私は私でいいと私が認めること

人と向かい合う時、影絵のように、人の光で私のシルエットがむき出しにされるように感じる。

今日は週明けということもあり、保育園ではいつも以上にやる気スイッチが入っていない、年少の女の子がいた。
まるで‘ 甘えさせて〜 ’と心の声が漏れ出るような目線、‘構って〜’と言っているようなゆっくりとした行動。そして保育士に厳しく注意されれば、顔をくちゃくちゃにして涙を流す。
どうやって関わればこの子の力を伸ばせるんだろうとため息が出そうになりながら、すこしイライラしながら声をかける。
‘次は歯磨きだよ。だから歯ブラシ準備しよっか! ’
余裕があれば優しく声をかけられるが、自分が忙しく余裕が無いと、語尾が強くなるような言い方もしてしまう。
その時は、この女の子のことを考えて言葉を掛けているのではなく、自分の気持ちをただ吐き出して、ぶつけて気持ちを晴らすために言葉を吐き出しているなと感じる。後悔。

いつになったら、心も大人になれるのだろう。

もう1月は終わった。2月だ。
2月3日、月曜日、天気は曇りのち晴れ。

いきなりだが自分が自分のままでいいと思えることは、何をする上でも大事だと思う。スポーツでも、仕事でも、生きていく上でも。
いわゆる、自己肯定感、または自己効力感とも言われるやつだ。
私はこの自己肯定感が割と低い。たぶん要因は、育ってきた環境によると思う。
私の場合は、だが。

私はひとりっ子で小さい頃は5人家族。父、母、母方の祖母、母方の祖父と同居していた。父は婿養子だ。サザエさんでいうところのマスオさんである。
ところがそのマスオさん(要は父だ)は波平(これは祖父だ)と、とても仲が悪かった。幼い頃に2人が喧嘩して、父が祖父にコップの水を掛けたり、みんなで食卓を囲む際はピリピリした雰囲気があったりしたことを今でも覚えている。そんな中、一人っ子の私がどうしていたかと言うと、父や祖父、母や祖母の機嫌を伺い、私がどう行動すれば家族仲が円滑に進むか考え行動していた。だからわざとおどけてみたり、父がイライラしていたあとは側にいて笑い話をしたり。まあそんな健気な私の気持ちは、家族には伝わっていなかったみたいだが。

そして幼い頃の母との関係は、自分でもよく分からなくて、一言では言い表せない。
別に普段そんなに叱られていた訳では無い。テストで良い点数を取ったり、何か良いことがあれば褒めてくれていたとおもう。だが、ピアノの発表会で失敗したときは、あとから車で叱られた。あんな恥ずかしい演奏、初めてだ。と。
かなりショックで、ただ失敗したショックだけではなく、それをフォローして貰えなかったショックで、かなり泣いた。笑
そういう、私が失敗したときフォローしてくれるのではなく、責められ叱られるという経験はかなり辛くて忘れられない。自分が自分でいるのがとても辛くなるのだ。早く消えたい、と。

そういう経験が何度かあるからか、失敗を恐れ、周りに余計な気を遣い人の機嫌を伺うような面が私にはある。

私は自己肯定感が低い。そして大人になってからこれを得るのは、全く容易ではない。だって鏡を見れば可愛くない私がいて、気をつけていても仕事でミスしてしまう自分がいて、変にプライドが高くて人の機嫌が気になってしまう人間だから。

それでも明日が来るから、楽しいことを見つけて、自分なりになんとかやっていくしかない。
歳をとると、それなりでも、私は私でいいのかなって思える瞬間は増えできた気がする。


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