正論と反発の正体

「人に正しいことをいうときは、少し控えめに言うといい」

祖父が口癖のように言った言葉である。ここでいう「正しいこと」とは、正論を指す。題にある「反発」とは、「正論に対するもの」と限定したうえでの話である。

 最近、私や私の周囲には沢山の変化がある。その変化には、心躍るものから重苦しいものまで、多様な色があるのだが、私はそれらの変化に接するたびに、ひたすらに心の深層を覗くように心掛けている。そうすれば大体(あくまでも大体)の原理は想像が(あくまでも想像だが)つくものである。

 そうしているうち、「反発の正体」が見えてきた。

 なぜ人は反感を抱くのか。反感の正体とは何か、考えてみていただけるきっかけとなれば光栄である。
 ある夜、母との会話のなかで、何かと何かがつながった感覚がした。それが何かは分からないが、あるものが不明瞭ながら光る感覚。まるで遠くの恒星が色を変え、輝きを増したかのような、不思議なものだった。次第にそれが反発の正体のことを指すと分かったとき、私は体の底から震えた。

 私は中学生のころ、何であれ信じることができなかった。それは後ろめたさか、あるいはこれまで成立すると信じてやまなかったプライドの崩れる音か、その状況であれ止まない欲求か…なんにせよそれらのものが、“いつの間にか”得体の知れない反発へと姿を変え、私を深淵へと誘った。

 だが、もう“いつの間にか”の出来事ではなくなった。「反発の正体」これは即ち、「ある面での恐れ」だと、はっきりとわかったから。

 正論は、時に必要なツールである。実際に、正論がないと回らない世界であるし、何より人々がいつも縋りつくものも、「科学」という「正論」ではないだろうか。
しかし、正論は「反発」も生む。人々の暮らしを支えるはずの正論が反発を生むのだ。

 ここで、私の祖父の言葉を思い出していただきたい。
「人に正しいことをいうとき」
即ち自分とは違う価値観を持つ人に、自分の正論を申すとき
「少し控えめに言うとよい」
即ち優しくオブラートに包むように、気付きを促すとよい。そうすれば、反感を買わずに(すんなりと)伝わりやすいのだ。
ということだろう。そしてこれが、反発の正体を表す最大のヒントだった。

 正論とは、うまく機能すれば最高のツールである。しかしながら、正論をもって指摘される場合、指摘された側は一種の恐怖を覚える。その恐怖とは、自分の存在性の危機を感じる、恐怖である。
正論というのは、正しいものである。言ってみれば、正しすぎるものである。この世に最適解は存在しない。まして、人が少なからず自分の価値観に従って生きている中で正しさを追い求められれば、自分の行動の問題を否応なしに突き付けられる。その瞬間、人はある思考をするのではないだろうか。

 ある意味での防衛本能。悪く言えば思考回路の暴発。
ある問題が露見したとき、その問題が今の自分自身では改善のしようもない矛盾を抱えていたら、自分自身を支える防御の殻が正論に破られ、刹那、自分の存在が消滅してしまうかのような恐怖を覚える。その綻びを覆い隠して、それ以上の攻撃をされぬように、自分を精一杯に大きく見せる。そうして相手をひるませようとするあまり、「防衛」が「反発」になる。その後は思考が停止し、結果的にこじれる。これが、正論の後の最悪のパターンであると、私は考えた。ではどうすれば、正論を活かせるのか。

 私は、正論が悪いとは思わない。日常生活において多用すれば大問題だが、答えのない大問題を扱う会議や、アカデミックな議論をする場において、正論は一種の火付けの役割を担う。とくにディベートなどでは、ある観点から見て正しすぎるからこそ、違う観点から見れば腸が煮えくり返る思いであり、結果的に議論の最高のスパイスとなるのではないだろうか。

 しかし、会議などで正論を言われて何もしなければ、状況は最悪である。言われたほうはモヤモヤし、言ったほうは肩透かしを食らったようになる。

 会議などで正論を言う場合、大抵論者は思いをぶつけるためだけに言うわけではない。論ずる者は、相手の感情を解き放ち共に議論を高めんとして、“あえて正論を使う”のである。たとえそこで議論が平行線をたどろうと、相手が正論に応じればディベートは大成功、成果は何倍にもなる。

 ここで面白いのは、正論を述べるものは正論を受ける覚悟をして述べているということだ。正論を述べるのは、誰しも恐怖がないといえば嘘になるだろう。それでも論者は、正論を述べるという挑戦によって、魂の場を作るのである。それほどの覚悟をもってして初めて、議論と呼べるのだろう。朝まで生テレビの田原さんを見ていると、アホらしく見える応酬も頭がすっきりとするのは、互いに尊敬しあい、それでもぶつかる覚悟の上での応酬だからだろうか。

 ここまで長々と心の動きについて書いてしまったが、あくまで私の専門は「環境・農業・食・交通・地域・地理」である。しかしながら、私の探究は必ずしも万人に受け入れられるものではないだろう。特に環境問題などは、私たちの生活が持続可能でないものであること、批判を恐れない言い方で言えば、自分も含めた人間生活が「みんなが平等なはずな生態系の中にいるのに、虚構の力を誇示して粋がっているヤンキー」のようであると伝えなければならないからである。

 そこで私が正論を言えば、皆さんは目を背けない自信をお持ちだろうか。すぐそばに迫る禍を直視し、回避するために生活を転換する勇気をお持ちだろうか?

 私自身、このことを伝えるのが怖くないといえば、嘘になる。でも私は、11年農作業をやって、生き物の声を聴いた。聴いたからには伝えていきたい。だけれども私は、人に伝わりやすい表現が苦手である故、このような回りくどい考察をせねばならない。


だが、心の深淵を覗いて腹が決まった。探究者として、すべきことをしていく。私の人生の、意味である。

 2400文字を超えそうな勢いだが、私の日記とでも思って、頭の隅に入れておいていただき、社会課題の報に触れた際には、うっすらと思い出していただけたら、幸いだ。

 令和3年1月23日
         伊藤迪

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