見出し画像

告げ口AIと少女の左手②

第二部 凌野みひろ


 男の汗と、自分の汗が混じり合って、ぬるぬると肌を覆っている。それをシャワーで洗い流してさっぱりした凌野みひろは、バスタオル一枚にくるまって浴室を出る。
 すると、まだベッドにいる男が呼んだ。「みひろ……いや、凌野室長」
 男はちょうど通話を終えてスマホを切ったところだ。名前を姓と肩書に呼び変えたことで、仕事上の緊急連絡とわかる。女の表情からも甘さが消えた。
「雉沢が、死んだ」
 さすがに、驚く。
「心筋梗塞だそうだ」
「雉沢、心臓が悪かったんですか? そんな報告は確か……」
「ああ。上がってない。だが、かかりつけの医者がそう診断した」
「場所は、自宅ですか?」
「いや、高輪のタワーマンション。雉沢の隠れ家だよ。あの男には、ほら、嫌な趣味があるだろう?」
「ええ」公安関係者の間では有名な話だ。「すると、現場には子どもが?」
「いた。もろに見たらしいな、死ぬところ」
 みひろは眉をひそめた。
 1995年、十一歳だった彼女も人が死ぬのを見ていた。その時のことは鮮明に覚えている。と言うよりも、忘れられない。
 父親だったのだ。
 雉沢の相手をさせられていた子どもは、いくつだろう。恐らく中学生にはなっていない。
 みひろは首を振って、増見が脱ぎ捨てた服を素早く集めた。「行くんでしょう?」
 もし本当に急病で死んだのなら、公安企画庁情報分析局局長にわざわざ電話してこないだろう。ましてもう、深夜一時を回っている。何か裏があるのだ。だから緊急の召集がかかったのは、言われるまでもない。
 だが、増見は頷きながらも、意外なことを言った。「俺だけじゃない。お前もだ」
「わたしも?」
 増見は嬉しそうな微笑を、年齢を感じさせない精悍な顔に浮かべた。
「凌野室長、こいつはチャンスかも知れないぞ」

 着替えた二人は時間を空けてホテルを出た。増見が先で、みひろが後。まさか不倫の相手と連れ立って職場には行けない。
 部屋で一人、時間が経つのを待つ間、みひろは自分の部下にも召集をかけた。もっとも二人しかいないので、さほど手間はかからない。寝ぼけた声で電話に出た彼らに、公安企画庁の自分の席へ行くよう指示した。
 日本には「公安」と名のつく役所がふたつあった。ひとつは警視庁公安部、もうひとつが公安調査庁だ。前者は戦後、GHQ主導でつくられた警察予備隊がルーツだが、後者は戦前の特高にまで遡る。思想犯、特に共産主義者の取り締まりを担当した特別高等警察である。それが戦後、ソ連への警戒感から「赤狩り」に地道を上げるアメリカ政府によって残され、60年代には過激派、90年代からは宗教カルトなど、組織、団体の監視を行っている。
 しかし機密を要する任務の性格上、活動領域がある程度ダブるのに、両者の風通しはひどく悪い。それどころか縄張り意識や手柄の独占のために、互いに掴んだネタを秘匿しがちだ。そこでそれぞれの持つ情報を繋ぐパイプとなる第三者機関が必要だとして、公安企画庁が誕生した。これが凌野みひろの職場である。
 ゆくゆくは警視庁と公安調査庁が情報収集に特化し、データベースを公安企画庁が統括。分析の中心になるという構想である。
 中でも、みひろが室長を務めるのは、設置されてまだ四年目の新設部署。それも情報分析ではなく、むしろ情報収集の新しい取り組みなのだが……
 ともあれ彼女は、増見より少し遅れて霞が関にある公安企画庁へタクシーで乗りつけた。自分の席ではなく、最上階の大会議室に直行する。
「お前もか、凌野室長」
 先に隣のエレベーターから降りた痩せぎすな男。
「お疲れさまです、桐畑課長」
「こんな夜中に呼び出しなんて、ウチじゃ珍しいよな、室長」桐畑は欠伸を噛み殺す。「こっちは分析屋なんだ。情報を集めて回る必要はないのにさ」
 桐畑は情報分析第一課、通称分一の課長である。主に警視庁公安部と公安調査庁から上がってくる電話盗聴の内容を分析している。
「まったくだ」もう一人の声が背後から言った。振り返ると、別の箱からもう一人。
 桐畑の同期で、分二課長の左右田。こちらは尾行・監視などの行動確認から上がってくる情報を分析している。二人はいわば、情報分析局の両輪であり、増見局長の右腕と左腕。もっと簡単に言えば、仇敵にも等しいライバルだ。
「しかし」左右田課長は言った。「凌野室長は情報収集が任務だ。局長から深夜に呼び出されることもあるんじゃないか」
 まさか増見との不倫に勘付いての当てこすりだろうか。みひろは表情を動かさないよう警戒した。
「となると、今回の手柄は持ってかれそうだなぁ、室長」桐畑が言いながら、先に立って大会議室に向かう。
「あら、どうしてですか?」室長室長っていちいちうるさい。自分が課長だということを、そんなに誇示したいのか。
「だって、警視庁公安部の極秘捜査に協力するんだから、まずは分析より収集だろ」
「かもな」後ろからついてくる左右田も言った。「気張れよ、室長」
 だから、室長室長って!
