痛みと母と性愛と:宇佐見りん『かか』雑感

宇佐見りん『かか』を読んだ。痛みによって親子がひとつの身体を共有しているような状態を描くのはやはり女性である。それはたとえば町屋良平『ほんのこども』で描かれるあべくんの暴力による痛みのつながりとは異なるし、大江健三郎が『飼育』や『芽むしり仔撃ち』で書くような少年たちが受ける殴打の痛みとは異なる。千葉雅也は『デッドライン』で確か(正確な引用ではないが)「薄い紙で指を切ったような」痛みを書いていて、千葉さんはこういう官能に直接届くような、いわば身も蓋もない、それ以上言い換えようがないと思わせるような比喩が上手であるけれど、この痛みはまたここまで挙げたような痛みのどれとも違うように思う。しかしどれも性的な何かを伴うような表現であることは共通しているのではないか。

『かか』の話に戻れば、痛み=女性であることを通じて母と娘が一体となり、さらに娘は自分が母の痛み=女性であることの「原因」(自分が生まれたことによって母は処女でなくなった)という罪を背負う。こうした強い愛と憎悪の力によって母と娘はくっついたり離れたりの強烈な運動を見せる。そこに弟(「おまい」)と明子という従姉妹(明子は母を亡くして同居している)、そしてSNSでつながったり離れたりする友人たちという様相の異なる他者たちが配置されている点がこの小説の巧みなところなのだと思う。特に弟と明子という位相の違う他者を配置したことはとても上手だと思う。

ちなみに、「親知らず」という名前の歌がいくつかあって、チャットモンチーと関取花の「親知らず」は親知らずの痛み(チャットモンチーのほうはその怖さ、関取花はより直接的に痛み)によって親を思う歌なのだけれど、長渕剛の「親知らず」は痛みを否認して退行した上で自閉的になる男性の姿である。母と娘の女性的な痛みの表現を見るたびに私はこの対比を思い出す。しかし『女の痛みはなぜ無視されるのか』で提起されるように、女性の痛みを女性の中で同一のものとして女性以外にとって特殊なものとすることには抵抗したいとも思う。

宇佐見りんが『かか』で描いた母は幼児的でかつ娘を飲み込むような母であり、娘はその母に対し一体化と拒絶、愛と憎しみを共に抱く。こう書いてみるとそのような母像・子供像は精神分析家メラニー・クラインの理論にその源流を辿れるように思う。父との葛藤を描いたフロイトに対して子を喰らう母を描いたクラインを対置すれば、ここにも男性と女性の対比が現れる。男性の描く母が慈愛に満ちたものになるのは例えばリリーフランキーの『東京タワー』に典型的なように思う。男性は子を飲み込むような母の欲望を描かない。男性の描く母は「母」としての表象であって他者ではないとも言えるかもしれない。この辺りは男性の描く性愛が官能小説のようなつまらないものになりがちなのと通底しているような気がする。白岩玄の『たてがみを捨てたライオンたち』はいわゆる男性性から降りていく(降りざるをえなかった)男性たちを描くけれど、この短編集は性愛を描かなかったと言ってよくて、個人的には男性性から降りていく男性の性愛というものがあるのではないかと思っていて、この小説はそれを描かないことそのものが男性的だなあと思った。男性の描く性愛が「セックス」という行為の表象の域から出ない傾向にあるということなのかもしれない。

そんな中で千葉雅也は男性同性愛を小説的に特異な形で描いていておもしろかった。また、信田さよ子が『家族と国家は共謀する』の中で二つほど外国映画を挙げ、息子に対して母を異質な他者として描くものとして解説していた記憶がある。この映画は私は見ていないのだけれど、こういう古典的な男性性とは異なるものを見られると嬉しい。

痛みが何かの代理や隠喩ではなく痛みそのものとして描かれること。性愛が何かの代理や隠喩ではなく性愛そのものとして描かれること。母が何かの代理や隠喩ではなく母という他者として描かれること。そしてそれらが完遂できずに頓挫したり混じったりすること。そこに何らかの特異なものが現れるのかもしれない。宇佐見りんの『かか』は痛み、性を通して他者たる/他者になりきらない母という存在を描いた点でおもしろくて、それが女性の視点からなされたことが示唆的なのだけれど、その小説が「おまい」という弟(男性)を宛先として書かれているのがおもしろいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?