沙耶

無料:槍の鞘 第壱章 母と娘、そして故郷


冬来れば生けるものをば閉じ込むる
焦がるるは雪のさらさら流るるを
微かなる春の兆しを待ちわびて
強き想ひは春見なりけり

『貴賤希嘆百撰 巻之四 春見の条』より


 凍てついた如月の風が吹きすさぶその小さな村は、大きな湖の畔にあった。水鳥が舞う水面は、日の光を受けて眩しく輝いていた。湖の中程には小さな島があったが、村人はその島の存在を忘れているかのように日々暮らしていた。島には住まう者など居ないように見受けられた。実際人が暮らすにはあまりに小さく、険しい岩肌が船を寄せるのを拒んでいた。だが正しくは島には小さな洞窟が有り、奥にちっぽけな祠が一つあった。
そこには裾が短く切り取られた冷たい水色の着物を纏った、髪の短い美しい少女が居り、洞窟の中から毎日湖を眺めていた。名は春見沙耶という。今の沙耶にとって世界と言えばこの洞窟と小さな祠だけであった。村人皆揃って自分がそこに居るべきと決めつけ、沙耶も真の理由をよく理解せぬままその総意に従ってきた。

1枚目

「ここで静かにさえしていれば、村のみんなが平和に暮らせるのね。」
畳三つ分の狭い部屋で沙耶はこう思って自分を納得させ、自身を幾重にも取り巻く事柄を深く詮索するのをとうの昔に諦めていた。

今朝は珍しく一羽の水鳥が、群れからはぐれたのか洞窟の中に飛び込んできた。食べる餌も無い洞窟の中を祠に向かって滑空すると、沙耶の膝の上に降り立った。沙耶は鳥を抱いてみようと両手を差し伸べるが、鳥は俊敏に沙耶の手をかいくぐり、再び外へと旅立っていった。沙耶は心の中で思う。
『なぜ私はあのように自由に舞えないの、なぜ村の人は自分たちの価値観を一方的に押しつけて、私をこのような所に押し込めるの?』
今まで深く考えるのを躊躇っていた大きな疑問が、今日の沙耶の心中を占めるようになった。

