他者の理解って、どゆこと??➇'
※このシリーズは、他者の理解について、メンヘラ気味のオバさんが、世の中でうまく生きられるようにと、考えを深めていく記事です
※この記事は、➇の2個目です
「(ダッシュ20本走ったから)もう太ももが上がらない。」
「棚に、手が届いたわ。」
「晴れて気持ちがいい。公園まで、歩こう。」
「おなかが、空いた。」
「雨音が聴こえる。」
「寒い。」
動詞のように、身体を使っている言葉を、身体の言葉って言ってるの?と思われるかもしれません
確かに、そのとおりです
「雨音を聴く」は、少し分かりにくいですが、耳という身体(知覚)を使っていますね。身体というと、大きな動きを連想されるかもしれませんが、「聴く」も、耳という身体を使った(聴覚の知覚を使った)活動、ということになります
「もう太ももが上がらない。」は、逆に多くの人が、イメージしやすいんではないでしょうか。例えば、長い階段を上るとか…
神社なんかは、それが有り難みに感じられたり^^;;;
一番みなさんが、疑問に思われるのは、
身体じゃなくて、意識や意思の言葉でしょ?
ではないかと思います。「おなかが、空いた。」は、まさにそう感じられるかもしれません
空腹で、それで何かを食べたい!欲求(意思)があって、またそれを意識している。だから「おなかが、空いた。」と言っているのではないか?
意思、意識が、「おなかが空いた」と言っているのではないか?そう思われるかもしれません
ふふふ( ^ω^ )
→変なところですが、区切ります
他者の理解➇つづき