、思考を人様に合わせていれば、自分の思考、つまり、独自性、個性が希薄になっていくのは明白であろう。多分、多くの人は、人気があって個性もあることを理想としているのだが、私からすれば虫のいい考え方で、せめてどちらかに割り切って行動をしていけば何らかの結果が出るのではあるまいか。

他者の認知によって自己を規定することは、自身を他者に委ねることを意味する。だから、常に自身の在り方が揺らいで安定しない。だから、自身の在り方が分からなくなって、不安になっていく。

プラモデルのいいところは、自己満足の閉じた世界で構わないところで、プラモデルを作って売るモデラーもいるけど、私は自分が制作したプラモデルを売ることにまったく興味がない。自分の作りたいプラモデルを、自分の作りたいように作ればいい。そのことに誰も文句を言う必要はないし、私も言う必要がない。困った時に、私よりも詳しいモデラーの意見を聞けばいいだけで、例えば、筆塗りよりもスプレー塗装がいいと言われても、無視しちゃえばいい。「塗装は筆塗りに始まり、筆塗りに終わる」というのは、有名な言葉のようだが、私はそれを実践しているだけなのである。
実はこれは、写真であろうとも、絵であろうとも、創作全般に言えることである。写真は下手で構わない。むしろ、下手を目指した方がいいとさえ、私は常に考えている。それなのに、多くの人は写真で上達を目指す。

去年に続いて、今年も模コンに作品を送って参加したいと考えていて、これで応募しようかな、というアイデアがすでにある。

昨日注文してまだ手元に届いていないプラモデルキット

ジブリの「風立ちぬ」に出てきた夢の中の飛行機を筆塗りして、写真を撮って参加することになるのではないか、という予感が私の中である。
この飛行機を作りたい理由は、組み立てやすいだろうことと、私の塗装にピッタリだろうと頭の中で具現化したからで、パステル色の筆塗りをしたらカワイイな、と頭の中で組み立てて分かった。実際に制作してみたらイメージと違っていた、ということも十分に考えられるが、まぁ、制作を楽しんで、出来がよかったら模コンに出せばいい。

この飛行機のキット、Amazonでほぼ半額なのは、きっと、人気がなくて売れないからだろう。このプラモデルも私同様に人気がなくて過疎っている、ジブリ映画のプラモデルなのに。
これはたまたまだけど、こういうキットが狙い目ではある。認知度が高いけど、作る人は少ないから。さらに、私のように塗装をする人が少ないので、勝手にオリジナリティが出てしまう。
私は紅の豚の赤い飛行機をカッコいいと思っていて、でも組み立てるのがちょっと大変そうだな、零戦を赤く塗ったから赤い飛行機はしばらくいらないかな、というところから、二郎の夢の中に出てきた飛行機のプラモデルに行き着いただけなのだが。

一番大事なのは、1人で楽しくプラモデルを作って、プラモデルについて楽しく語ること。そういうことを続けていると、プラモデルに興味を持つ人がちょっとは出てくる。実は、私がプラモデルを作る前に、とある高校生をガンプラ沼に沈めたことがあって、今も嬉々としてガンプラ制作を続けているから、年末年始、本人に、美プラ沼に沈む未来を予言しておいた。

正直、心底自分が楽しんでいれば、他人なんてどうでもいい。絵だって描いているだけで楽しかったら、それでいい。ネットに惑わされていけない。楽しいは正義。人生は楽しんだもの勝ち。
そして、楽しむのも、人生も、自分のものであって、人様のものではない。それでは自分だけで他人がいないから寂しいんじゃないか、と思うかもしれないが、本当にコトに当たり充実していれば、他人なんて気にならない。つまり、絵を描くことに夢中になり、プラモデルを作ることに熱中していれば、他のことは取るに足らない些事になる。
人生を心底から楽しめれば、寂しくなんてないだろう。私にとっての理想の人生の在り方はここである。問題は、いつでも理想の人生を送れないことで、私だって寂しい時はある。寂しいなんて誰にだってある。これはもう、仕方のないことなのだろう。仕方のないことで悩んでいても仕方がない。だから、仕方がない。
調子がいい時があれば、悪い時もある。寂しいから、悲しいから、辛いから、創作に没頭出来る、という一面もある。それはもう、作用反作用なのだろう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?