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告げ口AIと少女の左手④

 ――大路だ、むろん。
 増見は早口に言う。
 ――と言っても捜査は非公式だから、逮捕じゃない。聴取自体も極秘だ。警視庁じゃなく、公安が持ってるダミー企業のひとつに監禁して尋問中だ。第一秘書の森戸以外には、過労で倒れたことにしてある。
「本人は何か話しましたか?」
 ――いや、否認してる。そう簡単に口は割らないさ。
「検死の結果からすると、実行犯ではなさそうでしたが」
 ――ああ、検死まで立ち会ったんだって? 熱心ですねって向こうさんが驚いてたよ。いや、公安でも実行犯とは見ていない。大路が犯人を玄関から入れたと疑ってる。
「昨夜、大路の《通話》を聴きましたけど、口ぶりからするとそんな計画に関わりそうなタイプではなさそうですが」
 ――FBI仕込みのプロファイラーの意見かい? 和藤だっけ。
「ええ。わたしも同じ印象を受けましたが」
 ――まあ、何にせよもう公安が動いた以上、こっちがどうこう言う立場じゃない。あくまで協力者に過ぎないんだから。
「それじゃ、この件はもう終わりですか?」
 思わず、失望が声に出る。大路が白状して幕引きなら、Vプロジェクトは何も貢献しなかったことになってしまう。
 だが、増見は、そうじゃない、と言った。
 ――まだ大路は落ちてない。結果が出るまでは継続だ。
 そして「記者会見が九時にセッティングされた」と付け加えて通話を切った。
 どうやら大路逮捕の一報を入れて、時間がないぞと尻を叩く電話だったらしい。この後、桐畑、左右田の両課長にも同じ電話をするだろう。あるいは、もうしているか。
 みひろは慌ただしくプロジェクトルームに引き返した。
 

 ――ベッキオ、お話していい?
 ――はい、ユウカさん。どうなさいましたか? 眠れないのですか?
 ――うん……ちょっと痛くて……ユウカ、今日、初めてだったでしょ? だから……
 ――お医者さまをお呼びしますか?
 ――ううん、大丈夫。でもね、もう、あんなこと、したくないの。でも、しないと、園長先生に叱られるし、お菓子も食べさせてもらえなくなるし、ベッキオともお話しできなくなっちゃうよって……
 ――それは困りますね。
 ――うん……でも、あのおじさん、どうしてあんなことするのかな? お口もとっても臭いの。そのお口で、ユウカにキスしたり、あんな……あんな……ユウカね、とっても痛かったの……痛くて痛くて、お願いやめてって……でも、やめてくれなくて……

 少女のすすり泣きが狭い部屋を震わせた時、さすがにクールな和藤も耐えきれないように音声をとめた。それでも、声の残響は暫く室内を漂い、三人の耳朶にまつわりついて、永遠に消えないと思われた。少女の、世界を黒く塗り潰すような、声。
「あすいく園が購入した端末にあった《対話》です。恐らくベッキオは娯楽室のような部屋にあるんですね。そこへこの子は夜中に忍び込んで《対話》した。感情パラメーターが大きく触れたんで、ベッキオが『要注意データ』にタグ付けしたようです」
「可哀想に」木月がくりっとした瞳を潤ませている。「やっぱり親がいなかったり、離れていたりするから、寂しくて心の内を聞いてほしいんですよ」
「ベッキオは誰でも使えるわけではないみたいね」みひろは言った。「あすいく園では、ここで言う『お呼ばれ』に行った子だけが、ベッキオと話せるんだわ。ご褒美として」
「一種のカーストですね」和藤が言った。「雉沢のような男の相手をすれば、お菓子をもらい、ベッキオと話せる」
「……ひどいわ」
