日記2024年1月①

学位審査の発表会に向けて準備をしないといけなくて、やらなければならないことはたくさんあるのだが、全然やる気がしない。そういうわけでまた日記を書く。

1月1日、妻は仕事があった。子供がトミカショップに行きたいと言うので東京駅まで二人で出かけた。地下街にあるのだ。プラレールショップと隣り合わせに。さすがにこの日は空いていた。トミカショップでは自分でボディとシートの色を指定してその場で組み立ててもらうトミカを買い(800円)、プラレールショップでは東京モノレールのプラレール(6050円)を買った。うちではなんとなく大きなおもちゃと小さなおもちゃを分けていて、大きくて高いものは頻繁には買えないことになっていて、この日も今日これを買ったらしばらく大きいのは買えないけどいいのと訊いた。当然子供はうんと言って、買った。うちの子はなんだか買い物欲が強くて、しかし親としても身に覚えのある欲なので割と一緒に欲望に流されて買ってしまう。帰りにKITTEの千疋屋で何か食べようと思ったけど閉まっていた。お正月である。

帰りの電車内で北陸の地震を知った。今被災したらどうしようかと日の暮れれつつある車窓の景色を見ながら考えた。子供と二人だったから、まず自分たちのことを考えた。どうしたらいいかわからなかったから、きっと本当に被災してもどうしたらいいかわからないだろう。電車から降りるときにはもう暗くなり、気温も例年より暖かいとはいえ冷えてきていた。やっと被災地の人のことを考えることができるようになり、しかし余計に言葉にならない。

1月2日は子供の希望でディズニーシーに行った。明日は誕生日で4歳になるので、3歳最後のディズニーで、無料で入場できる最終日ということになる。シーは子供にとって初めてである。電車に乗ったり船に乗ったりした。初めて小さなジェットコースターに乗って、もしかしたら泣くかと思ったけど「またのりたい」と果敢に言っていた。夜のショーは花火がちょっと怖かったらしい。夜のゴンドラに乗ったら、ちょうど花火のタイミングで海に出られて、橋の下から見える街灯の灯りが連なる街並みの上空に花火が上がった。テーマパークだから、そういう感動のために仕組まれたものなのだけれど、でも人生にはあるタイミングであることが起こって、偶然の重なりが特別な体験を生むことがあり、それは人為だろうと自然だろうと変わらず、しかもそういうことがあるのだと体験しなければ知らない。子供が3歳最後の日にそういうたまたまを得られたならよかったと思う。ディズニープリンセスのドレスが欲しいと言うので買った(16500円)。帰りの電車ではまたいつものように寝たけれど、空いていたので座席に子供を横たえて寝かせた。横になると3人分の座席を跨ぐほど大きいので驚いた。子供を横にするとその長さに毎回新鮮に驚くことができる。

羽田の飛行機事故をその後知った。衝突した海上保安庁の飛行機が被災地へ飛ぶ予定だったと知ったのは翌日だった。

1月3日が子供の誕生日で、私の両親と姉が家に来てお祝いをする予定だったのだが、姉がインフルエンザ、父が体調不良(父はずっと働いているがいつも調子が悪い)ということで全員キャンセルとなった。実は前日のディズニーシーにも母と姉が来る予定だったのだが来られず、前日から子供はがっかりしていてパッとしない誕生日になった。不完全な誕生日になってしまったことが悔しかったようで、ケーキを用意したけれど「今日はお誕生日じゃない」「お誕生日はおかあさんでしょ」と言って祝わせてくれず、最終的に泣いてしまった。誕生日がクリスマスに近いので、クリスマスは子供の欲しいものを、誕生日は親のあげたいものを贈る形にしていて、うちの子は親のスマホで写真を撮るのが好きなので今年は子供用のデジカメにしたのだけれど、「もっと大きいのがよかった」と言って放り投げていた。