 そんな物思いに耽るうち、後ろから沙耶に声がかかった。しかしその声は決して沙耶に友好的では無いものであった。
「とっとと朝餉を食べなさいよ、沙耶。」
振り向くと女が膳を持って彼女を睨み付けていた。齢は三十半ば頃、村を纏める神社から遣わされた彼女の目付役であった。沙耶の食事と最低限の世話をする為に朝と夕に小舟で島を訪れていた。
「まったく私も貧乏くじを引いたものね。あんたのような気味悪い娘の世話をしなきゃいけないなんて。」
女は嫌みをぶつけるが、沙耶はここに来てから今まで女を無視し続けていた。女は沙耶を一方的に忌み嫌うばかりで意思を通わす事など不可能と分かっていたからである。
「分かったらとっとと食べてしまいな。早くここを出て帰りたいんだよ。ああ、ほんとに気味の悪い。」
普段なら沙耶は黙って膳に手をつけるところであったが、今日は違った。
「なぜ…私はここに居なきゃいけないの?」
意思を通わす事の出来ないはずの女にふと掠れるような声で語りかけた。女は酷く驚いて、そして慌てて言った。
「なぜだって?あんたは村中に忌み嫌われた存在だからよ。八年前の事を忘れたとは言わさないよ。」
「八年前…そう八年前。」
まだ幼い沙耶を襲った村の長の息子。暗い部屋の片隅に押し込められた記憶。そして男を振り払おうとかざした手から無意識に放たれた氷の礫…。
「あれは私が悪いんじゃない。私は襲われたから身を守っただけ。」
「いいや、あんたは若旦那様、今の長様に傷を負わせた。だから母親共々村八分になってここに閉じ込められたんだろう。」
女は沙耶に一片の理解も示そうとはしなかった。そしてこれは女だけでは無く村人全員の総意である事も頭では理解していた。しかし理解することと受け入れることとは異なる。沙耶は八年余りそれを受け入れることは無かった。ただ決断を先延ばしにしていただけであった。そして今が決断の時だと、その時ふと悟った。沙耶は膳を床に置き、立ち上がると女を見据えた。
「な、なんだい? 私に反抗する気かい?」
女の言葉を無視し、沙耶は女を見据え続けた。その目には八年間無かった強い意志が宿っていた。
「反抗するなら仕方ないね…。私が宮司様から特別に遣わされた巫女だということを忘れたかい?」
女は懐から符を数枚取り出した。
「いざという時はこれを使ってあんたを縛り付けていいと宮司様からお許しを頂いているんだよ。」
「やってごらんよ。もし言う通りに出来るならね。」
沙耶は悠然と女を睨み続け、女は数歩下がって符を沙耶にかざした。
「あんたは宮司様によって全ての霊力が封じられている。そしてこれで体中を縛り付ければあんたはもうお終いさ。そして私の役目も終わる。せいせいするってもんだ。」
女は言いたいことだけ言うと符に念を込め、沙耶に振りかざした。すると符は女の手を離れ、沙耶の自由を奪うべく、ひらひらとゆっくり宙を舞った。
「私の力を封じてるっていうのはこの布切れ? ならこうするわ。」
沙耶は両手首と両足首に巻き付けてられていた包帯に順に手をかけ、そして引きちぎった。包帯は細かい布の切れ端となり、床に散らばった。
「そ、そんな、宮司様の封印がこんなに簡単に解けるなんて…。」
次に沙耶は右手を前に突き出した。すると沙耶の首飾り、正確には首飾りに刻まれた水仙の小さな花の紋様が、天空の星が舞い降りたが如く輝きだした。女はその眩しさに思わず目を閉じた。再度目を開くと、沙耶の手に大きな鞘が嵌まった、首飾りと同じ水仙の紋が刻まれた白銀の槍が握られていた。沙耶がその槍を軽く払うと、ひゅうと鎌鼬をはらむ氷のように冷たい風が吹き、全ての符を破いた。鎌鼬は女まで届くことは無かったが、その冷気は女の頬を掠めた。女は酷く取り乱し、甲高い声で叫んだ。
「そんな…宮司様、宮司様!」
そして一目散に祠から走り去って行った。恐らくは岸壁の小船まで逃げて、村と宮司に報告するだろう。しかし沙耶はそのようなことは一切気にしなかった。そして自分自身に言い聞かせる。
「誰に習った訳でもないのに、私には水と氷の術が使える。私は自分で自分の身を守れる。自分が弱ければもっと酷い目に遭うかもしれない、でも自分自身の意思が強ければきっとこの村から出る事が出来るはず。」
それは過去の沙耶には無かった新鮮な心の輝きであった。そして改めて湖を見返してみた。洞窟の内側には外界に至るまで、彼女を縛り付けるために隙間無く幾重にも符が貼られていた。今までつぶさに符を見る事は無かったが、それは八年の間に綻びを見せており、容易く取り払えるように思えた。沙耶は槍から手を離して両手の掌を洞窟の壁面にかざすと、呟いた。
「氷槍の鞘が命ず、符よ、直ちに失せよ。」
すると先程とは違う強い冷気が渦巻き、びっしりと貼られた洞窟の符を一枚一枚剥ぎ取っていった。符が効力を失い全て地面に落ちたのを確認すると、沙耶は両手を組み合わせて複雑な印を結んだ。
「水面よ、凍てつき我が道を成せ。」
今度は湖の水面が一本の細い道のように凍り付き、島の洞窟と村の湖岸を結んだ。これで沙耶と村、ひいては外界とを隔てるものは無くなった。沙耶は状況を確認すると自分に語りかけた。
「これから私は新しい人生を踏み出す。失われた八年間を取り戻す。村人が止めようとするなら、術を使ってでも押して通る。私の意思をもはや誰にも邪魔させない。あの水鳥のように新しい世界に羽ばたいて行く!」