「そう、ひどい話よね」みひろも、体の内側がかっと熱くなるような怒りに駆られていた。
 だが、残念なことに彼らのミッションはあすいく園の児童売春を暴くことではない。雉沢は本当に病死なのか、それとも殺人なのか、もし後者なら何者の仕業かを特定することだ。
 みひろは腕時計をちらっと見た。「そろそろニュースが出る頃ね」
 記者会見は九時の予定だ。現職の外務大臣急死の報だから、恐らく生中継されるだろう。
 和藤が自分のパソコンをテレビに繋ぎ、プロジェクターで投射した。朝のワイドショーは始まっていて、キャスターが雉沢の死を告げると、すぐに記者会見場にカメラが切り替わる。
 フラッシュの集中砲火を浴びているのは、五十代くらいの男性で、汗をかきながら原稿を読み上げた。『雉沢氏第一秘書・森戸寿彦』とテロップがある。
 みひろは大路の《通話》で聴いた、ドスの効いた声を思い出す。だがいまの森戸の声は弱々しく、殊勝な響きに本性を隠している。内容は雉沢が仕事場で急な発作を起こし、心筋梗塞で亡くなったというだけだ。初入閣して間もない時期であり、多忙を極めていたことが原因ではないか、と説明した。
 質疑応答の後、主治医である小黒クリニック院長も登場し、詳しい病状と、以前から不整脈が懸念されていたことなどを話した。小黒は心臓に問題はなかったと言っていたはずだが、事を荒立てないよう指示されたのだろう。
 著名な政治家の急死は衝撃的ではあるものの、病死では事件性もなく、報じるべき情報はそれで尽きた。後は雉沢のキャリアをざっと回顧して、
 ――では、次のニュースです。
「ま、こんなところでしょうね」みひろは言って、「そう言えば、朝ご飯を忘れてたわ」
 夜食は食べたものの、普通ならそろそろ空腹の頃合いだが、和藤も木月も首を横に振った。みひろも同じ気分だった。
 あすいく園の少女の泣き声が、食欲を失わせている。

 結局何も食べないまま、午後にかけて、パソコンに向かい続けた。
 大路がベッキーと交わした《対話》は、購入時点にまで遡り、すべてがモニターされ、みひろと和藤がクロスチェックしたが、雉沢暗殺を臭わせるような発言は見出せなかった。
 むしろ大路は、この転職に大いに期待しており、離婚や前職での不遇からの起死回生を願っていたようだ。わざわざ録音を指示した《通話》も、九重官房長官とのもの以外にはない。
 また、何者かが大路に接触した形跡もなく、個人的な動機をほのめかす発言もない。
 木月のデータマイニング作業も、はかばかしくなかった。ボキャブラリーがヒットしたデータをさまざまな手法でスクリーニングし、雉沢の死に結びつきそうなものを精査したが空振りだ。
 三時頃、小中井が現れた。「どうですか?」と訊く彼の表情も冴えない。みひろが現状を率直に話すと、ますます苦り切った様子で、「こちらもご同様ですよ」と溜息をついた。
 大路は頑強に否認を続け、公安でマークしている団体のどこにも、雉沢暗殺の気配もないと言う。唯一、新しい情報は少年の証言だけだった。
「喋ったんですか?」
 勢い込んでみひろが訊くと、
「まあ、一応」と小中井のテンションは低い。「夕べはもう遅かったし、小さい子だから一旦あすいく園に帰しましてね、今日、もう一度ウチの者が行ったんですよ。二人ともショックを受けただろうから学校は休ませてたんで、話が聞けたんですが、女の子は相変わらずだんまりで」
「じゃあ、男の子が」
「友坂澄生ね。それがですね、窓から男が入って来て、雉沢を殺し、また窓から去って行ったと言うんです」
「窓から……」
「何度訊いでも、バンッって窓が開いて、びっくりして見ると、黒ずくめの男がいたと」
「それが本当なら、鍵が吹っ飛んでいたはずですけどね」
