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告げ口AIと少女の左手③

 小中井が呆気に取られたのは、和藤と木月が突然サングラスをかけたからだ。
 正確にはピンホールグラスである。
 黒い部分に小さな穴がいくつも空いている。これを通して見ると、視野が限定される代わりにピントが合わせやすくなる。眼精疲労を軽減し、ブル―ライトもカットできるので、長時間パソコンに向かう職種に普及している。
 次いで和藤はヘッドホンも付けた。ベッキオが集めた《対話》を聴くためである。
 室員二人が軽快にキーボードを叩き始めると、小中井は立ち上がった。
「どちらへ?」
 みひろの問いに、公安刑事は軽く伸びをして、「帰ります……と言いたいところですが、検死の立ち合いに行かなくちゃなりません」
「この時間に、検死を?」
「官房長官の超特急任務ですからね。先生を叩き起こして、やってもらってます。とはいえ、まだ大分かかるとは思いますが、帰っても中途半端にしか寝れませんのでね」
「ご一緒していいですか?」
 小中井は驚いたように眉を上げた。「室長が? 報告書は出来次第お届けしますよ」
「でも、小中井さんもそれを待たずに、先生の話を聞きに行くんでしょう?」
「ええ、まあ……」
「書類には書けないような、漠然とした印象とか、直観とか、そういった部分を知るために」
「よくご存知で」
「ミステリーのファンなんです」
「あ、そうですか。ただし、小説と違って、あんまり見て気持ちのいいもんじゃないですよ」
「構いません」言いながら、みひろも立ち上がった。「ホラー映画も大好きなので」

「検死が終わるのは、何時頃ですか?」庁舎の前で客待ちをしているタクシーに乗りながら、みひろは訊いた。
「そうですね。後、二、三時間かな」
「では、その前に一ヵ所、寄ってもいいですか?」
「現場も見たいと」小中井は察しよく微笑んだ。「じゃ、運転手さん、高輪へ」
 深夜で道が空いている。あっという間に高級タワーマンションの地下駐車場に滑り込むと、エレベーター脇のインターホンで小中井が2801号室を呼び出した。二十八階まで直通だ。
 ドアを開けた目つきの鋭い若い男。雉沢の秘書たちは事務所の方で葬儀の準備や連絡に追われているはずだから、留守番の公安刑事だろう。
 玄関を入ると、すぐ左手にスペースがあり、応接セットが置かれている。ちょっとした来客を迎える場所で、大路秘書が待機していたのはここだ。
 みひろは先に立って短い廊下を歩き、正面のドアを開けた。広大な、と言いたいほどのリビングだった。マンションの広告に出てきそうな、贅沢なインテリア。正面は床までのフレンチ窓。開いたカーテンの向こうにベランダが見える。
「子どもたちは、まずここに通されたんですね?」
「そうです」小中井はみひろの後からついて来る。
「園長は一旦帰って、また迎えに?」
「ええ。いつも二時間後に来る手はずでした」
「食事をしたのは?」
「こちらです」
 今度は小中井が先に立ち、ダイニングルームに続くドアを開けた。ここもやたらに広く、パーティーにも充分だ。テーブルの上は綺麗に片付いていた。食器類は食事の後、大路がキッチンに下げたのだ。
 そのキッチンも、また至れり尽くせりの豪勢なものだったが、ほぼ料理をしないみひろには、猫に小判。無感動な目でちらっと見ると、食洗器を開けた。取り寄せたフランス料理が盛られていたらしい皿が何枚も入っている。
「これはお店が取りに来るんですよね?」
「いつも翌日だそうです」
「食べ残しはなかったのかしら?」
「綺麗に平らげてましたね。ちなみに、鑑識が毒物のチェックをしましたが、空振りでした」