 沙耶は自ら作った氷の道を、しずしずと陸に向かって歩き始めた。氷の上は冷たく滑りやすい筈だが、沙耶は極めて自然に歩を進める。対岸では荒くれた傭兵共が待ち構えていた。
「あの者を岸に上げるな!あれは氷の魔女だ、女だからといって遠慮はいらん!」
荒くれ者共のずっと後で大声を上げる者がいる。まだ若さに溢れるその者こそ八年前に沙耶を襲った村の長の息子であり、現在の長であった。沙耶はその声を聞いた途端、永久凍土のような凍てついた視線を長に向けた。沙耶の視線を受けた長はたじろぎながら、荒くれ者共に言う。
「その娘が欲しかったらくれてやるぞ、早い者勝ちだ!」
沙耶はそれを聴いて眉を顰めた。いつまでも女というものにだらしなく、物扱いする歪んだ性格は八年間治らなかったと見えた。荒くれ者達はそれを聞き、下卑た笑いを脂ぎった顔に浮かべた。
「汚らわしい。」
沙耶は言い捨てると歩を進め、彼らの手に届こうとする直前で歩を止めた。そして朗々と告げる。
「そこをどきなさい。どかないと痛い目に遭うわよ。」
荒くれ者共の目には、この細い体の娘が到底自分たちに敵わないと映った。次の瞬間、沙耶の目の前に居た二人が、毛むくじゃらの腕で沙耶を捉えようとした。残りの者も遅れじと彼女の元へ突進した。
「身の程知らずめ、受けよ、我が雪結塵(せっけつじん)!」
沙耶が右の掌を男達に向けると、柔らかな掌から細かい雪の塵が激しく吹き付けた。瞬く間に雪中遭難したかのような姿になった正面の男共は、あまりの冷たさに無様に地面に転がった。その後ろまで来ていた他の男達も顔面に雪の塵をまともに食らい、息も絶え絶えにその場に蹲った。沙耶は役立たずな傭兵達を尻目に堂々と岸に上がると、長を守ろうと槍と鎧で武装して現れた青年達に言った。
「次は、その物々しい槍を持った坊や達かしら?」
青年達の背後に回って安全を確保した長は、続いて喚く。
「今こそ青年隊の武勇を見せるときぞ!相手が如何なる邪法を使おうとも、宮司様の神聖な護符で守られたそなた達に決して敵うまい!」
沙耶は長の言葉を無視する。
「君たちが槍を使うなら、か弱い女の私も当然使うべきよね。」
沙耶は、刀身が鞘に隠れたままの氷槍「霜華(しもばな)」を下段に構え直す。先程の荒くれ者共とは明確に異なる、統率の取れた青年部隊は滑らかに沙耶の左右に分かれて各々の槍を中段に構えた。
「鶴翼の陣、という訳。兵法を勉強したのね。でも私には前後左右全て死角は無いの。残念だけど。」
沙耶は大雑把に勢いよく槍を振り回した。すると鎌鼬をはらむ氷のように冷たい風、いや小規模の台風が沙耶を中心にして発生した。鎌鼬は青年達の体に切り傷を付け、零下数十度の凍結した風が傷口をなめる。その激痛に耐えられた者はおらず、全員痛みを我慢できずに地に倒れ伏した。それを見た村人達はもはや烏合の衆に過ぎなかった。沙耶は槍を持ったまま仁王立ちになり、守る者の居なくなった長に問う。「さて、残りは貴方だけね。どうなさいます、戦いますか、逃げますか?若き村の長様。」沙耶は冷酷な声で問う。長は震えながら言う。
「こ、氷の魔女め…。私を亡き者にするつもりか。」
「いいえ、寿命が来るまでこれから何十年も苦しみを背負って生き続けて貰います。私と、私のように貴方の食い物にされた娘達の分を、ね。」
沙耶の目が冷酷さを増したその時、遠くから壮齢の女性の叫び声が聞こえた。
「沙耶、もう止めなさい!誰を相手にしているか分かってるの!」
沙耶にとって決して忘れ得ない、彼女の母であった。母は娘の沙耶の罪を一身に背負って、村八分を受けていたのであった。
「誰をって、私を手籠めにしようとした男よ。それが今の村の長かどうかなんて関係ない。」
「何てことを言うんだい! 長様が居られたからこそ村は平穏に保たれた。感謝こそすれ槍を向けることなんて出来るはずが無い!」
「母さん、娘が可愛くないの?」
「母さんはね、あんたをこんな冷たい娘に育てた覚えはないよ。小さい頃のあんたは優しい女の子だった。今からでも遅くない、長様に謝りな。そして罪を償うんだよ。」
「母さん…。長い間会わない間に『そっち側』に染まってしまったんだね。」
「何を言ってるんだい?あんただってこの村の娘でしょう、村の決まりを守らないでどうするの!」
沙耶はそれ以上言葉を紡げなかった。育ての親である母が、自分を洞に押し込めた連中と同じ意識、同じ感情を共有していることに目の前が真っ暗になるようであった。