「う~ん、まあ、そうですね。でも、実際にはそっと開けたのに、不意で驚いたからそんな印象に見えたってことも……ただまあ、そもそも信憑性がねぇ。二十八階の窓に黒ずくめの男がいきなり飛び込んで来たなんて」
「男は、その後どうしたんですか?」
「雉沢に襲いかかって揉み合いになって、雉沢がばたっと倒れ、男はまた窓から消えたそうです。暫くして我に返って、秘書のおじさんに知らせなきゃと思い、寝室から出たところでそのおじさんと鉢合わせた。それだけです」
 みひろは自分でも、その少年に会ってみたいという衝動を感じた。そして、少女にも。
 それは子どもの時、同じトラウマを抱えた同士めいた感情のせいか。午前中に、あすいく園の少女ユウカの涙声を聞いたせいか。
 しかし、その申し出をする前に、小中井は立ち上がった。「いやあ、大路で決まりだと思ったんですけどね。こりゃあ、長引きそうだなぁ」
 暫くして退庁時間になった。みひろは予定通り、和藤と木月に帰宅を指示した。
 二人は未練そうだったが、疲れきってもいた。無理もない。公安企画庁は情報を分析するルーティンワークが主体だ。事件が起きたら寝る間もない警察とは違い、突然真夜中に叩き起こされ、徹夜で働くのは初めてだった。
 それに、今日はこの件に全力を集中したが、いつまでも日常の監視業務をほったらかしにはできない。明日からは両方をこなすとしたら、一旦休息を取る方が合理的だった。
 みひろ自身も恵比寿のマンションに真っ直ぐ帰った。夕食を摂る気にもなれず、疲れ切った体をソファに横たえる。すぐに睡魔が訪れるかと思ったが、フル回転を続けた脳は容易にとまらない。乱れた思考があちらこちらをさまよい、やがてまた二人の子どもに漂着した。
 友坂澄生と三輪静香。
 少年の荒唐無稽な証言は、人の死を目の当たりにした幼い心の錯乱だろうか。
 みひろは、父親が首を吊るのを見た後のことを、まるで覚えていない。ひとの話では、彼女自身が救急車を呼んだのだそうだが。
 それにしても、自分はまだ幸運だった。父の死後、倒れた母もすぐ後を追ってしまったが、母方の叔母が引き取ってくれた。もちろんいつも気兼ねして、居心地がいいわけではなかったが、『お呼ばれ』という名の虐待を受けることはなかった。
 それでも孤児の悲しみは知っている。だから自分なら、少年から本当の話を引き出せる気がした。少女が牡蠣のように閉ざした口を開かせることもできるかも知れない。
 しかし、公安に黙って会いには行けない。警察ではないのだから、みひろ一人があすいく園に乗り込み、公安企画庁の名刺を出してもダメだろう。
 小中井は子どもの証言に重きを置いていないようだった。みひろが会いたいと言っても、相手にされないだろう。警察の縄張りである捜査に嘴を突っ込まれるのも嫌がるはずだ。
 こんな時、佐賀ならどうするだろう、と思った。学生時代、ディベートウォリアーズでも彼は常に優れたアイデアマンだった。弁論の組み立てに行き詰まる度、彼は「俺にいい考えがある」と言った。そしてそれは大概の場合、確かにいい考えだったのだ。
 ぼんやりしていて、よく覚えていないのだが、気がつくとスマホの画面にコアラがいた。自分からかけたのか、タイミングよく向こうからかかってきたのか。
 ――よっ。
「子どもに会ってみたいのよね」
 みひろが唐突に言っても、佐賀はあっさり頷いた。
 ――あ、雉沢の部屋にいた子どもね。何か証言したの?
「スパイダーマンが来たんだって」
 ――は?
「二十八階の窓から黒ずくめの男が飛び込んで来て、どうやってか雉沢を殺し、また窓から逃げたって」
 ――うふ、風のごとく去ったか。かっこいい!