 苛立つ内に大会議室に着いた。重厚なドアを空ける。いつもは公安企画庁の上層部が集まる広い部屋に、ぽつんと四人の男が待っていた。

「警視庁公安部のみなさんだ」
 増見はいきなり本題に入る。三人の地味なスーツの男たちも会釈すらしない。
「一人ずつ君たちの担当になる」
 そう言いながら、名前も階級も紹介しない。後で自分の担当とだけ名乗り合えば、他の者は知る必要がないからだ。
「雉沢外相が急死した。死因は心筋梗塞だが、九重官房長官が念のため捜査するよう指示された。もちろん極秘でだ」
 増見は言葉を切ったが、二人の課長もみひろも黙っている。増見は続けた。
「つまり、病死にしては不審な点があるということだ。ひとつは、雉沢にこれまで心筋梗塞の予兆がまったくなかったこと。主治医が首を傾げるほどの健康体だった。もうひとつは、窓が開いていたこと。これは、そちらから説明してもらった方がいいかな。現場を見てるんだし」
 増見が視線をくれたのは、彼の左隣に座った男。これが公安刑事のリーダー格か。少なくとも年は一番食っていそうだ。生え際がかなり後退した小男である。
「ええ、さっき見て来ましたがね」声は妙に軽く、口調は江戸っ子風だった。「高輪のタワマン。二十五階。いや、実に豪華なもんでしてね。格差社会を実感しますが、ま、それはさておき、マルガイが死んでいたのは寝室で、そこの窓がいわゆるフレンチ窓ってんですか。そっからベランダに出られるんですけど、そいつが開いてまして。ご存知の通り、マルガイは子どもと遊ぼうとしていたわけで、そういう時にはいくら何でも窓は閉めるし鍵は掛けるでしょう。もちろん防音は完璧でしょうが、それも窓を閉めてこそだし、タワマンは近所のことには無関心って言いますが、さすがにねぇ。子どもは泣くだろうし」
「つまり、そこから何者かが侵入した可能性がある」増見が後を引き取った。「ちなみに寝室には子どもが二人いた。小学生の男子と女子だが、どちらも怯え切っていて、いまのところ何も話していない」
「時間も時間ですしね。一旦帰しました」公安刑事がフォローする。「明日になれば多少口も開くと思いますけど」
「ということで君たちには側面からの協力をしてほしいと、これも官房長官からの要請なんだ。もしこれが暗殺だとしたら、これまでの盗聴記録や行確情報に痕跡が残っているだろう。その精査を、桐畑と左右田に頼む。それから凌野のVプロジェクトルームだが」
 増見はみひろを見た。そしてニヤリと笑った。

 大会議室を出たところで、桐畑がみひろに囁いた。「ついてるな、お前」
「ほんとだよ」左右田も小声でぼやく。「雉沢の秘書がベッキー持ってるなんて」
 二人がひそひそ話すのは、公安の刑事三人がついてくるからだ。この後、それぞれの部署に戻って、彼らから詳細なブリーフィングを受ける。もちろん桐畑も左右田も部下を呼んで待たせているだろう。
「独身男性の普及率はもう80パーセントですから、不思議はありません」みひろは内心のぞくぞくする興奮を押し隠して、クールを装った。
「これでますます、室長に持ってかれそうだ」桐畑はわざとらしく溜息をつく。「こんな夜中に叩き起こされたってのに無駄骨かな」
 エレベータに公安の三人を含めた六人が乗り込む。桐畑と左右田の部署は同じフロアにあるので、そこで四人が降りた。残ったのはみひろと、例の額の広い江戸っ子だった。
「小中井です」
 警視庁公安部には、一課から四課、外事課、総務課があるが、彼はどことも言わなかった。それは余分な情報だからか。それとも通常の体制とは異なる隠密部隊――極秘任務を専門に担当しているからかも知れない。
 一番年嵩の小中井が担当に就くのは、一番期待されているということだろうか。みひろのテンションはますます高くなるが、こういう時こそ落ち着かなければならない。