 泣き濡れる母の横から、母より少し年を重ねた、古式ゆかしい服を纏った女が現れた。女は沙耶に向かって言う。
「確かに長は女にはだらしない。でも先代に続いて村を守ってきたのは事実。貴女の入っていた祠も、長の治めるこの村の一部よ。」
「宮司様…。」
母はその女のことをそう呼んだ。
「そして、この母のたっての望みで、八年間も毎日毎日貴女に食事を運んであげたのは、一体誰かしら。」
「それには感謝しているわ。私の手首足首と洞の入り口にびっしり封印の符を貼って私の自由と法力を拘束さえしてなかったら、ね。」
「村の平和の為のやむを得ない措置ね。でなければもっと早くにこの騒ぎになっていたでしょう。もっとも封が思ったより早く朽ちたのと、貴女の法力の成長の早さは見誤っていたけど。」
二人の会話は平行線をたどるばかりであった。
「結局はこの腐りきった村の擁護か。そうよね、貴女も長同様に村人を搾取して生きているんだものね。」
「村人の尊敬を一身に受けていると言って欲しいわ。」
「貴女が何を言おうと勝手だけど、私は理不尽なこの村を出る。それでいいでしょう?」
「長と私を差し置いての勝手は許されない。抗うなら、成敗するのみ。」
そう言いながら宮司は袖口から数枚の符を取り出した。
「祠の端女に渡しておいたのは、簡易拘束の符。巫女のなり損ないに強大な力を持つ符は渡せないわ。これは私が神前で作った炎の符。その綺麗な肌に火傷をつけてあげます。」
「出来るものならやってみなさいよ。」
「後で恨まないでね!」

2枚目

宮司が気を発すると、符は宮司の手を離れ、円形に沙耶を囲んだ。同時に凄まじい火柱を発した。沙耶には逃げ場が無かった。
「女同士で気が引けるけど、村の掟を破る者は成敗する。」
火柱は徐々に沙耶に近づき、彼女の頬を焼く寸前にまで達した。
「法術で作り出した火、っていうのが面倒くさいわね。普通の水をぶっかけても収まらない。ならこうしましょうか。」
沙耶は持っていた氷槍「霜華」に気を込めた。すると穂先の鞘が勢いよく外れ、刀身が露わになった。
「私の霜華を、なめないでほしい!」
沙耶は中段に構えた霜華を炎に突き刺し、左から右に鋭く切り裂いた。刀身には穴が空いており、そこから、先程青年達を襲ったものより遙かに大きい鎌鼬と氷の礫が生まれた。法術で生まれた氷の礫は、同じく法術で生まれた炎の熱で溶けるが、大量の水と化し符を濡らし鎮火していった。そこに鎌鼬が襲いかかり、炎の符を切り裂いた。沙耶が一回転すると、彼女を取り巻いていた全ての炎は鎮火し、切り裂かれた符は地面に落ちた。沙耶は再度宮司を睨み付ける。