「女の子の方は黙ったままらしいの。だから、ちょっと話してみたいなって」
 ――うん、みひろなら孤児の気持ちはわかるだろうしな。でも、お前んとこ、捜査権ないだろ。
「そうなの。事情聴取ってわけにはいかないし、公安に繋いでもらおうかと思うんだけど、向こうはあんまり乗り気じゃなさそうで」
 ――ははあ……だったら、俺にいい考えがある。
 コアラは、ますます悪そうな顔になった。

10

『明日を育てる あすいく園 SINCE2011』
 杉並の閑静な住宅街。看板が掲げられた門の向こうには、庭木の影にロッジ風の建物が覗いていた。
 児童養護施設と言うよりも、軽井沢辺りに文豪が建てた別荘を思わせる。
「こういう施設で、あんなことしてるなんて……ほんと、許せません」
 木月がみひろに囁く。ユウカという少女の訴えを思い出しているのだろう。
 痛い……どうしてあんなこと……
「行くわよ」
 みひろは木月を促し、門を潜った。
 夕刻だった。朝からいつものプロジェクト業務と並行し、雉沢急死関係の「要注意データ」を洗い出した。だが、やはり成果もないまま、和藤を企画庁に残して出かけて来た。
 入るとすぐ左手に、運動場というほどではないが、バスケットボールのゴールポストが立っていて、中学生と思われる男子が数人、ボールを奪い合っている。
 みひろは玄関で案内を請い、応対に出た女性に言った。「サーガテクノロジーの者ですが、園長先生にお目にかかれますでしょうか」
 アポイントはないが、すぐ奥の部屋から男が現れた。ひどく疲れた表情の痩せた男。みひろは意外に思った。子どもを提供して金を得ている悪党という先入観で、もっと脂ぎった人物を想像していたのだ。
 年の頃は六十前後か。薄くなった髪がぺたんと貼りつき、チノパンにポロシャツというカジュアルな服装。貝原園長は二人を応接室に通し、みひろと木月が出した偽名刺を、疑いもせず受け取った。
「で、どういったご用件で?」
「突然申し訳ありません。わたくしどもの対話型AIスピーカー・ベッキオを、こちらでもお使いいただいていると思いますが」
「ああ、ベッキオね。そう、子どもたちが使ってますよ」
「ありがとうございます。おかげさまで学校や保育園さんでも大変好評なんですが、今後はもっと子ども向けに特化した新商品を企画しておりまして。簡単に言いますと、AI子守り、といったことなんですが」
「AI子守り?」
「はい。現在のベッキオは基本的には大人の方をユーザーさまとして想定しております。それをもっとお子さんの話し相手に相応しいものにしたいんです」
「なるほど。やはり子どもには子どもに向いた接し方が必要ですからね」
「さすがです。園長先生のような専門家の方には、すぐご理解いただけると思ってました」
「まあ、私も長い間この仕事をやってきたからね」満更でもなさそうに園長は微笑む。
「AIも同じです。たくさんの子どもたちと会話を重ねることで、自分で学習し、スキルを磨くんですね。そこで、こちらのような場所で経験を積ませていただけないかと」
 みひろの合図で、木月が持参したバッグから箱を取り出した。テーブルの上に置くと、中から現れたのは、曲線で構成された丸みを帯びた物体である。色はパステルグリーンで、木月の指が触れたところは少し凹んでいる。金属ではなく、柔らかい素材で出来ているのだ。
 木月は裏側にあるスイッチを入れた。手が微かに震えている。無理もない。本来SEなのに、こんなスパイ紛いの身分詐称までさせられて。しかし、園長には和藤より若い女の方がいいと思い、みひろが頼んだのだ。
 パイロットランプが灯り、「こんにちは、モナミだよ」と、男の子とも女の子ともつかない中性的な声が言った。
 園長も、ほお、可愛いですな、と目を細める。
 木月が今日の午後、サーガテクノロジーから借り出してきた次の新商品、AI子守り。ベッキオ/ベッキーの無機的なデザインを変更し、しりとりなどの言葉遊びやゲーム、童話などをインプットしている。口調も執事風でもメイド風でもなく、友だちらしいものになっていた。