 ひとつ下の階でエレベーターを降りる。無人の廊下を歩き、みひろはとあるドアを開けた。
 情報分析局Vプロジェクトルームは、狭い。窓もない。無機的な灰色の空間にデスクが四つ。ひとつは予備なので、パソコンのモニターは三台。
 二人の室員はまだ到着していなかった。それはそうだろう。内幸町のホテルから来たみひろと違い、自宅で睡眠中に叩き起こされた部下たちが駆けつけるには、三、四十分かかる。
 みひろは客をひとつ空いたデスクに座らせ、自分は向かい合う自席に着いた。
「ここが、ロバ耳ですかぁ」
 無遠慮に室内を見回しながら小中井は呟き、みひろの鋭い視線に気づいて、あはは、と笑った。
「失礼しました。しかし、室長が書かれたVプロジェクトの企画書、私も読んだんです」
 あの機密文書を読んだ者は、公安部、調査庁、企画庁を通じてもごく限られている。やはりこの男、外見とは裏腹に相当な実力者だと思われた。
「増見局長の強力なプッシュがあったとはいえ、よく予算が分捕れたもんです。大したもんだ」
「まだトライアル段階ですけど」みひろは牽制した。「今年の成果次第で、本格採用になるかが決まるので」
 その言葉は嘘ではない。Vプロジェクトは四年間の期限付きを条件に承認されている。そしていまが最後の年、正念場なのだ。そこへ飛び込んで来た今回の案件は、増見が言ったように成果を上げ、本格採用を勝ち取る大きなチャンスになり得た。
 そうなればVプロジェクトは正式に課となり、みひろは室長から課長に昇格する。
「ところで、ウチは、ロバ耳って、呼ばれてるんですか?」
 皮肉な口調で訊くと、小中井は再び、あはは、と笑って広い額をぴしゃりと叩いた。
「すみません。でも、企画書にあったでしょ、『王様の耳はロバの耳理論』って。あれが妙に印象に残りまして、ぼくが勝手に呼んでるだけです。誰でしたっけ、アメリカの心理学者の……」
「スティーブン・シーモア」
「でした! スティーブン・シーモアね。なるほど、確かに人間にとって秘密を抱えるってのは重圧です。あの童話みたいに、安全な聞き役がいれば、つい話したくなる。愚痴や悪口なんかもそうですね、話すことがストレス解消。シーモア教授の実験でも、かなりの確率で秘密を漏らすことが確認できた。まあ、わざわざ実験しなくても、ここだけの話ってのがここだけに終わらないのは常識ですけどね。だから、対話能力を備えたAIスピーカーがあれば、ついあれこれの秘密を漏らすだろう。特に一人暮らしなら尚更だ。そしていまや日本で一番多い世帯は独居世帯だし、そもそもよからぬことを企む人間はそれこそ秘密保持の観点から一人で住んでいることが多い。ま、これには私も少々異論がありますが……」
「異論?」相手の長広舌を、みひろは遮った。「参考までにぜひ伺いたいわ」
 口が滑ったのを後悔するように、小中井はまた頭を撫でる。「あ、いや、異論はちと言い過ぎですけどね。つまり、組織の場合、裏切者が出ないよう相互監視の観点から、一人にはしないと思うって、それだけのことですよ。企画書にあった通り、単独犯の場合、例えばユナボマーとか、アトランタ五輪公園の爆弾犯みたいのを想定すれば別です」
 ユナボマーは、大学教授や航空会社の役員宛てに爆弾小包を送ったアメリカのテロリストだ。そして五輪公園の爆弾犯人。どちらも山小屋で孤独な生活を送っていた。
「とにかく、対話型AIスピーカーを開発する会社まで室長が用意してあったんですから、周到ですよ。それでベッキオ相手に喋った秘密が、労せずして全部企画庁さんのシステムに入ってくるなんざ芸術的ですわ」
「違法ですけどね」
 AIスピーカーとの《対話》だけでなく、そこを経由した電話やメール、SNSも対象となるので、これは広く通信傍受と呼ばれる任務に相当する。すると、1999年、小渕内閣が強行採決させた通信傍受法が関わってくるのだ。