「雉沢先生は、フードロス問題にも関心があったのかしら? 必ず食べ切れる量を注文していたとか?」
「う~ん、そういう話は聞いてませんね」
「お皿の数を見るとフルコースのようだし、子どもには多いんじゃないかと思ったんで」
「確認しますか?」小中井はスマホを取り出した。「給仕をしてた大路に訊けば……」
「いえ、わざわざ訊いていただくほどでは……いま大路は事務所ですよね」
「そう、天手古舞らしいです。ウチも監視を二人貼りつけてますよ。なんせ唯一の大人の目撃者ですし、それに唯一の……」
「容疑者?」
 すかさず先回りすると、小中井は頷いた。「さすがに気づきますよね」
 だが、みひろはその話題を深掘りしなかった。「とりあえず、寝室も見せてください」
 寝室は、普通のマンションならリビングと言っていい広さだ。中央にキングサイズどころかキングコングサイズのダブルベッド。これが雉沢基久の人生の終着駅である。
 そしてここにもベランダに面してフレンチ窓。いまは閉じられているが、
「あれが開いていたんですね?」
「そうです」
 みひろはつかつかと窓に向かい、そっと開けた。心地よい夜風が顔を撫でた。
 すっと深呼吸して、ベランダに出る。東京の夜景を見ろした時、すぐ傍に人の気配を感じた。
「誰!」

「桐畑課長……」
 ベランダには、寝室からもリビングからも出入りできる。その境目の辺りに、分析一課の課長が佇んでいた。
「凌野室長もか。熱心だな」
 桐畑の切れ長の瞳が、シルバーフレームの眼鏡越しに、寝室からの光を受けて煌めいている。
「課長こそ」みひろも笑みを返した。「驚きました」
「悪い、そんなつもりはなかったんだが」
 いや、あった。そういう奴だ。
「しかし、こうして現場を見ると、無駄足だったな」
「どうしてですか?」
「だって、さっきお前も言ってただろ。大路秘書の濃厚な嫌疑について」
「耳ざといですね。ここから……」みひろは室内を一瞥する。「キッチンでの会話が聞こえるなんて」
「ふふ、意外に聞こえるもんだよ、風に乗って」
 しらじらしい。キッチンの近くで盗み聞きしていたくせに。さすが盗聴担当。
「ついでに、後学のために、凌野室長の推理を伺いたいもんだね」
「必要ないでしょう」またもや室長を連呼して勘に触る。「課長だって、とっくにわかってるはずだわ」
「まあね。じゃ、俺から答え合わせしようか?」
「どうぞ」
 桐畑は寝室の中を覗いた。そこに立っている小中井に軽く目礼する。小中井も軽く頭を下げた。
「大路によると、寝室に入った時には、もう雉沢は死んでいて、この窓が開いていた。中にいたのは子ども二人。となると、これが殺人で犯人がいるのなら、窓から侵入し、窓から逃走したことになる。しかし」
 桐畑は細身の体を返して、ベランダの手すりに歩み寄った。
「ここは言うまでもなく、地上二十八階だ。空でも飛べない限り、外から来ることはできない。とすれば、上か下だ」
 みひろに手招きして、手すりから身を乗り出す。みひろも彼の隣に立ち、夜の底を見下ろした。
「この時間だから真っ暗だが、下の階の住人は在宅している。騒ぎになってはまずいから直接は訪ねていないが、セキュリティー室の出入記録で確認したそうだ。一方、上だが」
 桐畑は仰向いたが、みひろはその労を省いた。上のバルコニーが迫り出して、視界を遮っているのは見るまでもない。
「こっちは旅行中だそうだ。したがって、留守宅に侵入し、ここに降りた可能性はゼロじゃない。しかし、その場合、セキュリティーシステムを誤魔化すとか、ロッククライマー並みの技量が必要だとか、いろいろな疑問が出てくる。それより、もっと簡単なのは、リビングからベランダに出ることだ」
