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インターネットを通して、「相性」で出会う。

「社会人になると出会いが減る」とどこかの誰かが言っていたけれど、社会人三年目の終わりが見えてきた今、それはびしばし感じていて、本当に出会いがないなぁと思う。学生の頃は、学校以外にいくつかのコミュニティを持つことは比較的容易だったけれど、社会人になるとその難易度は一気に増した。

恋愛面だけでなく、交友関係においても、このままではダメだと、いくつかオンラインサロンなどに入ったり、1日のボランティアに参加したりしてみたが、昔のサークル仲間やバイト仲間のような仲に思うようになれないことが多かった。特に近頃は、外へ出ることも集まることもできなくなって、数少ない出会いの場はどんどん遠のくばかりである。

その影響もあってか、久しぶりに会う友人とご飯を食べた時の定例句、「最近(恋愛の方では)どうなの?」という問いかけに「まじで何もない」と、しばらく楽しい答えを出せないでいる。そして、全く面白みのない私の答えに、友人から「ほら、アプリだよ!」と言われる回数も増えた。

マッチングアプリなるものはここ数年で結構一般化してきたな、という印象がある。友人にも、マッチングアプリを通して知り合い、恋人となった人も、結婚した人も何人も知っている。「なんだかよくわからないけれどちょっと腰が引けるもの」という印象は年々薄れて、出会いの場の一つ、と理解している。

斯く言うわたしも1年ほど前に一度、あるマッチングアプリに登録した。24年生きた自分を短いシンプルなプロフィールに落とし込んで登録し、その後色んな男性のプロフィールを拝見した。笑顔の写真を載せる人、横顔の写真の人、肩書きが詳しく書いてある人、ざっくりな人、自己紹介文が長い人、短い人、本当にそれぞれだった。それぞれだったけれど、なんだかその人一人一人の雰囲気が、わたしはそれだけでは導きだせず、次々とプロフィールを横に流す自分がいた。

そのアプリでは確か互いに「いいね」を送り合えば、メッセージをすることができる仕組みだったが、わたしはそこに並ぶ男性のプロフィールにどう“良い”をつけて、どう“この人は違う”と判断すれば良いのかわからなかった。写真や、肩書き、ありふれた形容詞の性格で落とし込まれたその人に、なんとなく“良い”をつけた後に、なんだかすぐに“なんか違った”となってしまうような気がして、それが申し訳なくて、ほぼほぼアクションを起こすことが出来なかった。そしてわたし自身も、プロフィール上の自分と、今携帯の前にいる自分の乖離を感じ、”いいね“をくれた人もすぐに離れてしまうような心細さを感じていた。

一部、なんだかいいな、と比較的強く思った数人に、勇気をだして”いいね“を送ってみた。そしていわゆる「マッチング」して、何度かやりとりを交わした。しかし、なんだか会話が全く続かなかった。会ったことのない人に、どんな人かよくわからないその人に、なにを聞いて良いのか、どうすれば通じ合えるところまでいけるのか、その道筋がわからなかった。

そして、めんどくさがりなわたしは、物理上目の前にはいない彼らと会話を続けるということに頑張れなくなってしまい、たったの3日でそのサービスから退会してしまった。

だから、わたしはマッチングアプリを理解できるけれど、自分には合っていない、苦手なものだと思ってしまっている。

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外に出づらい、誰かと新しく出会いづらい時期だけれど、なんとなく誰かと出会うなら、対面で直接出会いたいな〜と、漠然とした、今出会いがないことに逃げているような気持ちを抱えた今日、以下の記事を読んだ。

なるべく自分から距離がないように、まだ形になっていない考え途中みたいなものを書いておいたり、欠けてこぼれた部分をぽろっと漏らしたりしていると、その自己紹介から伝わるものはわたし本人とズレがないようで、「仲良くなれそうだな」と思ってくれたときに、とても話が早いのです。
SNS上の発信と受信がリアルタイムでつながる感覚はほとんどないのだけど、時間をかけて出し続けた自己紹介と、勝手に受信し続けた誰かの自己紹介が、「相性」という形でゆっくり見えてくることはあります。
わたしがSNSで長くダラダラと自己紹介をしているのは、気があう人に会いたいからです。

この言葉を通して、わたしはこの二ヶ月の出会いを思い返した。

わたしはこの二ヶ月、その日の自分からなるべく距離のない言葉を、noteという媒体に書き続けた。それはいつも自分の言葉を、心の声を無かったことにしてしまいがちだから、それを大切にする目的があった。ほぼ、自分のためだった。

それが、始めた当初は月の全体ビューが10人だったわたしのnoteが、今日までの一ヶ月で13,456人の方々に読んでいただいた。ただの会社員の文章にこの1ヶ月で564名の方が「スキ」を押してくださり、ほぼお会いしたことのない60名の方がフォローしてくださり、そして私の言葉に「ファンです」「大好きです」「読んでいて安心します」とコメントやTwitterを通して言ってくださる方と何人も出会うことができた。

その方々との出会いは、マッチングアプリと同じくインターネット上の出会いで、顔も本名も肩書きもわからない方が多いが、それでもなんだかとても、とても安心できた。実際に、何名か反応をくださった方のnoteなどを拝見させていただいたが、わたしの日々と似たような波長を感じた。きっと、この方々にもし今後直接お会いする機会があっても、自然体で楽しい時間が過ごせるのではないかと思えた。わたしはインターネットで文字を積み重ねたことで、上記記事のサクちゃんさんと同じように、「相性の合う人」と出会うことができたのだ、と実感した。

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わたしはインターネットを通して出会うことが怖いのではなく、顔が見えないこと、本名がわからないことが怖いのではなく、「短い言葉」だけで出会ってしまうことが怖かったのかもしれない。年収とか、肩書きとか、百数文字の自己紹介文とか、そういう短い言葉ではなくて、ある程度の時間や文字数などを重ねた、「相性」という形で、誰かと繋がりたいのだと、そんなことを思う。ロマンチストなのか、いや、短い言葉だけで繋がった後”違った“と思う・思われることに怖いだけかもしれない。

それでも、こう誰かと直接会い辛い時でも、尊い出会い、繋がりは作れるんだ、と思えることは、すごい勇気をくれる。

出会い方も、人との関係の育て方も人それぞれだ。恋人や家族など、関係性に名前がついてしまっているものがあると、それが「ある」人と「ない」自分の差に、どこか泣きそうになることがある。それでも、わたしはわたしなりの出会い方があって、わたしなりに生きていたら世界のどこかに支えてくれる人がいて、そんな適切な名前がわからない関係に、支えられる。

これからも、いろんな言葉をまっすぐに発して、真っ直ぐに発せられた誰かの言葉を読んで、いろんな出会いをしたい、このインターネットの海で。

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そして今日も、だからか、Twitterの自己紹介文が定まらないのである。


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