 まず、薬物関係、銃器関連、組織的殺人、集団密航の捜査に限って、電話などの通信傍受が許可された。この制限は、2016年の改正で、殺人、傷害、放火、爆発物、窃盗、強盗、詐欺、誘拐、電子計算機使用詐欺、恐喝、児童売春まで拡大された。また、当初は捜査員が通信会社に出向き、社員立ち合いの下に行うという規制も外され、専用機による警察署内での傍受が可能になった。その後、ITの普及に合わせて、固定電話以外に、携帯での通話、メールはもちろん、SNSも対象になっている。
 しかし、誰の通信でも傍受できるわけではない。家宅捜索と同様、裁判所の令状を個別に取る必要がある。したがって、広く一般大衆の通信を勝手に傍受することは、やはり違法なのだ。だから、公安関係者にとってそれは見果てぬ夢だった。
「いやいやあ」小仲井は軽く手を振った。「そもそもこれって国民に極秘にやんなくちゃ意味ないわけですよ。全部ダダ漏れってわかったら、誰も使わないですからね。ダマテンなら違法もへったくれもありません。そりゃ裁判での証拠能力はないですけど、もともと企画庁さんは調査庁同様、捜査権も逮捕権もないんで関係ない。後はモラルの問題だけど、まあ、それはねぇ。もともとわれわれは、そういうの、薄いから」
 その通りだ。あまりに律儀に法を固守していては充分な調査ができないし、実際に法の制約で危険分子を野放しにせざるを得ず歯嚙みした経験は多くの公安関係者が持っている。
「それよりもね、開発費やらのコストが全部その会社持ちってとこまで話つけてあったんだから、凄い。向こうは向こうで、AIに学習させて、より秘密を喋りやすくするよう進化させられるから、ウインウインだと。こうなりゃもう、乗らない方がおかしいですよ」
 小中井は盛んにみひろを持ち上げる。その真意を図りかねて、うろんな気分になっていく。
「ちなみに、ベッキオつくった会社、サーガテクノロジーですか、あそこの社長の佐賀恭平って、室長の大学の同窓なんですってね。この話、あちらからですか、それとも室長から? なんか飛行機で事故ってから、本人の居所は誰も知らないそうですが、室長はご存知なんでしょう?」
 ははあ、それか。みひろはようやくピンと来た。どうやら公安は佐賀恭平に興味があるのだ。ベッキオを通じた情報収集システム。その技術を握っているのは確かにみひろではなく佐賀である。万が一、調査庁とのコラボレーションで磨き上げたそれを、他国に売るようなことがあれば一大事だ。
 その危険性を考えると、ぜひとも所在を把握しておきたいのはわかる。
 しかし、みひろは本当に佐賀の居所を知らなかった。学生時代から天才プログラマーとして名を馳せ、サーガテクノロジーを起業。IT業界の寵児と騒がれた彼。卒業後も関連企業を次々と成功させ、グループは巨大に膨れ上がったが、趣味のセスナ操縦の際、機器の故障で墜落。奇跡的に一命を取り留めたものの、まだ三十歳の若さで下半身不随になってしまった。
 以来、佐賀は第一線から退き、サーガホールディングスのCEOに収まって、経営会議にリモートで出席する以外、人前に姿を見せなくなった。
 そして、四年前。ある日曜の昼下がり。
 久しぶりに携帯にかけてきた彼を画面越しに見た時、みひろは驚いた。
 現れたのは、コアラだったのだ。
 ――よっ。
 ぬいぐるみ風で可愛いのに、眼だけが異様に鋭くて怖い妙なコアラ。そいつが気安く片手を挙げた。
「え、なに、そのアバター」
 ――いいだろ、これ。性格の悪いコアラって設定なんだけど。
「普通に顔出ししなよ」
 ――おいおい、俺の顔なんか誰が見たいよ? お目汚しにもほどがあるだろ。
「見たいわよ、あたしは。佐賀くんの顔随分見てないし」
 ――バカか。なんで見たいんだよ、んなもん。