 今度はリビングの窓に移動した。みひろは手摺に背中を預けて、黙って見ている。
「犯人はまずリビングに侵入し、この窓からベランダに出る。そして寝室に入り、犯行後もこの経路を逆に辿って脱出する。これならセキュリティーはともかく、ロッククライミングは要らない。だが、問題は大路だ」
 桐畑は玄関に通じるリビングのドアを指で示した。
「雉沢が子どもを連れて寝室に入ると、大路はダイニングで食事。後片付けをして、玄関脇の応接コーナーで待機した。暫くして寝室で悲鳴が上がり駆けつけた。つまり、犯人がリビングに入るには、大路がダイニングで飯を食ってる時を狙うしかない。しかし、いつ食い終わるかなんて、ドアの外からはわからない。それに鍵だ。ここの鍵は指紋認証なんだな。したがってピッキングは不可能だ。以上の点から、大路が犯人を手引きしたと見るのが最も妥当なわけだ」
 エラリー・クイーンばりに、Q.E.Dとでも言うかと思ったが、エリート官僚はそんな稚気を持ち合わせていなかった。
「もしくは、大路の一人二役ですね」みひろは言った。「食事を済ませ、覆面を被り、リビングからベランダ経由で寝室へ。雉沢を殺してまたリビングに戻り、覆面を脱ぐ」
「なるほど」桐畑は頷いた。「ま、どっちにしたって俺には同じさ。大路は下っ端だから、盗聴対象になってなかった。電話にせよ、SNSにせよ、傍受ってな手間と時間がかかる。対象を絞らざるを得ないんだ」
「それは、左右田課長も同じですよね」
「そうさ。公安も調査庁も絶対大路なんかノーマークだ。したがって行確なんかしていない。つまり、分析しようにもデータがない。お手上げだよ。ところが!」
 桐畑はみひろに指を突きつけた。
「なんと大路はベッキオユーザーだった。いや、正確にはベッキーか。あの忌々しいAIメイドに、どんなことを呟いてるのか、それが探れるのは凌野室長んとこだけってわけだ」
 桐畑は肩をすくめた。
「局長は今夜、俺と左右田も呼んだけど、内心じゃ凌野だけでいいと思ってたんじゃないかな。公安に総力を挙げて協力するポーズを見せるために、分一と分二も入れといたんだろう。体のいい当て馬だな。それはわかりつつ、藁にもすがる思いで現場くんだりまで来た俺は、まったくアホだよな」
 だが、桐畑はにやにや笑っていた。
「いままでのところ、Vプロジェクトにはかばかしい成果はない。小ネタはそこそこ拾って量的にはまあまあだけど、上が目を剥くような凄い情報が入ったことはないから、俺は採用は五分五分と見てた。後は局長の肩入れ次第かなってさ。ところがそこへこのビッグチャンスだ。つくづく悪運が強いよ、お前は。この事件が来年だったらよかったのにな」
「わたしはこれから、検死に回りますが、課長はどうされます?」
 長い嫌味を遮ると、相手はふん、と鼻を鳴らし、挨拶もせず窓からリビングに戻って姿を消した。
 みひろはその背中にあかんべーでもしてやりたくなったが、小中井の手前自制した。
 桐畑がさんざん愚痴ったように、マークしていない相手では、手も足も出ない。だが、それもこちらの油断を誘う手だとみひろは踏んだ。雉沢本人や第一秘書の森戸はフォローしているはずだから、桐畑にも打つ手がないではない。
(ほんと、腹黒い狸)
 小中井と二人、再びタクシーに乗り込みながら、そう言えば桐畑のライバル、左右田はどうしているのだろうかと思った。
 案外あの男は、部下にブリーフィングだけして、いま頃は自宅で高いびき。そんな気がした。

 東京都監察医務院は文京区大塚にある。司法解剖は裁判所が嘱託する大学病院で行われることもあるが、極秘捜査のため監察医務院が選ばれたのだろう。ここで死体が解剖されると思うと、古びたレンが造りのおどろおどろしい建物を想像するが、実際は清潔な白の近代的な庁舎である。