「もうこれで終わり、って訳はないよね。」
「ええ、楽しみはこれからよ。」
宮司は掌を上に向けゆっくり持ち上げる。それに呼応して、燃え尽きた符の破れ散った灰が宮司の前に集まり、丸い球を形成した。
「灰にもまだ使い道はあるのよ。」
宮司は言うと、掌をぐっと握った。すると灰で出来た球が発火し、人の背丈ほどもある大きな火球を形成した。
「火傷を付けるなんて悠長な事は言ってられないから、自慢の槍共々丸焦げになっておしまい!」
宮司はありったけの気を掌に注いだ。すると火球は沙耶を襲うべく真っ直ぐ滑空した。沙耶は押し黙ると、霜華を中段に構えて火球に向かって突進した。
「霜華、我が身と一体となり氷柱(つらら)となれ!」
沙耶が叫ぶと体の周囲が青く輝き、まるで一本の氷柱のように火球に突き刺さった。火球が霧散して無くなると同時に、霜華の切っ先は数歩向こうの宮司の喉の寸前まで達していた。沙耶がその気なら既に喉笛を掻き切っていただろう。沙耶は手元に霜華を引き、続けて言った。
「私は殺しをしない。例え私を封じた張本人の貴女も例外じゃ無い。そう祠の中で決めた。だけどあの件の被害者だった私を、八年間も封じてきた罪は負ってもらいます。」
「どうやって?」
そう言ったのは宮司では無く、一部始終を見ていた村人の一人であった。他の村人達も冷めた目で、勝ち誇った顔の沙耶に続けて言った。
「子供の頃からお前はいつも内に篭って人付き合いが悪かった。」
「自分にとって心地のいいことばかりに逃避して都合の悪い事、辛い現実には向き合わずにいた。」
「場の流れを読まずに勝手ばかり言って我々を困らせて来た。」「人にいつも猜疑心を持ち、批判を正面から受け止めようとしなかった。」
「そして都合が悪くなるとお若い長を色目で誑かして逃げた。」
「なのに長がちょっと色気づいた途端に掌を返し、怪しげな術を使って傷を負わせた。」
最後に宮司が言い放つ。
「それでいて自分のことをありふれた普通の人間だと思っている。それはもう人付き合いが悪いというものではあり得ない。これだけの理由があって、どうして貴女が村人の好意の対象になんかなれるか。貴女が祠に封じられたのは我々がその力を恐れたからでは無い。不適切な人物に強大な力が宿ったからよ。封印されてきた理由を履き違えるな、春見沙耶!」
沙耶は思い出した。若い長に襲われて無意識に氷の術を使い、宮司に封じられた八年前のことを。

..........

『私は襲われたから、だから…。』
暗い部屋の隅ではだけた着物を押さえ、齢十一の沙耶は泣きながら訴えた。しかし誰も聞く耳を持たなかった。集まった村人は口々に言った。
『春見の娘め、よりにもよってここで覚醒したか。』
『もう面倒見切れないわね。』
『宮司様を呼んで、忌まわしき力を娘ごと封じ込めよう。』
呼ばれて現れた宮司は言う。
『ちょうどいい、厄介者は今のうちに封印して湖の祠に幽閉する。罪人の印である咎切(とがぎり)を着せ、生まれ持った霊力を封じる巻符(まきふ)を手首足首に施してね。』
『待って、襲われたのは私なのにどうして刑罰を負わせようとするの?』
沙耶は叫ぶが村人達は無視して宮司に同意する。
『そうしたら私達はもう顔を見なくていい。』
『これでそのまま朽ちてくれれば御の字だよ。』

..........

沙耶が八年前を思い出しながら立ち尽くしていると、ある女が沙耶に石を投げた。続いてその子供が投げた。徐々に石を投げる者が増え、沙耶に当たるものもあった。沙耶は槍の石突きでこんと地面を叩いて薄い結界を張り、それから石は沙耶に当たらなくなったが、村人は石を投げ続けた。皆険しい表情をしていた。宮司は続けた。
「これが我々の意思よ。お前がこの村に居たら迷惑しか生まない。気が済んだらさっさと出て行くがいい、この疫病神め!」
沙耶は絶句して言葉を紡ぐ事が出来なかった。自分が村人から疎まれている事は承知していたが、ここまでとは思っていなかった。祠に封じられて村と隔てられてきた孤独な時間が、今より却って良かったのではとさえ思った。
「出て行け」
「出て行け」
「疫病神め、出て行け」
村人たちも宮司の言葉に同調して各々言い始めた。その横で沙耶の母は俯いていただけであった。沙耶は気がついた、母は八年間この苦痛にずっと耐えてきたのだ。
「全部、全部…、私の…私自身のせいなの?」
沙耶はここに来て、自分の心の奥底にある暗い闇を見つけたような絶望の表情を浮かべた。そこに先程までの勝ち誇った気負いは欠片ほども残っていなかった。やや置いて、若い長が告げる。
「沙耶、君が村を出て行くのは自由だが、君の母親はこのまま村で預かる。私達には君に対する人質が必要だ。むざむざ君に村を滅ぼされたくはない。その代わり彼女の村八分は解く。今後は自由な暮らしを約束しよう。」
母は何も言わない。沙耶も何も言えなかった。しばらくして、母はゆっくり、諭すように沙耶に言った。
「沙耶、私に遠慮なくお行き。色んな土地で見聞を広めなさい。そして全ての地を巡った後にこの村と母の事を思い出すのなら、いつか戻ってくるといい。それはあなたが決める事。私の事は気にしなくていいからね。」
母の説諭の後、宮司は続ける。
「話は済んだか、春見の母娘よ。ならば春見沙耶には今日の夕刻、日が沈む頃に村を出てもらおう。それまでは神社の一室を貸してやる。せめて最後の別れを惜しむといいわ。」
母は答える。
「ありがとうございます、宮司様。せっかくのご厚意だ、そうさせていただきましょう、沙耶。」
沙耶は何も言わず、宮司と母の勧めの通り、神社に向かった。