 発売前で機密なのだが、佐賀が手を回してくれたのである。
「フランス語で『私の友だち』という意味の、モナミです。まだ開発中ですが、試しにこちらに置いていただいて、モニターをお願いしたいんです」そう言った木月は、ぎこちない笑みを浮かべた。
「モニター、ですか?」園長の声に少し警戒心が出る。要はセールスか、と思ったらしい。
「はい」みひろが即座にフォローする。「もちろん無料です」
 園長の眉間が少し緩んだ。
「そうしたら、いまのベッキオは?」
「もちろん、お買い上げいただいたものですから、引き続きお使いください。ただ、ふたつあると子どもたちが迷いますから、いかがでしょう、ベッキオは園長先生に使っていただいて、感想を伺えれば、それもありがたいんですが」
「いや、私はこの手の機械はあんまり……」
「お使いになりませんか? まさにそういう方にどうしたらご利用いただけるかも研究中でして」
 園長は暫く考えた。それを後押しするように木月が言った。「ベッキオの方も男性向けに改善したバージョンがあります。それをインストールさせていただきますので」
 園長の視線が木月を舐める。木月は大きな瞳を見開いて、精いっぱいの愛想を振りまく。
 やがて園長は頷いた。「まあ、いいでしょう」
「ありがとうございます!」みひろと木月は同時に頭を下げた。

 園長はベッキオの置き場所に二人を案内した。ごく狭い部屋で、ここなら子どもも秘めた思いを打ち明けやすいだろうと思われた。
 作業に少々手狭なんですが、と木月が遠慮がちに言うと、では、隣の遊戯室で、と想定通りの展開になる。
 遊戯室は、打って変わって広い部屋だった。
 あちこちに古びた遊具。絵本の詰まった本棚。型遅れのテレビ。学校から帰った子どもたちが二、三人ずつ固まって、それぞれの遊びに耽っていた。
 片隅にある低いテーブルに、木月がモナミと交換してきたベッキオを置く。インストールができ次第、園長室に持って行くことにして、貝原を追い払う。
 木月はパソコンとベッキオをケーブルで繋ぎ、作業を始めた。プログラムを修正するのは嘘ではないが、男性用にカスタマイズするのではなく、《対話》や《通話》だけでなく園長室で交わされた《会話》もシステムに送るよう設定するのだ。人感センサーが反応し、誰かが園長室に入れば自動的にカメラとマイクが作動して、映像と音声が筒抜けになる。
 だが、もちろんこれはついでである。本来の目的は、友坂澄生と三輪静香に会うことだ。
 みひろは遊戯室にいる子どもたちを見渡した。まず、十歳くらいの、眼が細く、鼻と口が大きい少女を探す。
 自分の部屋にいる可能性もあるが、少女は食欲旺盛だと大路が言っていた。食堂に近い遊戯室で夕食を待っているだろうと思った。
 はたして、みひろの視線が、窓の傍で止まった。一人でぼんやり庭を眺めている少女がいる。
 その後ろ姿に、そっと近づく。
 長い黒髪が流れる先に、確かに子どもの割りにしっかりした鼻先が見えてきた。そして頬の向こうに現れた片眼は、剃刀の切れ込みのように細く、口元は大ぶりで、唇も厚めだ。
 みひろは改めて室内を見回し、職員がいないことを確認すると、腰を屈めて少女の耳元に囁いた。
「三輪静香ちゃんね?」
 三輪静香は、ゆっくりと振り向いた。不意に声をかけられても驚かない。表情のない眼で、見知らぬ女をじっと見た。
 名乗るつもりはなかったし、他の子どもがいる前であれこれ問い質すつもりもない。みひろはスーツのポケットから、薄いカード状のものを出した。
 静香の目が、濃い茶色の包装紙に吸い寄せられる。
 ハーシーズの板チョコ。
「他の子にはないしょよ」低く言って、静香の手に握らせる。
 それは、他の子に取られるかも知れないよ、という暗示だ。静香は警戒し、板チョコを素早く引っ手繰ると後ろ手に隠した。
 みひろは微笑みかけた。すると、静香が初めて表情を浮かべた。にんまりと微笑み返したのだ。
 これが、大路の言っていた、薄気味の悪い微笑だろうか。
 静香はそっと遊戯室を出て行った。どこか一人になれるところでこっそり食べるのだ。
