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26歳ー自分が主語の時間を

25歳になった昨年の誕生日、以下の文章を書いていた。

“生活のためにすべきだと言われることはたくさんある。でもそれに踊らされず、自分が幸せに生きるためになにをするか。なにをして、なにを諦めると決めるか。その純度を25歳の今年は高めていきたいと思う。”

25歳ー生活と生きる、諦念と選択

この文章から1年。わたしは26歳になった今もまた、「純度高く生きる」ことの難しさに格闘しながら日々を送っている。

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すでに1週間以上過ぎているが、2月23日、26歳になった。

数年前、「書くこと」を通し自分の心の輪郭を掴むことができ、次第に心が軽くなっていった経験から、「書くこと」をいつか本業にして行きたいと思っていた。

そんな理想を前に、目下にある自分のスキルや生き方はほど遠くて、何者かになりたいのになれなくて。その歯痒さを抱えながら、ただ毎日書くことに向き合うことしか解決策が浮かばず、昨年、25歳になったころは毎日noteを更新していた。その時の感じたこと、考えたことをただ必死に書く。そんな日々を通して紡がれた言葉が、上の「生きること」だった。

あの頃の文章には、人生に対する焦りや不安が産んだ、どろっとした生温かい感情が乗っていて、最近はどうも見返すことが怖かった。今読んだら、あの頃期待した自分になれていないことが明るみに出るのではないか……そう思ったらどうにもこうにも読むことができなかった。

それでも、いざ年齢を重ねたその日、「26歳」という単語が醸し出す自分の勝手なイメージと現実の違いに少し落ち込んだ。そして、26歳までの手触り感のある自分の歩みを実感しておきたくなり、恐る恐る25歳初日の手記を開いた。

まだ引き続きもがいていることももちろんあるけれど、確実に去年から変わることができている部分もあった。いつか、また自分の歩みを確認しておきたくなったときのために、26歳になった頃の手記も残しておきたい。

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25歳、仕事を変えた。「書くこと」をどうにか本業にできないかと転職活動をし、回り道をしながらやっと叶えることができた。共感する考えを持つ組織で、広報・マーケティング担当者として働いている。オウンドメディアに載せる記事を企画執筆したり、セミナーの運営をしたり、組織のイメージを表す写真撮影のディレクションをしたり、忙しくもやりがいのある、楽しい毎日。今までエッセイしか書いてこなかったが、念願の取材やインタビュー記事にも挑戦することができた。

本業以外にも、ライティング講座を受講したり、Webメディアにも寄稿したりすることができた。素敵だと思っていた友人にも取材ができ、記事に対して本人から嬉しい言葉をもらうこともできた。

25歳になったあの日から比べれば、想像もできない変化だ。今いる環境にものすごく感謝しているし、今この地点から続く未来にとてもわくわくしている。

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それでも同時に、どんなにやりがいのある、楽しい仕事をしていても、自分自身を見つめる時間を取らないと、心は少しずつのっぺりとしていってしまうのだなとも思うようになった。自ら話すことが苦手なわたしは、自分を主語に、何をしたいのか、何をどう感じたのか、何に心が震えたのか、それらに向き合う時間を取らないと、25歳の時に掲げた「純度高く生きる」様は簡単に遠ざかってしまうのだと、「生きるうえでの純度」は自分で意識的に保っていくしかないのだと、そう感じている。

書くことや企画を仕事にすることができて、作ろうとするコンテンツをどうしたら伝えたい相手に正確に過不足なく届けることができるのか、日々考えながら仕事をしている。特に、今までは自分を主語にしたエッセイしか書いてこなかったため、組織や取材相手を主語にしたコンテンツ作りには、日々難しさを感じている。相手の伝えたいことを汲み取り、表現に乗せていくこと。仕事に就く前には想像できていなかった、自分の心から真っ直ぐに出るものではないものを表現することと格闘する毎日だ。

それでも、インタビュー記事などに何度も何度も救われてきたし、取材相手に納得してもらえたり喜んでもらえたりするコンテンツが作れた時の嬉しさはひとしおだということを実感しているので、いつかもっと、誰かの心に響くような自分以外が主語のコンテンツを作れるようになりたいと心から思う。この理想に向かって頑張る日々は断じて苦などではない。

しかし、誰かを主語に考える日々が続くと、頑張っている自分はいるけれど、そこの記憶がないような、もがいていたのに、振り返るとさらっとした日常だったような、歩んだ日々と感情にギャップ覚えるようになった。自分を主語にしない時間が長いと、自然と心の輪郭が掴みにくくなり、どこかに置いて行かれているような感覚があった。

今までは、願った仕事につけていないことが、願った生き方をできていないことが、心の違和感に結びついているのだと思い、そんな心情を書くことで昇華させていた。だから「書くこと」を仕事にできれば、きっとそれで満足されるのだと思っていた。

しかし、どんなに願った仕事ができていても、仕事が楽しい日々でも、毎日ザクザクと自分の足で刻みながら歩み続けるためには、自分を主語にして言葉を紡いだり、何かを表現する時間がわたしには必要なのだろう。五感を使い、心の輪郭を認識しないと、また性質の異なる違和感を抱いていくのだと知ることができた。

わたしは、まだどうしても自分で自分の文章を書いていくことでしか、五感を研ぎ澄ませて、感動を胸に深く刻み、存在を意識して生きていくことができない。感覚を震わせ、心を使い、自分の感情を表現できる言葉を増やすことが、きっと今のわたしにとって、すこやかに生きることにつながるのだ。

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最近読んだ文章の中に以下の言葉があった。

“言葉は自分の心を表しているようで、実は心を規定している。自分の心を的確に微細に表現する言葉を持っていなければ、まるで四捨五入をするかのように、大まかに心を振り分けることしかできない。”

地球以外の場所で、ひとりぼっちでものを書く人たち

日々、言葉を増やし、できるだけ自分の心を正確に見つめ、それを余すことなく、自分で認識すること。そう生きることが、きっと純度高く生きることにつながるのだろう。そして、いつかもっと生きることが働くことによりつながるようになっていったら嬉しいなと思う。

自分が主語の時間を意識的に作ることーーそれが、今年の課題なのかなと思う。

そう思い、今週から週に一度はエッセイをしたためていきたいと思います。この意志を来週も、来月も、数ヶ月後も忘れないように、マガジンを作成しました。マガジンのタイトルはもっと良さげなものがあるだろうなと思いながらも、思いつかない土曜日の夕暮れです。

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