 通された神社の南側の一室で、母と娘は僅かな語らいの時間を持った。
「祠は寂しかったかい、沙耶?」
「そうでもないよ、母さん。ひとりの方がかえって気楽な事が多かった。物事をじっくり考える事ができたから。」
「そう。あなたは子供の頃から何かに没頭したら脇目もふらずに熱中していたからね。」
「母さんはどうだった?ひとりで寂しくなかった?」
「母さんは生きるのに一生懸命だったからね。それでもいつかあなたにもう一度会える事をずっと考えていたよ。」
「ありがとう、この村でそう言ってくれるのは母さんだけだよ。私は村のみんなに嫌われてるから。」
「そんな事ないわ。あなたは、皆と協調する事を少し知らないだけ。だから遠慮なく旅に出て、他の生き方を探っておいで。村の外の世界で人がどう生きているか見ておいで。そしてあなたの生き方を変えるべきかそうでないか、じっくりゆっくり考えて。その上でこの村に戻るかどうか判断したらいい。母さんはいつまでも待ってるよ。」
「その頃には母さん、お婆ちゃんになっちゃうね。」
「違いない。でもヨボヨボになっても考えたり見たりする事は出来る。あなたと語ることも出来る。だから一旦私の事は忘れて、行っておいで。」
「わかった。わがままを聞いてくれてありがとう。絶対に帰ってくるからね。」
「待ってるよ。それと春見の家は数代に一度、あなたのように氷槍「霜華」を受け継いだ氷の術に長けた者が現れる。でもそれは、次に来る季節が春、春を願い待つという願いが込められているの。それを決して忘れないでね。」
「初めて聞いたよ、そんな事。」
「あなたが帰ってきたら言おうと思ってたの。それとその氷槍「霜華」の鞘、それはあなた自身よ。強大な力を使うか使わないかはあなた自身が判断しなさい。それが槍の鞘たるあなたの役割。ただし、みだりに力を行使することは、ゆくゆくは自身の身の滅びにつながる。これだけは肝に銘じておいて。」
「わかった。」
「春見の家に連綿と受け継がれる強大な霊力は、人々に春をもたらす力。人を傷つける力ではない事を胸に刻んでお行き。」
「ありがとう。絶対に忘れないね。」
久々の母娘の会話は、日没まで及んだ。日が完全に沈むと、宮司が現れた。
「もう話は済んだかしら?」
母は答える。
「はい、宮司様。もう十分すぎる時間を頂戴しました。私達に思い残す事はありません。」
沙耶は黙ってすくっと立ち上がると履物に足をかけた。最後に沙耶は振り向かずに言った。
「母さん、じゃ行ってくるね。宮司、あんたにも迷惑をかけてしまったね。長にも迷惑をかけたと謝っておいてちょうだい。」
沙耶は振り返らないまま、神社の鳥居をくぐって外の世界へ向かって行った。宮司は愚痴をこぼす。
「最後の最後まで捻くれた娘ね。でもあなたと話して多少は心境の変化があったのかしら。あの子が私達に謝るなんて今まで一度も無かったから。」
「申し訳ありません、宮司様。でもあの娘、根は真面目でよい娘なんです。人との接し方が下手なのは私の育て方が不十分だったからです。お許しください。」
「いつ帰って来るのか知らないけど、その時にどう変わっているのか、楽しみではあるよ。子を育てるのは何も手元に置くばかりではない。可愛い子には旅をさせよ、とも言う。私もその時に備えて腕を磨いておくか。」
宮司と母は、日の沈んだ後に現れた星々を見上げていた。

挿絵 Kaori.

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槍の鞘 第壱章「母と娘、そして故郷」

作:小束弓月
Illustration:倉田理音(日常レスノオト)
コンセプトデザイン:絹井けい

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