"見方"で変わるマイノリティの世界/米津玄師「優しい人」で考える差別心との向き合い方
私は、障害福祉サイトや日刊SPA!などで、主に、障害がある人や生きづらさを抱えている人たちの取材記事を書いている。
マイノリティ取材で感じる“疚しさ”
私はノンフィクションライターなので、マイノリティやその家族や支援者の方がおっしゃったことをほぼそのまま記事にしています。
マイノリティ取材をしていていると、ある種の疚しさ(やましさ)を感じるときがあります。
皆さんの小学校時代は分からないのですが、私は「障害がある人を差別してはいけない」は当たり前ですが「かわいそうだと思ってもいけない」と習いました。だけど、取材をしていると、壮絶な人生を送っている人はたくさんいて「私はこうじゃなくてよかった」「かわいそうな人だな」と思うことがある。そんな時、私の胸はチクッと痛み、疚しい気持ちになる。
米津玄師さんの密かな名曲「優しい人」
そんな時に出会ったのが、米津玄師さんの「優しい人」という曲。
歌詞は以下のようなものです。
“かわいそうな子”を差別も憐れんでもいけない
米津さん自身は私と同じように「そういった“かわいそうな子”を差別も憐れんでもいけない」と道徳の授業で習い、それなのに「醜い」「私じゃなくてよかった」と思う自分を責めたそうだ。
この歌詞を読むと胸がざわざわしませんか?
「あの子」「あの子を綺麗だというあなた」「私」の3つの視点
この曲には「あの子」「あの子を綺麗だというあなた」「私」の3つの視点がある。
“道徳を使い分けて”いるのは、いったい「あなた」なのか「私」なのか。「あなた」はただの善意の「優しい人」なのか。その「善意」に傷つく「私」は「悪い子」なのか?
マイノリティの方の取材をしているとこんな葛藤にかられる。私が記事にするならば、媒体によって切り口を変えるだろう。週刊文春では、きっと「あなた」の偽善を暴く記事が好まれるだろうな。障害福祉サイトでなら「あの子」の視点に立って、「あの子」の悲しみを書くな。今、連載をしている日刊SPA!でなら、「私」の視点で、読者に答えを求める。「かわいわそうと憐れむ私は悪い人間なのでしょうか」と。
切り口を変えると全く別のストーリーに
こういったように物事って、切り口を変えると、全く別のストーリーになる。「優しい人」も立場によって、この歌詞の3人の誰なのか、意見が別れる歌詞だろう。私は「私」の立場で葛藤し続けながら記事を書いている。
誰が正しくて、悪人なのか善人なのかは時代や立ち位置によって、変わる。普遍的な「正しさ」や「善悪」なんか存在しない。
だけど、多くの人が「いい親でありたい」「正しい人間でありたい」などステレオタイプの人物像にとらわれて苦しんでいるとよく感じる。
私が考える差別心との向き合い方
私はその「疚しさ」から目を逸らさずに考え続けることが誠実だし、差別心との向き合い方なんじゃないかと思っている。
それなので、ひたすら極端に盛ることも、大げさに書くでもなく、活字にして「あなたはどう思う?」と発信している。
そう、答えは100人いたら100人通りあるから、正解なんかないからだ。
きょうだい児問題に対する色々な視点
昨日、「きょうだい児」に関する記事が公開になった。
Yahoo!のコメントランキング最高3位でなかなかランキングが落ちずに賛否が別れたこの記事。
「親が酷い」「自分も同じ境遇だ」「自由に生きて」「障害者なんかいなくなればいい」などなど
様々なコメントがありました。
だけど、私は「福田氏のお母さん含めきょうだい児の親はそんなに悪人なのか?」とも思うし「きょうだい児って悲惨でかわいそう」とも思う。でも、それも100人いたら100通りの答えがあるのだと思う。
その意見と向き合っていくことが私にとっての「差別心との向き合い方」なのだけど、あなたはどうですか?
この記事を読んで、どんな感想を持つのか、コメントしてみて欲しい。そう思いました。
田口ゆう
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