 高輪の現場に寄り道したため、一時間ほどロスして、監察医務院に着いてから約二時間。
 先に来ていた公安刑事二名と待機室にいると 検死が終わったという知らせがあった。
 案内された解剖室には、かつて政治家であったものが、白いシーツをかけられ、顔も白布で覆われて、長く横たわっていた。
 生命と共に奪われるのは、「個」である。その人の名前、能力、性格、歴史……その人をその人たらしめていた何か。それが失われて、誰もが無名の骸となる。
 みひろは父親の遺体を思い出した。棺に横たえられた、もの言わぬ父……
「やはり心筋梗塞だね」
 医師は言って、顔の白布を無造作に取った。
 政治家の中ではまあまあダンディーとされていた雉沢基久だが、その顔色はまさに紙のごとく白い。そして、その眼だ。
 まるで爬虫類か両生類のように、眼窩から血走った眼球が迫り出している。そして、苦し気に口からだらりと垂れた舌は赤黒く、死んだなめくじのようだ。
 鳥肌が立ち、胃が不穏にざわめく。だが、みひろは唾を呑んで気を静め、医師の示した胸の辺りに視線を凝らした。
「心筋梗塞は激しく痛むが、それにしてもかなり苦しんだようです。胃の内容物はこれから検査に回すが、いまのところ毒物を飲んだ痕跡もない」
「すると、疑問の余地はないんですね」小中井が訊く。
「それが……ひとつ気になることがあってね」
 医師の言葉に、みひろも刑事たちも身を乗り出した。
「ここに、微かだが、手で突いたような痕があるでしょう」
 指差されたのは、遺体の左胸。心臓の辺りである。確かに、薄い胸板に、痣のように赤っぽく変色した部分があり、よく見れば掌の形をしているようだ。
「左手だね。誰かが左手で被害者の胸を強い力で突いている。皮下出血するくらい強く」
「じゃあ、そのショックで心筋梗塞を?」
 みひろが訊くと、医師は首を振った。
「いや、胸を突いでも血管が詰まることはないね。ただ、力が尋常でなく強いんですよ。ほら」
 切り開かれた胸を、そっと持ち上げる。肋骨が露わになった。
「ひびが入っているどころか、折れかかっている。凄まじい力です」
 公安刑事たちも、ざわっとした。
「それじゃ、鈍器のようなもので殴られたんじゃありませんか」小中井が言った。「素手でってのは確かですか?」
「手の痕があるからね。それに、体表面にはさほどの損傷がない。鈍器による打撲痕とは明らかに違う。なのに、肋骨は折れている。どうもこのちぐはぐな感じが気になるわけです」
「じゃあ、これをやった人間は相当屈強な男……」みひろは呟きながら、小中井をちらっと見た。その残念そうな表情からすると、唯一の容疑者である大路は決してタフガイ・タイプではなさそうだ。
「屈強ってだけじゃない。ちょっとみんな、左手を出してみて」
 医師に言われ、刑事たちが子どものように手を出した。
「うん、あんたの手が一番大きいな。じゃ、ちょっと、この胸の手痕に重ねてごらん。ちょうど掌の下の辺りが、ここに重なるように」
 若い刑事が遺体の胸に自分の手をかざした。
「ごらん。この人の手も大きい方だが、犯人はそれよりさらにひと回り大きい。このサイズから類推すると、身長二メートル、体重百キロでも驚かないね」
「プロレスラー並みの大男ですね」
「まあ、中には小柄で手だけがてかいやつもいないではないがね、あくまで平均値で言えばだが」
「何か手袋とか、グローブみたいなものをしていた可能性はありませんか?」
 刑事の一人が訊いたが、医師はまた首を振った。
「繊維質のものにしろ、革製にしろ、そうした素材なら肌に残留物があるはずだ。第一、衝撃力は弱まる。ボクサーがグローブをするのと同じだからね。ますます肋骨のひびの説明がつかない」
