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25歳ー生活と生きる、諦念と選択

25歳になった。20代後半、アラサー。身に纏う言葉が変わり、それこそ色々な適齢期がより高らかな足音を立てて近づいていることを認識しているのだけれど、どこかそこまで歳を重ねることに(今のところは)ネガティブな感情は感じていない。

誰だったか忘れたが、いつしかのバラエティ番組で、ある女優さんが「早く30代になりたかった」と言っていたのを見て、以前は全くもって理解できなかったのが、今はなんとなくその気持ちもわからなくない気がして、少し自分でも驚いている。

なんとなく自分の中で歳を重ねることを楽しめるような風向きに最近変わってきているような気がする。

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新年の目標など立てられるタイプでは全くないのだけれど、珍しく「25歳、“生活すること”より“生きるということ”を意識して、諦めることと選び取ることを覚えたい」そんなことを考えている。

わたしの中での区分として、「生活すること=寝て食べて、お金を稼いで使って、日々を過ごすこと」、「生きること=自分の身体を用いた感情や感性に正直に日々を歩むこと」と、なんとなく両者は違うのではないか、そう感じている。

生活のために、日々働き、お金を稼ぎ、衣食住に気を巡らせる。一方、本を読んで救われたり、高価だけど好きなインテリアを買ったり、そういうことは生きるためにしているのではないだろうかと最近思う。

今までは、大学を決めるのも、就職先を決めるのも、どこか自分の生活をすることを優先しできたような気がする。四年制大学の法学部に入ったのも、なんとなく就職に強そうだった(そして就職をして不自由ない生活を望んでいた)からで、今の就職先に決めたのも結婚や出産をしても働きやすそうだったという理由もひとつにある。結婚や出産ができるかもわからないのに、わたしはいつかの生活を考えて、いつも選択していた。

就職してから、今の会社ではキャリアアップが難しいと考えて調べ始めたのは「手に職をつける」ということだった。具体的にはWebデザイナーやプログラミング。心の底からやりたいという強い思いはなかったのだが、「これらはきっとできるようになった方がいい」といくらかのオンラインスクールに投資した。しかし、いざ受講を開始すると、モチベーションがなく続かなかった。お金を払ったっきり、向き合おうとしてもすぐに心が遠のいてしまい、結果としてお金を葬ってしまったことが幾度とあった。

スキルを身につけることは必要だとわかっていながら、なぜわたしはここまで向き合えないのだろうかと自己嫌悪に陥っていたが、きっとこれもわたしは生活をするために身につけるべきだと考えていて、そこに存した自分の感情に目を向けていなかったのではないかと思う。スキルを身につけた後に見たい世界や、やりたいことがなかった。

これから先も、日々を過ごし、生き抜かなければいけない。そのためにはもちろんお金は必要で、やりたい仕事だけでなくやりたくない仕事もして、お金のやりくりをして、買いたいものも我慢したりしないといけないこともある。そこを否定するつもりは毛頭ない。

それでも、今わたしは生活をする以上に、「なにが幸せに生きるということなのか」ということに向き合いたいと思っている。それはわたしにとってみれば、日々積読を更新し、その中で本を読み、その他のコンテンツにも触れ、自分でも感情と向き合うために言葉を紡ぐこと。世界観や考え方が本当に好きだと思えたところで働くこと。そんなところが浮かんでいる。決して、長く同じ会社に勤めたり、とりあえず稼げることを行ったり、マンションを買うために貯金をするとかではなく、毎日心穏やかに、それでも自分の存在を感じ日々考えながら生きたいと思っている。

そのためにも、生活のために「すべきだ」と思って取り入れ、それでも有耶無耶になってしまっている物物を今は進まないのだと諦めて、今生きるにあたり心が前向きに動いている物物に目一杯向き合いたい。そう、諦念と選択をうまく使い分けて生きていきたいと思っている。

生活のためにすべきだと言われることはたくさんある。でもそれに踊らされず、自分が幸せに生きるためになにをするか。なにをして、なにを諦めると決めるか。その純度を25歳の今年は高めていきたいと思う。

なんかそう、「幸せに生きる」ことの純度ばかり考えていたら、年齢はそう怖いものではないのかもしれないと思い始めてきた。世間も大切だけど、自分の声をギリギリまで聴き続けることは強く生きれると思う。

そのためにもまだ今のところは毎日書いていきたいのである。

今まではその日の23:59までに更新することを目標にしていましたが、最近難しくなってきたので、その日起きてから寝るまでに更新しようと思います。

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