 そう言いながら、コアラの声は嬉しそうだった。
 ――おっさんの汚い面なんかより、可愛いだろ、コアラ。自分でデザインしたんだけど、われながら傑作。
「佐賀くん、プログラムは天才でも、ビジュアルセンスは最悪」
 ――お、機嫌悪そう。
「あんたさ、いまどこにいるの?」
 ――え、それ訊く? そこ曖昧にしたいからアバター使って、背景、抽象空間にしてんのに?。
「大金持ちなんだから、どうせどっかリゾートで優雅にしてるんだろうけど、たまには招待してくれたっていいんじゃない?」
 ――そういう不満か。そんなことより、もっといい話あんだ。
 そして彼が言い出したのが、遊びでつくった対話型AIを、仕事に活かしてみないか、とう突飛な提案だった。
 公安企画庁とAIスピーカー。
 だが、佐賀のアドバイスに従って提出した企画書は通り、Vプロジェクトが始まったのだ……
「遅くなりました」
 前後してVプロジェクトルームの二名の室員、和藤健作と木月杏子が部屋に入って来て、みひろの回想は破られた。

3

「えーと、昨日十六時、高輪のタワーマンションに雉沢先生が秘書の大路と行きました。一応この部屋は、書き物とかの個人作業用仕事場って建前でして、今日はここに泊まるからとSPを帰した。十六時三十分、大路が地下駐車場で、児童養護施設あすいく園園長・貝原から、子ども二人を預かります。ご承知のように(ここで小中井は似合わないウインクをしたが、みひろも和藤も木月も無視)、雉沢先生は、マイケル・ジャクソンか雉沢かと言うくらいの子ども好きでして、あすいく園の恵まれない子どもたちをしょっちゅう夕食に招待しています。いつもは一人ずつですが、この日は男の子と女の子の二人でした。部屋に戻ると、近所のフランス料理店から取り寄せた料理が来まして、ダイニングルームで子どもたちと雉沢先生が夕食。大路が給仕をします。それが終わると、先生は寝室に子どもたちと入り、大路は食事と後片づけ。それから、玄関ドア脇の応接コーナーで警護を兼ねて待機です。ところが、十五分ほどした頃、突然甲高い悲鳴が聞こえた。大路は迷いました。つまり、それがプレイによるものか、判断がつかなかったんです。うっかり飛び込んで、怒られてはかなわない。しかし、もしかすると非常事態かも知れない。結局大路は、寝室のドアを恐る恐るノックしました。すると、中の方からばたんとドアが開いて、男の子が転がり出て来た。非常に怯えていたそうです。寝室に入ると、女の子の方はベッドの下にへたり込んでいる。そしてベッドの上で仰向けに倒れている雉沢先生を発見したんですね」
 深夜のVプロジェクトルームに、公安刑事の、話題にそぐわない軽妙な声が響く。
「ここで注意すべきなのは、ベランダに通じる窓が開いていたことです。これが謀殺を疑わせる根拠のひとつですね。さて、大路は雉沢先生がこときれているのを確認し、感心に救急でも一一〇番でもなく、第一秘書の森戸に連絡しました。森戸は主治医の小黒を伴い、高輪へ急行。医師も死亡を確認して、心筋梗塞による急死と診断。雉沢の政界における庇護者である九重官房長官に連絡しました。官房長官は雉沢先生に心臓の持病などないことや、窓の件から、病死に見せかけた巧妙な殺害の可能性を懸念され、世間的には病死と発表はするが、真相解明のための極秘捜査を指示したってわけです。もしこれが政治的なテロなら、他にも飛び火しかねませんからね。おかげでわれわれは、こうして眠い目をこすってるって次第です」
「刑事部は動かないんですか?」みひろが訊いた。
「ええ。鑑識と検死官は通常通り出動しましたが、刑事部には一切知らせず、公安が仕切ることになりました。それと官房長官は、かねてから公安、調査庁の情報統合を主張され、調整役として企画庁を立ち上げた人ですから、ま、いい機会と言っちゃなんですけど、この際、三位一体でやってみろというご指示でね。それで調査庁、企画庁にご協力を仰ぐことになったわけです」