「掌紋は取れませんか?」
 別の刑事の問いにも、首を振る。
「無理だね。そこまで手痕がくっきりしていない」
 医師は白布を雉沢の顔に戻した。
「死亡推定時刻は、状況からはっきりしているから言うまでもないな。死因は、やはり心筋梗塞だろうね。とはいえ、異常に巨大で強い手に胸を突かれているのが気にはなる。煮え切らなくて申し訳ないが、事件性があるかどうか微妙だ。私もこんなケースは初めてだよ」
 医師はマスクを外し、気の毒そうに刑事たちを見た。
 何となく、ため息が解剖室を埋めた。

 夜明けと黄昏は、この薄汚れた都会すら美しく染める。
 紫色の空の下、監察医務院を出ると、小中井はみひろに言った。「私らは警視庁に戻って、今後の方針を協議しますんで」
「じゃあ、わたしは企画庁に」
 小中井たちと別れ、タクシーを拾ったみひろは、途中、終夜営業のファミレスに寄り、弁当を三つ包ませた。
 待っている間に、雉沢の死を目撃した二人の子どものことを考える。
 特に、少女のことを。
 まだ会ってもいない三輪静香が気になるのは、自分自身もその年頃に、父親の死を見ているからだ。あのショックはいまでも鮮明に残っている。とすれば、彼女の心にも深い傷がついたはずだ。
(でも、自分の親じゃないだけマシか……)
 ごく平凡なサラリーマンだった父。その運命を一変させたのは、1995年、日本を震撼させたオウム真理教によるテロであった。
 あの日、出勤のため地下鉄日比谷線に乗っていた父は、サリンが散布された車両の隣におり、激しい頭痛に襲われて昏倒、病院に搬送された。幸い、重篤な人たちに比べればむしろ軽症の部類で、翌日には退院できた。
 だが、PTSDがひどかった。
 頭痛がいつまでも治まらず、些細なことで声を荒げる。几帳面な方だったのに、ものごとをすぐ忘れてしまう。温厚篤実な性格は消え、まるで別人。ある意味、あの時みひろの知る父は死んだのだ。
 いまでも忘れられないのは、父親がテレビに向かって突然怒鳴りだしたことだ。テロ実行犯の一人が逮捕されたとニュースが報じ、画面に連行される姿が映った途端、それこそ悪魔に憑かれたかのように怒りの形相凄まじく悪態を喚き散らしたのである。
 風呂好きだった父親が、入浴を拒否するようになったのも不可解だった。後で知ったことだが、無防備な裸でたった一人になる入浴を恐れるPTSD患者は、少なくないらしい。それでどんどん不潔になった。
 怒りっぽくて、忘れっぽくて、臭い。
 当初は職場でも同情を集めていたようだが、一向に改善しない父親の状態に、周囲の態度は冷えていった。いつまで被害者面をしているのか。甘えているんじゃないのか。見た目はどこも悪くないので、なおさらそうした疑念が鬱積し、どんどん居づらくなる。いっそ片手か片足でもなくなっていればよかったと、自嘲気味に呟く父親は、結局会社を辞めて家でぶらぶらするようになった。
 近所の人やみひろの学校の友だちも同じだった。初めは話題の事件に巻き込まれた、いわば時の人扱いだったのに、飽きられるにつれ見る目が変わる。父親が荒れて怒鳴れば近所には筒抜けだし、あからさまに苦情を言われるのは母親だ。
 噂は学校にも広まって、一緒に遊んでいた友だちが、一人また一人と遠ざかっていく。「あの家は変だからつき合わないように」と親から言われたのだろう。
 針のむしろの中、生活の苦労までのしかかった母親が、ついに倒れた。みひろが見つけて救急車を呼び、着替えを取りに帰った時である。
 父親は鴨居に紐を結んでいた。
 みひろは椅子に乗った父親を見上げた。父親は悲しそうに微笑み、黙って椅子を蹴った……
