生きてることに目的なんかなくてもいい

長男が大学生になった。私は彼ら(息子は2人)を生き物の飼育係として最低限の世話をする、だけで育ててきたので、結果2人とも自ずと自己を獲得して大人になりつつある、というように思う。
夫は私より遥かに良識ある人間なので、(とは言え私と結婚して子を設けている時点で世間一般からはズレているのだろう)時として激しく対立したが、親は2人なので私がやらないことで彼が必要だと思うことを彼がやれば良いのであって、結果、息子たちは持って生まれたものを極力損なわずに今に至っていると思う。

長男は保育園の頃から「みんながやっているから」というだけの理由でやらされるものごとを嫌った。運動会がその最たるもので、保育園で倉庫に立て籠り、小学校では全校練習の最中一人でブランコに乗っていたりした。管理教育甚しい公立中学では、「指導に従わない」という理由で軟禁され、私は学校へ出向いて「誰のためのなんのための指導なのか。学校が正しいと思うことを息子に施すのはアンタらの仕事だから大いに結構。でもそれをどう受け止めるかは彼の問題であって私には関係ない」と息子の目の前で啖呵を切って帰ってきた。

そんな彼が大学生になった。高校までの学業成績は壊滅的だったので、大学生になったのは奇跡的。とおそらく本人が思っているから、劣等感を持ちつつ自分との闘いに勤しんでいる。が、しかし。大学の課題が、「自分で考えてみよう」「やりたいことを見つけよう」「目指す将来のために頑張ろう」という方向のものばかりで辟易としている。

生きてることに目的なんかないんですよ。だって生まれてきてしまったのだから。なりたい自分がある人は、目指せばいい。でも、なりたい自分なんてない人は(私自身もそう)、物事を快・不快で判断していくしかないし、自分がより心地よい方はどっちか、という判断基準で生きていくしかない。という会話をした。

ただうちの息子たちは、小さい頃から「自分の欲求」を認識してそれを人に伝えて欲求を満たす、という「考える」ということの基本トレーニングを重ねてきた。だから大学のつまらない課題にも、それなりに対処できるのだが、彼が今ぶつかっている壁は、チームワークというやつでもある。
「どうしたらいいかわからない」とか言って何もしない奴がたくさんいる。と憤る。
そらそうだ。多くの子は「考える」経験をしないまま大学生になっている。大学生になっていきなり「自分で考えよう」と言われても困るだろう。

つまり息子のフラストレーションは、既に獲得した自己があるのに今更自己実現を求められることであり、目的なんかないのに目的を求められることであり、(彼にとっては)必要のないことを考える能力を持たないチームメンバーと考えてプレゼンしろと求められることにある。

なぜ世の中はこんなにも頑張ることを強要し、幸せを画一化するようになってしまったのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?