 ここまで、まるで練習してきたかのように淀みなく、手帳やメモの類も一切見ずに、ぺらぺらと事件の概要をレビューした小中井は、ぐるりとみひろ以下の三人を見渡した。
「調査庁も動いてるんですね」そう訊いたのは、二人いる室員の内、男の方だ。和藤健作、三十二歳。長身で、シルバーフレームの眼鏡が似合う知的な風貌。企画庁では恐らくただ一人、FBIでプロファイリングの研修を受けた経験を持っている。
「そうです。そっちにもウチの者が行ってますよ」
「企画庁の他の部署にも?」
「分析一課と二課。さっき桐畑、左右田の両課長にもお目にかかりました」
「なるほど」和藤は薄く皮肉な笑いを浮かべた。「官房長官はみんな仲良くやれって言ってるみたいですが、むしろ競わされてる気になりますね」
 あはは、と小中井は笑った。「おっしゃる通り。協力は競争になりがちです。ま、実は私も、一課、二課、Vプロジェクトルームでは、こちらが一番可能性があるなと思いまして、担当に手を挙げたんですよ」
「まあ、わたしたちが?」もう一人の室員・木月杏子が、リスのようなくりっとした瞳を輝かせた。彼女は公安企画庁の職員ではない。ベッキオを開発したサーガテクノロジーからの出向で、主にシステムのメンテナンスと改良を行うエンジニアだ。
「いま凌野室長にも申し上げましたけどね、このプロジェクトの企画書を読みまして、非常に有望な試みだと。これは決してお世辞じゃないですよ。勝手に『ロバ耳』の愛称を付けまして」
「ロバ耳? 可愛い」木月が微笑む。みひろはその感覚がわからない。どちらかと言うと蔑称に感じる。
「状況はそういうこと」みひろが言った。「何か質問はある?」
「診断は心筋梗塞なんですよね」和藤が口を開いた。「もし暗殺だとしたら、毒殺ってことですか?」
「その可能性が高いですね」小中井は頷いた。「1986年の保険金殺人じゃ、当初心筋梗塞と言われたものが、実はトリカブトによる毒殺でした。他にも覚醒剤の乱用によるショック死とか、フグに当たった場合にも心筋梗塞と同じ症状が出ます。ただね、夕食は同じものを秘書と子どもも食べていて、みんなピンピンしてます。昼食も、秘書によると昨日は財界の偉いさんと会食してて雉沢だけが食べたものはなさそうです」
「でも、寝室には雉沢と子ども以外には誰もいなかったんでしょう?」
「いません」
「ただ、窓が開いていた」
「そうです。地上二十八階ですけどね」
「そこから犯人が出入りして、毒物以外の方法で心筋梗塞に見せかけて殺したとすると、これはもうプロですよね」
「そうなりますね。映画じみてますが」
 和藤が、ふむ、と言って考え込む。
 すると、木月杏子が言った。「あすいく園っていうのは児童養護施設なんですよね? そこが自分のところの子どもを提供してるってことですか?」
「そういうことですね。雉沢は多額の寄付をしてますんでね。いや、わかります」小中井は木月が顔をしかめたのに、深く頷いた。「胸糞悪い話ですよねぇ。ただ、あの先生ばかりじゃないんですよ。政財界の、結構な大物があの施設に寄付してます。つまり、同じように子どもたちを夕食に招待する輩が大勢いまして」
 他に質問はなかった。みひろは「それじゃあ」と言い、今後の方針に関するディスカッションに移った。いつもはベッキオが収集した情報を和藤が分析し、レポートを作成。木月は「要注意データ」のタグ付けの精度や、会話のスムースな誘導について精査し、向上のためのアイデアを練るのだが、今回のような捜査協力は初めてである。まず、ベッキオと自分たちに何ができるのか、そこから知恵を出し合わなければならない。