「お待たせしました」ウエイトレスに声をかけられ、はっと回想から覚める。弁当を受け取り、待たせていたタクシーで再び霞が関への道を辿った。
 深夜に叩き起こされて、夜食も取らずにパソコンに張りついていた和藤健作と木月杏子は、差し入れに歓声を上げた。
 三人で箸を使いながら、みひろは現場の状況や検死の結果を共有する。
 マンションは完全な密室ではないものの侵入はかなり難しい。すると、部屋にいた唯一の大人である大路の犯行、もしくは共犯の可能性が高い。一方検死の結果、実行犯の手はかなり大きく、大路が自ら手を下したとは思えない。
「つまり、大路が犯人を手引きした可能性が高いのよ」
「でしたら、個人の犯行じゃなく、組織犯ですね」木月が言った。「初めからどこかの組織に所属していて秘書として潜入したか、秘書になった後リクルートされて内通者になったかです」
「大路が秘書になったのは半年前でした」和藤が言った。「ベッキーを買ったのも同じ頃です。転職祝いに自分で買ったんでしょう」
「自分で? それはさみしいわね。家族はいないのかしら」
「小中井さんからさっきプロフィールが来ましたが、バツイチで、いまは独身です。離婚したのも去年です」
「ベッキーにデータはあった?」
「購入半年にしちゃ、ふんだんに」和藤が苦笑した。「『王様の耳はロバの耳』理論の典型と言いますか、実に口の軽い男です。それに、官房長官との電話を録音するよう指示してるんです」
「自分から?」
「ええ。これは大路が共犯だからなのか、それとも非常事態なので、後日のため一応録っただけなのか」
「ちょっと聞いてみたいわ」
 和藤はヘッドホンをジャックから外し、スピーカーで再生した。
 ――通話内容を録音いたします。
 ベッキーの復唱から始まった。続いて、神経質そうな甲高い男の声。テレビでお馴染みの、官房長官だ。
 ――大路くんかね?
 ――は、はい、九重先生、秘書の大路でございます。
 ――森戸くんに聞いたが、マンションには雉沢と、例の子ども、それに君の三人だったそうだが。
 ――そうです。今日は雉沢先生の『子どもの日』なものですから……
「子どもの日って……」木月が嫌悪で眉をひそめた。
 通話の内容そのものは、既にわかっていることばかりだった。ただ、現場に居合わせた子どもについて、「雉沢先生お気に入りの綺麗な男の子」「最近入園したという女の子が、こちらは少々不細工で、眼も細くて、鼻と口がやたらデカい……」と外見を描写しているのが注意を引く。
 しかし、それ以上に予想外だったのは、大路の声と口調である。
 例えば九重が、主治医の小黒は心筋梗塞という診断に「首を傾げている」と言った時、それは小黒自身の診断だと答えた時の激しい動揺。
「雉沢先生が、殺……」と言いかけて、九重に一喝された時の、飛び上がるような「す、すみません!」という言葉。
 そこにはただの小心者らしい響きしかなかったのだ。
「う~ん」通話を聴き終えて、みひろは和藤に言った。「プロファイラーとしてはどう思う?」
「プロファイリングするまでもないわかりやすさで小心者ですね」和藤も同意見だ。「だから、初めから暗殺目的で潜入したというよりは、転職した後、金で誘惑されたか、弱みを握られて協力者になったのかなと」
「通話を録音したのも、保険のつもりだった」
「でしょうね。特に九重官房長って、昔、汚職疑惑の時に秘書が投身自殺してますよね。あれは口封じだという噂もあって、それで怖くなったのかも」
「そうね。その小心さのおかげで、あれこれ録音を残してると助かるけど」