しかしまあこうなるのもわからないではなくて、この日は親も疲れていて、妻は風邪も引いていたし、私は小一時間ほど昼寝をしてしまったし、妻も咳がひどくて声が出なかったりして、3人揃って遊ぶことができない時間が多く、揃ったと思ったら親のタイミングでケーキを出してきて勝手に祝い始めたりして子供もペースが掴めなかったのだと思う。子供は親が片方しかいないときには実はかなり気を遣っていて、親が二人いるときに我慢していたぶんを出す。親が一人だけのときには外出中に抱っこを要求することは少なくて、がんばって歩くのだけれど、親が二人いるときには家を出て20メートルで「はあ、はあ、疲れた」と言い始め、25メートルで足を止めて「抱っこ」と言う。子供なりに親に負担にならないように甘えようとしている。この日も、親が二人揃って存分にわがままを言いたくなったところにケーキとプレゼントが出てきて、怒り散らすことで甘えていたのだと思う。カメラを開けて渡したら今度はとても喜んで歓声をあげながらたくさん写真を撮っていた。

しかしこう書いてみると普段通りというか、子供は幼稚園でがんばって優等生をやって家では親に無茶な怒り方をして叩いたりするし、かと思えば急に大騒ぎして楽しそうにする。親はそれにがんばってついていくが、疲れるし傷ついたりもするし怒ることもある。それらもすべて親子ならこそ、家族ならこそのことだ。子供は親にだから無茶を言うし、親も子供にだから傷ついて怒ったりする。そういうものである。私も十代の頃は、家族と言っても他人だし、子供を大人扱いする大人がいい大人だと思っていたのだが、ことはそう簡単ではなく、まずどうやっても親と子供、大人と子供という非対称な関係が絶対にそこにあって、子供も自分が子供で親が大人だから安心していられて、大人になろうとも思えて、親も相手が子供だから一生懸命子供についていき、安全を守り、同時に自由を守るという不可能な課題に挑める。本当に対等な大人同士であれば安心は相互に確保するものだし、理不尽には付き合わないで放っておく。しかしそうではないから人は育つことができる。私は親になるまでそういう大人の苦労がわかっていなかった。大人は子供がどうやっても子供でありどうしても子供として扱わなければならないと知ったうえで、勇気を持って子供を自由にさせる(子供はどうやってもコントロールできないので諦めているという側面もあるのだが、しかしその一種の諦めにこそ勇気がいる)。尊重とはそういうことで、どうやっても子供扱いしなくてはならないから努力して大人の部分を見なくてはならないし、反対にどうしても大人扱いに逃げたくなるから相手が子供であることを決して忘れてはならない。そういう綱引きが尊重なのだと思う。

子供は母から送られたいちごと柿を独り占めしてたらふく食べていた。

1月4日、日本トラウマティック・ストレス学会の災害時の資料や、サイコロジカル・ファーストエイドの資料をネットで見たりしていた。こういうときの精神科医にできることというのは多くないけれども、決して少なくもない。それは要するにとても難しい働きが課せられているということだ。中井久夫は「翌日の医者」という言葉を使った。精神科病院改革の最前線に駆り出された患者がその翌日に調子を崩すことに対して、中井久夫は改革の前線に立つよりも「私は〈翌日の医者〉になる」と言ったのである。中井久夫の臨床と政治の態度については「臨床の臨界期、政治の臨界期――中井久夫について」(松本卓也、『現代思想2022年12月臨時増刊号:総特集=中井久夫』、青土社)でよく語られている。中井久夫が阪神大震災でのトラウマ対策を指揮した根っこにその経験があったことはきっと間違いない。必死の緊急事態の〈翌日〉、日常に戻りたいけど戻れない、その間隙に医者の働く余地を見つけたのである。中井久夫の「災害がほんとうに襲った時」という文章が公開されている。今回の震災でまた読む価値があると思う。http://lnet.la.coocan.jp/shin/shin00.html

夜、お腹が痛くてトイレに座っていたら、廊下から「おとーさんっをかっじるっぞ、はっはっはあー」という歌声が少しずつ近づいてきて、子供がドアを開けて齧りついてきた。噛まれたらゾンビになるそうだ。

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