失敗か成功かを見分けるたったひとつの方法

なかなか思い切ったタイトルです。

自分でも驚いています。だって、そんなものは存在しないのですから。

タイトルから期待された方、すみません。


でも、もしよければ、ちょっとだけぼくの話を聴いてください。




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そもそも、何を以て失敗か成功かの判断をくだすのでしょうか。

簡易なことばにすれば


できたか、できなかったか


ということですよね。


例えば、逆上がりをするとする。なんでこれかは、今思いついたからです。

思いついたことはすぐに書きましょう。人間は忘れる生き物です。


そう、で、鉄棒を両手で掴んで、えいや!と勢いよく・・・

回りません。

そう、ぼくは逆上がりが人生でできたことが一度もないんですね。なんででしょうかね。怖い。


さて、これは失敗でしょうか、成功でしょうか?

外から見れば、まあたぶん失敗なのでしょう。

でも、もしかしたら、その人の中では

「次こうやったら逆上がりができるかもしれない」

という、なにかきっかけみたいなものを掴んでいる可能性もある。

そうなら、たぶんその人の中では成功なのかもしれない。



結果だけ見れば、できなかったので、失敗でしょう。

でも、その人の中では、そうじゃない可能性も捨てられない。



この

”結果だけ見れば”


というのが重要で、つまり、失敗か成功かというのは

成果主義的な考え方をしている、ということです。


そこで何が起きていたか?の検証はあまり必要としない。

結果どうだったのか、というところに重点が置かれている。



この反対の考え方としてよく挙げられるのは、

プロセス主義ってやつですね。

結果はあまり重要ではなく、中身・内容を重要視する、というものです。



この二つはよく対極に語られ、どちらが良いか?という話は尽きません。

でも、ぼくがここで言いたいことは、そこが論点ではありません。



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上で述べた2つの考え方(成果主義とプロセス主義)について、概念としては対極にあるように思えますが、個人的にはどちらにも共通していることがあり、それこそが本質だと思うことがあります。


それは


外からの評価を必要とすること


です。

さらに、外から評価をするには


評価基準


が必要になります。



この

①外的評価 + ②評価基準

①②両方がないと、成果主義もプロセス主義も成立しません。

つまり、どちらも外から見たもの、なんですね。



プロセス主義は中身を見てるんじゃ?と思いがちですが、実際には、そこで起きた出来事(事象・現象)の一部始終を観察・検証したうえで、どうだったかを導き出すので、これも外から見ていると言って差し支えないと思います。



では、さっきから言ってる

”外”

っていうのは、どこから見て、また誰から見て”外”なのでしょうか。




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さきほどの逆上がりの例を持ち出せば


・逆上がりができたかできなかったか(成果主義)

・どのように逆上がりをしたか・しようとしたか(プロセス主義)


と言うことができます。ざっくりですが。


さて、これを評価するには、どうすればよいでしょうか。


まず

どうなれば「逆上がりが成功した」とみなすことができるか

を決める必要があるでしょう。つまり評価基準です。

これは成果主義で必要な評価基準ですね。


また

どのように逆上がりをしていれば、それが良い影響を与えている(失敗ではない)と言えるのか

というのは、プロセス主義の評価基準で参考になりそうなものですね。


他にも、人が手伝うのはありか?とか、どれくらいの期間の制限を設けるのか?とか、いくらでもあげることができますが、ここでは必要ないので割愛します。

そういう風に考えられるねってことだけわかってもらえれば。




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さあ、そういえば”外”ってなに?って話をしてませんでしたね。

外って言うからには、”内”があるんでしょ?

という声が聞こえてきそうです。


僕個人は、こういう二分法(なにかを対称的な概念に分けること)的な手法は好まないのですが、ここでは外的評価の話をしているので、内について書いていきます。


ここでいう外とは、定義するならば

(現実世界で起きた)事象・現象のうち事実と解釈できるもの

と言うことができると思います。

ちょっと固い言い方になってますが、つまり、そこであったことや起きたことそのもの、みたいな感じです。それ以上でもそれ以下でもない。



では、それに対する内の定義と言えば

事象・現象に対する当事者の知覚・認知・心象・解釈等

ということができるかもしれません。すごい抽象的。笑

つまり、思ったことや感じたこと、みたいな感じです。



本当は、全てひっくるめて一つの現象だとぼくは捉えているのですが、内と外に分けるとするならば、きっとこういう感じになるのだと思います。



なぜなら、失敗か成功かを決めるには、外からの評価とその基準が必要になるから、です。

つまり、二分法を前提としている、ってことです。



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これ自体に、良い悪いはありません。

それを決めるにも、また外的評価とその基準がきっと必要になってくるのでしょうし、それはそのときどきで変わるので、とても主観的なものです。


これはとても重要なことだと思います。

結局のところ、すべて人間が決めているので、失敗か成功かの判断というのは、とても限定的で一義的、ある一側面から見たものだということです。


それを信じるかどうか、信じるならどこまで信じるのか、根拠や理由にどのくらい納得感を持たせるのか、どのように一貫性や公平性を持たせるのか、とか色々なことを決めるのも、また人間が為すことで、どちらかと言えば、そこをしっかりと深堀していくことこそが大切だと思います。



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さて、ここまで書いておいてなんですが、ぼくはそもそも

評価というものがあまり好きではありません



仕事とか、場合によっては必要な場面もあることはもちろん認めています。

じゃないと成り立ちませんから。


でも、必要以上に厳しかったり、人間関係にそれを持ち込むのは、あんまり感心しません。



ここからが、ぼくが最終的に言いたかったことなのですが、

また逆上がりに立ち戻ってみると、一番大切なのは、それが失敗か成功かではなく、現象に対しての感想なんですよね。



英語で聞くなら(なんで英語で聞く必要があるかはわからないけど)

”How / What are you feeling now??”

にすべてが詰まっている気がするんです。


逆上がりがしたい。でもできなかった。

悔しい?悲しい?もしくは逆に清々しい?

次こそはって燃えてる?もういいやってなってる?


そこをお互いに汲み取っていく(というか聞き合う、対話をする)ことが、コミュニケーションでとっても大切なことだと思うんです。

人間関係においては、ですよ。あくまで。



それがわからないと、どうしようもないじゃないですか。

誰も評価なんて求めてないんですよ。人間関係で。

感想が欲しいんですよね。だから聴くわけで。

自分も感想が言いたいんですよ。聴いてほしいんですよ。




なんか最後は感傷的になっちゃいましたけど、つまりはそういうことです。

まずは自分が感じてること、思ってることを大切にしましょう。

そして、ちゃんと声にして、命を吹き込んであげてください。

じゃないと、自分が死んじゃいますよ。

ちゃんとしたことばじゃなくてもいいから、まずは声に。

赤ちゃんはいつだって泣くでしょう。それでいいんですよ、大人も。




失敗か成功かも、どうせなら自分で決めましょう。

人に価値判断を委ねなくてもいいですよ。

気持よく生きましょう。


ではではまた。
























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