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「まとまらない言葉」とともに

この前の金曜日、仕事で自分が中心に進めていたとある記事企画が頓挫しそうになった。自分なりに丁寧なコミュニケーションを経て作っていた企画書を、関係者に確認依頼したところ、思ってもいなかったフローが新たに関わることになり、また企画が振り出しに戻りそうになったのだ。

わたしにとっては最多の人数が絡む新たな挑戦であった今回の企画。微かな不安を常に抱きながら、それでも「やるぞ…!」という気持ちをもって進めていたが、その振り出しに戻されそうな引力を察知したときに、どこか自分の中でも咄嗟にブレーキが踏まれた感覚があった。この企画への不安感が増したような、「そもそもなんでわたしがこの企画やってるんだっけ?」「この企画本当にやりたかったんだっけ?」と考えてしまうような、今までそれなりに頑張ってきたからこそ自分の中で少し燃え尽きてしまった感情があった。

その後、部門マネージャーと進め方を相談。そもそもこの企画のオーナーは誰だったのか(他部署からの依頼が発端だった)、この企画を最後まで中心となって進める人は誰なのかを明確にした上で、わたしの想いを再確認し、進めようとなった。

引力を察知してから、数時間「わたしはこの企画を本当にやりたいのだろうか(何があっても最後まで進めていけるだけの熱量があるだろうか)」と一人静かに考えていた。ただ、「やりたい」と言うには不安があり、「やりたくない」と言うには後々きっと後悔するだろうなという確信じみたものがあり、心の中はグラデーションがかっていた。

だから、そんなまとまらない感情をジャーナリングするように文字に起こしてみた。「コンテンツとしての魅力は本当に実感していて、自分自身も読んでみたいと心から思っていること」「ただ、進めるにあたって、自分がハンドリングし続けられる自信が足りないこと」「それでもやりたくないとは言い切れないこと」など、グラデーションをなぞるように、文字にしていった。それは実に1,000文字を超える、本当にまとまりのない文章になってしまったのだけれど、おかげで自分の感情を四捨五入せず、真っ直ぐと認識することができた。

その後、勇気を出してマネージャーに送り、読んでもらったうえで、その夜に数時間話をした。「どこに心がぎゅっとなっているのか」という起点から、そもそもこのコンテンツってこの形式がベストなんだっけ?と話が進み、最終的にはよりよいコンテンツの座組みが見つかり、自分のやりたいと思う熱い気持ちも取り戻し、すこやかな気持ちで週末を迎えることができた。

自分の気持ちをまとまらないまま正直に表現することは怖い。1,000文字を超える文章を本当に送るのか、送ってよいのか、数十分は悩んだ。きっと受け止めてくれるだろうという絶大な信頼感を寄せていたマネージャーだということと、簡単にまとめてしまった感情を渡すよりも正直なことを伝えた方が仕事を行う上で誠実に思えたから、勇気を出した。あのとき、もしわたしが不安を押し殺しながら「やります」「やりたいです」と言ったり、自分のやりたい気持ちに蓋をするように「今回は自信がありません」と言ってしまっていたら、きっとその後しばらくは悶々としながら仕事をしていただろうな、と思う。もちろん伝える相手が自分にとってどんな人かという視点も大いに影響してくるが、自分であのときの気持ちを正直に認識して表現したことは自分にとって大きな一歩だった。

そんなことを思いながら、週末、三回目ワクチンの副反応である発熱と闘う中で数ヶ月読了できていなかった本を手に取った。今読むべきだと思った、荒井裕樹さんの「まとまらない言葉を生きる」。

この本は、「言葉の壊れ」に危機感を抱く筆者が、「言葉にまつわって存在する尊くてポジティブな力めいたもの」が感じられる言葉の実例を通し、警鐘を鳴らす。

この本では、多くのエピソードが、障害や病気とともに生きる人たちの言葉とともに綴られる。そこには記憶に新しい障害者施設での事件についても筆者の率直な想いが書かれていた。わたし自身、この事件を認識してから長い間まとまらない感情があったので、言語化してもらったような、救われた感覚も抱きながら読み進めていた。

いくつもの印象的な、心に残る言葉が残されていたが、あとがきに記された以下の言葉もそのひとつだ。

ただ、ぼくはこの「まとめられない」というのが嫌いじゃない。むしろ、ものすごく好きだ。この感覚は、喩えるなら「思い出の写真を整理する」のに近いかもしれない。大切な人と映った写真を見返していくと、その一枚一枚についてのエピソードはいくらでも語れるのに、一緒に映っている人の人生や、その人が自分にとってどれだけ大切かを言葉で説明しようとすると、なかなかどうしてうまくいかない。

この「うまく言葉でまとめられないものの尊さ」に、どうしようもなく惹かれてしまって、なんとかそれを言葉で表したいと願うのだけれど、それをするだけの能力と資格がぼくにあるのか……と、最初の問いに戻るというのをずっと繰り返している。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」

日常的に字数制限のあるSNSに触れたり、端的にわかりやすく物事を伝えるべきだという雰囲気で過ごしていたりするなかで、影響されてどうしてもすぐに簡単な言葉で意志や感情をまとめてしまいそうになる。表現できる言葉がストックにないという理由だけで、大切な要素であったものをボロボロと落としてしまうような、そんな経験は少なくない。

それでも、うまくまとめられないことに抗いながら、決してわかりやすい言葉に逃げず、こぼれ落ちてしまうことを受け入れながら、なんとか祈りを捧げるように言葉を綴る。そんな時間を持つことが、きっと感情とともに生きていくうえで必要なのだろう、と思う。

筆者がこうして「まとめられないというのが嫌いじゃない」「どうしても惹かれてしまう」と感情的に語ってくれることで、自分が綴るまとまりのない長い文章をこれからも受け入れられるようになるのだった。

誰かと協働していく上では伝わることが大切で、そのために端的にわかりやすく要約をして伝えることも必要である。しかし、ときにまとまらないことを、言葉の力を信じて伝える時間も、大切にしていきたい。

日中発熱と闘いながら寝ていたら、熱もだいぶ下がり、すっきりして考えが捗ってしまい、眠れなくなった日曜の夜更けに書いた文章。熱が下がってよかった。

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