 それに、この任務にVプロジェクトの本格採用がかかっているのは、和藤も木月も充分認識している。いわば運命共同体として共に考えたかったのだ。
「まず前提は、突発的な犯行ではなく、事前に計画された殺人であることね。そして、犯人か協力者がベッキオないしベッキーのユーザーであること。そうじゃないと、あたしたちの出番もないから」
「単独犯か組織による犯行かでも、方針が変わりそうですね」と木月が言った。「単独犯なら雉沢大臣に対する恨みとか批判でしょう。するとキーワードは『許せない』とか『罰する』とかですね。感情アナライザーのパラメーターも『怒り』とか『不満』。一方、組織犯なら感情的にはもっと冷静でしょうし、《対話》より《通話》のチェックがメインです。ワードで言えば今日……じゃなくて、昨夜ですね、昨夜の日付とか、『高輪』や『あすいく園』のような固有名詞でしょうか」
 ベッキオ・システムに集まるデータは膨大である。したがって分析の基本は、まずその情報の海の中からいかに必要なものを選び出すかにある。
「プロファイリングからのアプローチもあり得ますかね」
 和藤はいまこそFBI留学経験を活かしたいのか、そう言った。「まだ情報が揃ってませんから、今後ってことですけど」
「そうね。小中井さん、鑑識や検死報告が上がり次第、順次和藤に集約してもらえますか?」
「もちろんです。後、通常の地取り、鑑取りの捜査もしますから、報告書は随時共有しましょう」小中井は言った。「すると、犯人像を先に掴んで、ベッキオの購入者リストから該当者を割り出すって感じですかね」
「そうね。単独犯想定ですけど。組織犯想定の場合は、要注意団体の所属員のデータ解析が中心になるかしら」
「雉沢を殺して利益があるとしたら、どの辺りですかね」和藤が言う。「監視対象団体はかなりたくさんありますから、絞らないと」
「そこなのよね」みひろは小中井に訊いた。「公安ではもう、動機の目星はついてるんですか?」
「いやあ、まだ全然」小中井は肩をすくめた。「ただ、個人的な見解ですけど、雉沢先生に暗殺する価値があるかが疑問でしてね」
「価値?」
「ぶっちゃけあの人はそこまで重要人物じゃないって言うか……要は血筋がいいわけですよ、祖父さんの代から政治家でしょ。親父もそうだし、兄貴もそうだ。それであの人も、ただ地盤を継いで政治家になっただけ。大した政治信条もないし、育ちがいいから権力争いにがつがつもしてない。知名度や当選回数の割りに、入閣したのも今回が初めてってくらい。それも外務大臣って、利権も少ないし、国交省なんかに比べて人気のないポストです。閣僚懇談会の席順ってのは、ご存知の通り大臣間の序列がもろに出ますけど、そこでも首相から遠い下座ですからね。中にはそれに文句をつける大臣もいるのに、まったく平気だそうです。金も、そりゃ政治家ですからそれなりに裏はありますけど、もともと金持だからさほどがめつくない。ただ権力の末端にいて、ちやほやされて、子どもと遊んでられれれば満足って感じのボンボン議員なんですよ」
「子どもの件ですが」木月が言った。「暴露されれば相当なスキャンダルですよね。それを恐れた人たちが……ということは?」
「だとしたら、一番怪しいのは九重長官ですよ」小中井はにやっと笑った。「次期総理候補ですからね。子飼いの雉沢がスキャンダルを起こせばやはり困る。しかし、それじゃなんで極秘捜査を指示して、わざわざ事を荒立てるのか、理由がわからない」
「あすいく園はどうですか?」和藤が言った。「バックには暴力団がついてるんですよね」
「もちろん。ウチでもマークしてますから、分一や分二にデータが上がってるでしょう。ちなみに、青龍会です」
 その広域指定暴力団の名は、一般人でも知っている。
「あそこならウチでも監視対象になってますよ」和藤が負けん気を見せて言った。「チェックしてみましょう」
