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大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(3)「人間±α」を乗り越える思想が必要

ここまで2回にわたり、大型類人猿を擬人化することについて考えてきました。現在では、大型類人猿に服を着せたり二足歩行をさせたりといったあからさまな擬人化をほどこすことはかれらの保全に悪影響があることが明らかになり、それが実体でない画像などであっても批判の対象となります。その一方で、そのような擬人化を批判する研究者の一部が、おそらくは大型類人猿の尊厳や本来的価値を強調し保全を訴える目的で、大型類人猿を「一人二人」と数えたり「男性・女性」というなどの擬人化をほどこしています。これは同じ穴のムジナであって、私はどちらの擬人化にも賛成しないことは、前の記事で説明しました。

今回は、少し冷静になって、私たちが大型類人猿(もしくはヒト以外の霊長類全般)を擬人化してしまうのはなぜか、を考えてみます。そのために、近代社会が歴史的に大型類人猿をどのように位置づけてきたのかを簡単に振り返ってみましょう。

相反する大型類人猿観

「高貴な野蛮人」のメタファー

最近、イギリスのフェミニストであるローラ・ブラウンさんによる「Homeless Dogs and Melancholy Apes: Humans and Other Animals in the Modern Literary Imagination」という本を読み始めました。その冒頭に、近代初期において、大型類人猿が文明以前の「高貴な野蛮人」のメタファーとして使われていた事例が紹介されています(まだ冒頭しか読んでいないので、それ以降どんなことが書かれているのか知りません(汗)。後日紹介するかもしれません。)

19世紀初めに出版された「Melincourt」という小説に、「オラン・ホートン卿」という紳士が登場するのだそうです。オラン卿は強靱な肉体と優しい心をもち、ヒロインの女性のピンチを救います。しかし実は彼はもともと、森で発見された、自然人(natural and original man)の標本だったのです。ですが、ほどなくして彼には知性も備わっていることがわかり、Sirの称号が与えられたのでした。

森の野生動物のごとき強靱な肉体と、文明に穢されていない美しい心を兼ね備えた自然人に、小説の作者はオランウータンみたいな名前をつけました。ここでは、大型類人猿に対して楽園を追放される前の原初の人間の姿が投影されています。

同時に、森の標本から「オラン卿」への昇進という筋書きには、自然人たる大型類人猿にヒトと同じような待遇を与えようという思想と似たものを感じることも可能です。大型類人猿は「准人間」です。

「劣等人種」のメタファー

一方で、ボリア・ザックスによる「ナチスと動物」には、「類人猿は西欧の文化では長らく顰蹙の対象だった」と書かれています。この本は、ナチスの思想を動物に対する態度、政策から読み解こうというもので、とても面白いです。世界で最初の動物愛護、自然保護の法律はナチスによるものだったのだとか。

この本によると、西欧にはナチス以前から、また進化論以前から、大型類人猿を人間以前の劣った存在とみなす考えが存在しており、必要以上に大型類人猿を野卑で醜悪な存在として扱ってきたといいます。そのような顰蹙ものの大型類人猿イメージは、サーカスにおけるチンパンジーの滑稽なパフォーマンスによって増幅されていたのでした。

そして、大型類人猿を見下す感情は、そのまま人種差別と結びついてゆきます。つまり、大型類人猿はそれ自体が顰蹙の対象であることに加えて、西欧人が劣った人種とみなす非西欧人やユダヤ人のメタファーとなる。そして進化論(あるいは社会ダーウィニズム)の登場により、それが単なるメタファーを域を超え、あたかも人種差別にまがいものの科学的根拠を付与していったのでした。

百年一日、変わらない大型類人猿観

こうして過去を振り返ってみると、21世紀の私たちの社会における大型類人猿観って、実は19世紀とほとんどかわっていないのだな、と思わずにはいられません。

前回記事で紹介した、チンパンジーを「1頭2頭」ではなく「ひとりふたり」と数え、「オス、メス」ではなく「男性、女性」と呼ぶ人々は、まるで「Melincourt」の登場人物のようです。一方、現代社会には、他人を貶めるのに類人猿を引き合いに出す人々もたくさんいます。ジョージ・ブッシュアメリカ大統領のさまざまな表情の隣に、それとよく似たチンパンジーの顔写真をあしらった風刺画像(?)が出回ったこともありました。私も実はそれをはじめてみた時には「うまい!」と思いましたが、今思えばブッシュ氏とチンパンジーの両方を貶める悪趣味な画像です。

しかし、いったいこれはどうしたことでしょうか?当時から現在までの間に、大型類人猿に関する学術的知見は実にたくさん蓄積されてきたというのに、私たちの社会の大型類人猿観はぜんぜん変わっていないのです。

ヒトとよく似たヒトでない存在

もっとも、私自身、自分の中にこのような相反する大型類人猿観が存在しているのを実感します。そして、研究をすることでこれらから自由になれている感覚もありません。観察をし、データをとって、先行研究を調べていても、中立客観的な大型類人猿観には到達できず、むしろ両方の観念が強化されていくようです。それでも対外的にある程度中立的に語れるのは、心の中で二つの観念のバランスを取っているだけに過ぎません。

どうやら私たちは、大型類人猿のようなヒトに「近い」存在に接したとき、ヒトと対比することから逃れられないようです。そして、ヒトと大型類人猿の差異を測るのに、「優れた—劣った」「よい—悪い」などといった、価値観をたっぷり含んだ物差しを使わずにはおれない。つまり、「ヒトと似て非なる存在」を「ヒト±α」としてしか捉えられない。

私は、なんとかしてこの「大型類人猿=ヒト±α」という観念を克服したい。なぜなら、その先にこそ、以前の記事で触れた、「大型類人猿の本来的価値」を論じる可能性が見えてくると思うからです。

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