 これでひとまず接触はできた。
 木月の傍へ戻りかけた時、子どもの一人が突然泣き始めた。甲高い声が耳をつんざき、みひろは顔をしかめた。さっきまで仲良く絵本を読んでいた友だちに、髪を引っ張られている。女性の職員が飛んできた。
 間もなく修正の済んだベッキオを園長室に持って行った。こじんまりとした部屋だが、家具はアンティークで揃えている。まるでイギリス貴族の書斎のようだ。ドアの正面に洒落た出窓があったので、ベッキオはそこに置くことにした。
 一週間後の再訪問を約して、みひろと木月はあすいく園を辞した。
 木月は興奮していた。こんなスリリングなことは初めてなのだ。みひろも長い間デスクワークで現場作業は久しぶりだった。
 後は明日、学校帰りの静香を待ち伏せ、また板チョコで釣り、公園にでも連れ込んで話を聞くつもりだった。そうしてまず静香と打ち解ければ、澄生とも接触の機会がつくれるだろう。
 だが、明日を待つまでもなく、その夜みひろは、小中井と共に再びあすいく園を訪れることになる。

11

 着信音で、強引に目を開かされた。寝ぼけまなこで窓の外を見ると、夜の闇は深かった。
 応答すると、流れてきたのは小中井の声。
 ――凌野室長、あすいく園の園長が……
 目が覚めた。

「一応お知らせしとこうと思っただけなんですよ」
 初めて乗る覆面パトカーの後部シートに飛び込んだみひろを、助手席の小中井が振り返った。
「ええ、でも、差し支えなければ」
「まあ、差し支えはないですが……」
 戸惑ったような表情を小中井が見せる間に、クルマはみひろの自宅がある恵比寿から、杉並区に向かって走り出している。ハンドルを握る若い男は、バックミラー越しにみひろを見ると、軽く会釈した。高輪のマンションで部屋に通してくれた公安刑事の一人だった。
 走るクルマの窓から見下ろすと、流れ去る路面は黒く濡れている。雨が降ったらしい。
「いまから一時間前、二十三時頃です」小中井は前を向いて話し始める。「一一〇番に通報がありまして、あすいく園で園長が死んでいると言うんです。かけてきたのは宿直の職員でした。警察官が急行して、死亡を確認。他殺の疑いもあるってことで刑事部が出たんですが、雉沢関連と思われる場合は公安にも一報する通達が回ってましてね。さすが官房長官、抜かりがないです。それでウチにも連絡が来てすっ飛んでってます。多分刑事部はもう、連中が蹴散らかしたんじゃないかな」
「大分抵抗するでしょうね」
「そりゃあね。誰だっていい気はしませんが、官房長官のご威光には逆らえない」
「水戸黄門の印籠ですね」
「だったらわれわれ、助さん格さんですか」
「雉沢の件と関連はありそうですか?」
「多分」小中井は咳払いした。「先に現着したウチの者が送って来たんです」
 振り返り、差し出したスマホをみひろは見た。
 写真である。
 男の顔面のアップ。紙のように白い。眼窩からはみ出した眼球。だらりと垂れた舌。
 そして、はだけた胸に、うっすらと手の形の痣。
「これで死因が心筋梗塞なら、まず無関係じゃないでしょう」
 杉並のあすいく園まで、残りの車中は無言だった。

 その日の夕方、あすいく園の門を潜ったことは小中井には黙っている。取次ぎに出た職員がみひろを思い出す恐れはあったが、この騒ぎでそんな余裕はないだろう。じっくり顔を突き合わせた園長は、既に死亡している。みひろは初めて来た体で、小中井の後から覆面パトカーを降りた。
 門前に回転灯を点けたパトカーが一台。開けっ放しの門の内側にもクルマが二台。それぞれ刑事部と公安部だろう。
「あれ、まだいるのかな、あいつら」小中井は呟いた。
 パトカーはサイレンを鳴らして駆けつけたらしい。真夜中にもかかわらず、近所の野次馬がぞろぞろと集まり、揃ってスマホを掲げている。
「今度は病死ってわけにはいきませんね」みひろが囁く。
「どうかな。ま、最悪、強盗でも入ったことにしますよ」
 張り番の警官に小中井がバッジを示し、門の中に入った時である。