「外務大臣の職種からすると」みひろが言った。「海外のテロリストグループが疑われませんか」
「ええ、その線はありそうです。本人の政治思想とは無関係に、日本の対外的な顔として外務大臣を暗殺するってのはね。ただ、その場合示威行為なんで、明らかに殺されたって形を取るはずだし、話題性という意味で衆人環視の状況でやるもんです。今回みたいにプライベートな場所だと隠蔽されてしまうし、実際、そうなります。もっとも、犯行声明が出れば別ですから、早々と捨てる必要もないんですけど……ちなみに、ベッキオって、外国語にも対応してるんですか? そうじゃないと、この方向の情報収集はできませんよね」
「英語には対応しています」木月が技術担当として答えた。「中国語は現在ベータ版が一部に流通していますが、正式発売は来年になる予定ですね」
「後は……カルトがらみかしら」みひろが呟く。カルト宗教には特別な思いがある。それは十一歳の時に、父親の死を目の当たりにした経験に結びついていた。だが、小中井は首を横に振った。
「いままでのところ、雉沢先生が宗教団体と密接に繋がっているというネタはないですね。あの人は、親父さんが農政のプロだったんで、支持基盤が農協とかでして、こいつは伝統的にかなり安定してます。宗教団体に取り入って信者の票を狙う必要もないでしょう。まあ、敢えて言えば、与党のメンバーですから、靖国神社関係は重視してるとは思いますが、閣僚参拝するほどでもないですね」
「なるほど、仮説としてはそんなところかしら」他の三人が頷くのを待って、みひろは言った。「それじゃまずはデータマイニングね」
 膨大なビッグデータの中から、狙いの情報を掘り起こす作業を、鉱山に喩えてマイニングという。広告業界などでも使われる技術だ。
「キーワードは、さっき出たものの他に、暗殺謀議のボキャブラリー集、『排除』とか『決行』とかね。それから『タワーマンション』、『二十八階』かしら」
「部屋番号は、『2801』です」小中井が口を挟んだ。
「それじゃ部屋番号。後は?」
 他にもいくつかの候補が上がり、みひろはすべてを採用した。
「直近一週間の全データを対象に、マイニングする。これは木月さんにお願いしましょう。和藤くんは関係者に絞って、まずベッキオユーザーかどうかの確認。ユーザーであれば過去一年に遡って《対話》を精査してください……子どもはいくつでしたっけ?」
 みひろに問われた小中井は、またしてもメモを見ずに答えた。「男の子が友坂澄生、小学六年。女の子も小六で、三輪静香です」
「自分でベッキオを買うには早いかしら。秘書の大路はユーザーだとわかっているんですよね」
「ええ。ちょっとカマかけて聞いてます。フルネームは大路牧夫」
「それと子どもを連れて来たあすいく園の園長」
「貝原浩明です」
 みひろが言っている側から、素早く購入者リストを検索した木月が言った。「ありました。大路牧夫。サーガテクノロジーのECサイトでベッキーを購入してますね。貝原は残念ながら所有してないか、量販店購入かです」
「みんながみんなメーカーサイトで買ってくれたら、わたしたちも楽なんだけどね」みひろは軽く笑った。「和藤くん、ベッキーならまだ発売してそんなに経ってないから、大路に関しては購入時点まで遡ってモニターしてね」
「了解です。後、青龍会の関係者にユーザーがいないか調べておきましょうか」
「そうね……初動捜査はスピードが肝心だから、いまの作業を優先して、余力があったらっでいいわ。分一と分二の作業と被るしね。じゃ、すぐ始めましょう」
「わかりました」
 和藤と木月が声を揃えた。
 すると、
「あれれれれ?」
 小中井が驚いたような声を上げた。


#創作大賞2023


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?