 AIスピーカーが収集するデータは、《対話》から《通話》、メールなどのテキスト通信と多岐に渡る。それが全国の膨大なユーザーから送られてくるので、すべてをシステムにアップするわけにはいかない。いくらビッグデータの時代でもコンピューターのリソースには限りがある。またプロジェクトの仮説である『王様の耳はロバ耳』理論からすれば、《対話》こそが重要だ。そのため、《通話》の場合、現時点ではユーザーが録音を指示しないとシステムにはアップされない。今後、プロジェクトが本格稼働してサーバーの容量が上がれば、全通話を集めることも可能だが、そうなると警視庁公安部や公安調査庁の電話盗聴部隊の任務とカニバる。役所の力学として難しいところだ。
 それはともあれ、大路がわざわざ通話の録音を指示したのが、本当に小心さのなせるわざなら、無理に引きずり込まれたか、事件とは無関係なのかのどちらかだ。
 そうみひろが言うと、和藤は首を振った。「でも、大路が無関係なら密室殺人ってことになりますよね」
「上の階が留守だから、そこから侵入した可能性もまだあります」木月が微笑んだ。「ミステリーがお好きな室長としては、密室の方が血が騒ぐかも知れませんけど」
「ミステリーと言うなら、クイーンのパターンもありますよ」
 和藤の言わんとすることはすぐわかった。
「ああ、あれ? まさかの子どもが犯人」
「はい。現場に二人いましたよね」
「そうだけど……検死結果は力の強い大男だしねぇ」みひろはそこでふと思い出した。「そう言えば、あすいく園の園長……」
「貝原浩明ですね」
「その人はベッキオユーザーじゃなかったのよね」
「それがですね。園長本人ではなく、あすいく園で購入してました。法人ユーザーのリストにあって」
「そう、それじゃそこからアップされたデータも精査できるわね。データマイニングの方は、どうかしら?」
 木月は食事を終え、割り箸を折って弁当箱にしまいながら答えた。「システムにキーワードは放り込んだんですけど、『雉沢』って驚くほどヒットしませんね」
「人気ないのね」
「まあ、いまの時期、大して外交的な話題もないですから。個人的なスキャンダルもないですし」
「子どもの日がバレれば大騒ぎだけど」和藤が皮肉に口を挟む。
「ボキャブラリー集の方は、逆にヒットしすぎてスクリーニングに手間取ってます」木月は続けた。「AIの荒選りに、文脈制限の条件をかけて絞り込んでるところです」
「現場関連は?」
「やはり、『マンション』がやたらヒットするんで、『高輪』とand条件にしたり、『タワマン』を中心にしたりして調整中です」
「わかったわ、まだスタートして四時間だものね、焦らずいきましょう」
 みひろはそう言いながら、
「でも、ルーティンな調査業務と違って、殺人事件の捜査協力は時間勝負なのも事実ね。それに……」
「分一と分二には負けられないですもんね」
 木月がにっこり笑う。
「そういうこと。だから、眠いと思うけど、今日の十七時まで頑張ってみましょう。気がついたことがあれば、どんなことでも、その都度報告して」
 食事中外していたピンホールグラスを再びかけて、和藤と木月はパソコンに向かった。
 みひろも自分の席に着き、現場と検死について、自分なりの報告書をまとめ始めた。
 午前六時を回った頃だろうか。
 スマホに着信があった。小中井かと思ったが違った。

 画面に目つきの悪いコアラ。
 ――よっ。
 みひろはスマホを持って部屋を出た。ひと気のない廊下を抜けて、自販機のある休憩コーナーへ行く。
「早起きね、佐賀くん……って言うか、そっちは時差があるかもだけど」
 コアラは短い腕で腹を抱えて笑う。
 ――またまたぁ。そやって俺の居所にカマかけるぅ。
「逃亡犯でもあるまいし、そんなに居場所を隠さなくたっていいでしょ」
