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やさしく、強くあるということ。

今日、ふとYoutubeのおすすめとして流れてきたある動画を見た。

プールに1滴の牛乳を落とした濃度でもショックが起きるという、重度の乳製品アレルギーを持った少年とその母親に10年間密着した映像。医師の監修のもと、敢えて原因の食材を口にするという経口免疫療法でアレルギーと戦う彼の姿は、普段「食」は楽しみの一つである私にとって、とてもとても胸に来るものがあった。

経口免疫療法とは、医師の指導のもとアレルギーの原因となる食べ物をごく少量ずつ口にして、身体を慣れさせていき、耐性をつけながら量を増やしていく方法。

20分強という短い映像ではあったが、実際に彼が入院をして治療を受けられている場面も映されていた。慣れさせるために口に含んだ牛乳によって、彼が痒みや気持ち悪さ、息苦しさと戦う姿、それを必死に支えるお母さんの姿は特に胸に刺さった。

ある入院の時。顔が熱いと訴える彼。そんな苦しそうな彼にお母さんは「もう今日はやめちゃう?」と聞く。

すると彼は「落ち着いてたら頑張る」、量も「前回から減らさず、そのままの量で」と弱音を吐かない。

「お母さんが折れそうだわ」とふとお母さんの本音が漏れると、
「そんなにやめてほしい?」と彼が聞いた。

「やめてほ……」お母さんが言いかけて止まった。

そして3秒後、声色を変えて、「やれるならやりなさい」とお母さんは言った。

明らかに声色が違った。少し言い放つような言い方だった。ああ、やさしくて強いってこれか…と思って目が潤んだ。

・・・

ここからは私の憶測でしかないが、お母さん自身、彼が苦しむ姿を見ているのが相当応えていたように見えた。「やれるならやりなさい」と放った後にも、大きなため息をつかれ、下唇を噛んでいた。

実際に私も家族が風邪をひいたり熱を出したり、その看病をしているとき、自然と気持ちは沈むし、苦しそうな姿を見ていると伝染して苦しくなる。

何より、風邪であれば回復する見込みは高いけれど、今回の彼はそれなりに長い道のりを歩み、慣れさせていかなければいけないし、それが彼に合わない可能性だってある。未確定な効果に向けて苦しみながら耐える人を間近で見るというのは、(それは全く無力ではないが)その苦しみを取り除いてあげられない無力さなどを味わってしまうのではないだろうか、と思う。

「やめてほしい?」と聞かれたとき、つい言葉が一瞬漏れてしまったように「やめてほしいわけではないけれど、心配なんだよね」とか、そのお母さんの持つ不安さを言えたと思う。

心配しているということはもちろん優しさで、愛だ。それだけ大切な存在この上ないのだから。

それでも彼女は止めた。お母さんが心配しているということを聞いてしまうと、彼は「頑張る」ということに全力を注げなくなってしまうと思われたのではないだろうか。

自分だけの視点ではなくて、その言葉を掛けられた方の視点に立ち、それを言われたらどう思うか、そのセンサーを瞬時に働かせられたお母さんの姿に、すごいなあ…と感服した。

・・・

「心配なんだよね」と漏らすことも、一種のやさしさである。あなたのことをそれだけ思っている、ということ。

しかし、それは時に彼が向かおうとしているゴールを遠ざけてしまうことにもなる。頑張ろうと全力で走っている彼の気持ちを揺らす。頑張ると、お母さんが不安になる。その間で揺れて、ゴールまでまっすぐに走れなくなってしまうのではないだろうか。

昔島田紳助さんがこんなことを言っていたのを思い出した。

「親が子供にモノを買い与える。すると子供は嬉しそうな顔をする。その顔を見て親が喜んでいる。それは子供の喜びを親が奪っているに過ぎないと。だから自分でお小遣いを貯めて喜びを自分のものにしなアカン。だから親は子供の喜びを奪ってはいけない。」

自分が今誰かに放とうとしている言葉は、誰かのためだと思って、本当は自分のためではないのか?自分を守るためではないのか?

やさしさというのは、ただ相手を苦しませないようにすることではない。相手が望んでいることは何か。そのために自分ができること、掛けられる言葉は何か。考えて行動すること。

時にそれは自分の一次感情とは異なることかもしれないけれど、受ける相手にとっての最良の選択を考える。これが強さ。そして、これこそが愛だと気が付いた。

人と人が完全に分かり合えることはないけれど、いつだって人を後押しするような言葉を掛けられる人間になりたいものです。



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