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私が推しの子になればいい。

 色んなnoteを読む中で、これが目に止まりました。物理における場の理論という見方を、クルト・レヴィン(以下レヴィン)という方が個人の行動に対して適用しようとしたそうです。

ネットで「場の理論」と検索をかけてみると、社会心理学者のレヴィンという方(この学問の界隈で著名な人だったらしい)が、人間の行動を「場の理論」としてまとめたそうです。

彼は、「人の行動には、個人の特性と周囲の環境が相互に関連している」と考え、それを「場の理論」として提唱しました。

紹介noteより

個人における場の理論。

 ざっくり言えば、個人の振る舞いは個性と環境で決まるという話です。この理論について、レヴィンは自然現象を説明する法則というより現象を認識する一つの見方と捉えています。

「場の理論は、通常の意味で理論と呼ぶことはできないでしょう」(レヴィン、1952年、p. 45)。むしろ、それは原則のセット、見方、方法、そして出来事とそれらが発生する設定や状況との間の密接な相互関連性に関連する思考の方法です。したがって、この場合の「理論」は、現実を評価する一般的な理論的な見方を指す広義の意味を持つことを覚えておいてください。

Malcolm Parlett著 Reflections on Field Theory
(The British Gestalt Journal, 1991, 1, 68-91)より

 レヴィンは「良い理論ほど実践的なものはない」という言葉を残しています。彼の理論は解釈としての意味合いが強く、「良い」の定義は重要ですね。彼の意図を汲み、理論の正確な概形を探るのも面白いかもしれません。

つまり、「よい理論が実践的である」ということが、具体的に、「理論と実践のあいだの、どのような関係を想定しているか」は、研究者・実践者によって、認識の違いがあるということです。

http://www.nakahara-lab.net/2012/05/post_1851.html より

能力や環境ではなく姿勢を変える。

 とはいえ、私は今この瞬間の解釈を面白くできれば十分だとも感じています。あくまでも、彼のアイデアをきっかけに日々を過ごす中での姿勢について考えたいんですよね。

 まず私の理想は私という個人が活躍することです。もっと言えば、私を磨いて輝かせたい。その観点では私の個性は「良い」という基準で判断するものではないんですよね。見つかるものではあるものの能力的な個性などは調整できるものではないといいますか。

 一方で、環境についてはどうでしょう。端的に言えば、私自身の活躍が求められれば「良い」と言えるのでしょう。ただ、その環境が整うまで待つのは面白くないです。それよりは、どんな環境も味方にする解釈ができるようになった方が良い気がしています。

パターン1
明日、雨だったら(E)仕事行くのめんどくさい(P)なぁ。会社はフレックス制(E)やから、午後から出勤しよう(B)。

パターン2
明日、雨だったら(E)外回りの営業はできなくなるので、事務に専念できるチャンス(P)。午前中は会社に直行しよう(B)。

(Eは環境要因、Pは個性要因、Bは選択行動)
https://maenoshinn.com/place-theory/amp/  より

 そこで思い浮かぶのは、バディカ中野社長の「人に良く見られるゲームに打ち勝ちにいく。」という言葉です。この姿勢を維持していれば、環境を味方につけやすいのかなと思います。

私が推しの子になればいい。

 とはいえ、推されたり応援される環境には魅力を感じます。そのあたりの話になると、推しの子の「有馬かな」が他人に見えません。これはどうしたって環境の要素で運命的なものではありますが、推されたい人の存在はモチベーションになりますよね。

あんたの推しの子に、なってやる。

推しの子第十一話より

 そのうち、私が推されたいと感じる人も現れてしまうのでしょう。どんな人か想像もつきませんが。とはいえ待つのも面白くありません。そこも自分で何とかしてしまいたいです。となると、私が私を推せばいいのでしょうね。それなら何とかなる気がします。

 他人から推されるにしても、やることは変わらないですよね。好かれるための演技ではなく、自身の活躍そのものを推されたいのであればなおさらです。より活躍して、より輝いて、見つかってしまえばいい。

 結局のところ、推しのmiCometのように出来事に真摯に向き合い、自身を磨き、時期が来ようが来まいが過ごしていくべきなのでしょう。なんとなくですが、こういう過程を経て2人も現在にいたっているのではないかと想像したりもします。

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