 ――あのな、俺くらいの金持ちになると、いろいろとうるさく行って来るやつが多いのよ。お前もいっぺん、富豪になってみな。ほんと、うんざりするから。
「相変わらず嫌味ね」
 しかし、そんな佐賀が嫌いではない。
 学生時代からの友人だが、学部は違った。佐賀は理学部で、みひろは経済学部。だが、サークルが一緒だったのだ。「ディベート・ウォリアーズ」と言う、いわゆる弁論部である。その縁で、卒業後もつき合いは続き、もうかれこれ二十年近い。そして佐賀がベッキオの提案をしてきた時から、関係は一層深くなった。
 上のゴーサインが出てから、僅か三カ月。その年のボーナス月である六月に、ベッキオのバージョン1を発売させた佐賀の剛腕。もっとも本人は指一本動かしておらず、グループ親会社の伝説的CEOによる無茶振りを、サーガテクノロジーの社員たちが必死で実現したのだろう。
 並行して広告戦略だ。人気女優・萌泉ララの起用に、景表法の規制ぎりぎりのプレミアム・キャンペーン、ネット上でバズらせる多彩な仕掛け。みひろも監督官庁から大手流通に圧力をかけ、優先販売させた。公正取引委員会にも手を回し、シェアナンバーワン広告を許可させた。強引なマーケティングで、ベッキオは本当にナンバーワン・ブランドにのし上がった。
 ベッキオシステムは会話誘導力を磨き上げ、重要なデータにタグ付けする精度を高めた。この段階でエンジニアが必要になり、出向してもらったのが木月杏子である。
 ところが、残念ながらベッキオはまだ長官が納得するような大ネタを掴んでいない。その辺りの事情はもちろん佐賀も熟知している。
 ――ところでさ、Vプロジェクト、その後、どう?
「木月さんから報告が行ってるでしょ」
 ――でもまだ、雉沢の件は来てないよん。
 みひろは驚いた。「佐賀くん! それ、どっから聞いたの?」
 ――むふ。佐賀恭平なめんなよ。
 まったく同窓生ながら油断のならない男だ。
 ――心筋梗塞。子どもの日。極秘捜査中。
 危険なワードを平気で並べる。いや、コアラだから平気かどうか表情は読めないのだが。
 そこまで早耳ならいまさらとぼけても仕方がない。佐賀の回線は、天才プログラマーが入念に作り上げた鉄壁のセキュリティーである。みひろは言った。
「殺された可能性がある」
 ――ほっほー。じゃあ、ビッグチャンス到来だな。
 増見と同じことを言う。
「でもね、どうも妙な事件なのよ」
 みひろはこれまでの経過を簡単に話した。佐賀と言えども部外者ではあるのだが、自分が言わなくてもどうせどこからか聞き込むだろう。それにみひろとて、ベッキオのような「話しAI手」がほしい夜がある。
 コアラはふんふんと頷いて、
 ――心筋梗塞に見えるように殺す方法は、まだわからないんだな?
「そうなのよ。毒物なら先例もあるらしいけど、解剖の結果は否定的だし」
 ――胸を強く突かれたのが死因でもない。
「そうね。肋骨にひびが入るほどの衝撃でも、心臓の血管が破裂することはないって」
 ――密室とかより、それが最大の謎じゃない? 逆に言うと、それがわかれば犯人もわかる。
「……でも、それはベッキオデータをいくら解析してもわからないでしょうね」
 ――だな。犯人がユーザーで、都合よく呟いていればいいけど。
「呟くかしら」
 ――そいつは何とも。
 その時、スマホにまた着信があった。
「あ、ごめん、局長だわ」
 ――オッケー。んじゃ、また。
 コアラはあっさり画面から消え、みひろは増見の音声通話を受けた。
 ――公安が引っ張ったぞ。
 挨拶もなく、そう言った。みひろは思わず問い返した。「え、誰をですか?」


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