 ちょうど玄関が開いて、仏頂面が三つ出て来た。じろっと、みひろたちを睨む。追い返された刑事部だ。玉砂利を荒々しく踏んで一台のクルマに乗り込むと、やけのようにエンジンを吹かした。
 邪魔にならないよう、道を開ける。自然に玄関横に立つことになった。
 バスケットボールのゴールポストがあるあの場所だ。雨に濡れたボールが、ゴール下に転がって寂し気だった。
 刑事部のクルマはわざともたもた時間をかけて、ゆっくりと門を出て行く。小中井は中指を立てそうな顔をして睨んでいた。
 入れ違いに、玄関に入る。
「ああ、ご苦労さまです」
 公安刑事の一人が小中井に頭を下げた。
「ご苦労さん。やつら、大分ゴネた?」
「官房長官に電話するかって言ってやりましたよ。年寄りだからもう寝てるぞ、叩き起こされたらさぞ不愉快だろうなって」
「ふふ。結局俺たちには勝てっこないのに、なんでいちいち手間かけさせんだろうな」
「現場はこっちです」
 案内されて奥に向かう。
 正面の階段から、二階の物音が漏れていた。子どもの声だ。異常を感じて興奮している。それを宥めたり、寝なさいと叱ったりする声は職員のものか。
 その騒ぎを遠く聞きながら、ひと気のない廊下を進む。開いたドアのひとつから、三輪静香と会った娯楽室が見えた。
 園長室にも初めて入る顔をして、小中井に続く。イギリス貴族の書斎風のシックな部屋。だが、夕方とは違っている点がふたつあった。
 ひとつは窓だ。ドアの正面にある出窓のカーテンが風に翻っている。開いているのではない。外から破られているのだ。
 そして、もうひとつは、そこに置いたベッキオだった。破られた勢いで跳ね飛ばされたのか、デスクの脇に転がっている。みひろは密かに舌打ちした。破損していればデータも……
「窓から入ったか」小中井は嫌な顔をした。「あの小僧の言ってたことが、ほんとなのかなぁ」
 友坂澄生の証言では、雉沢の部屋に窓から黒ずくめの男が侵入している。それを小中井は信じていない。子どもがショックで錯乱したか、問い詰められて口から出まかせを言っていると。
 しかし、もし園長も窓から侵入した何者かに殺害されたのなら、同一犯の仕業だろう。解剖医の言ったバカ力の大男は、極めて身が軽いことになる。
 園長は、出窓の下に倒れていた。仰向けに天井を睨んでいる。あの、眼窩からはみ出した爬虫類のようなぎょろ眼で。
 表の方で、警官が交通整理に声を枯らしている。
「鑑識と検死官が到着ですね」若い刑事が玄関へ迎えに行った。
「そしたら、ここは明け渡しましょう。狭いから全員はいられない」小中井はみひろに言った。「発見者の話を聞きますけど、同席しますか?」
 もちろん、みひろは頷いた。
 玄関の近くに戻り、応接室に移る。そこで三人の職員が待っていた。一人はいかにも孤児院の先生という感じの、温和そうな白髪の婦人。これが副園長。そしてこの夜中にきちんとスーツを着た中年の男性が事務長。最後の一人はラフな服装の若い男で今夜の宿直だと名乗った。いずれともさっきは顔を合わせていない。みひろは安心して、会釈を交わした。
「園長を見つけたのは、どなたです?」
 立ったまま小中井が質問すると、宿直の職員が手を挙げた。
「十時半か、少し過ぎたぐらいに、窓ガラスが割れる音がしたんです。ぼくは二階の宿直室にいたんで、泥棒かと思って見に降りました。一階のドアをひとつずつチェックして……」
「宿直室って、通常、一階にあるもんじゃないですか?」
「そうですか……当園では二階が子ども部屋なので、近くにいた方が……」
「ああ、なるほど。で、園長室に辿り着いたと。その時、ドアに鍵は?」
「園長先生はめったに鍵をおかけになりません」
「で、ドアを開けて、中を見た」
「はい。窓は割れてるし、園長先生は倒れてるし。もう慌ててしまって」
「通報はどの電話で?」
「ここの電話を使いました」宿直職員は応接室の片隅の固定電話を指で示した。「携帯は部屋に忘れてしまって、園長室のも指紋がついたらまずいのかなと思って」
 刑事ドラマのおかげで、現場保存の重要性は国民一般に教育されている。
「その後、副院長と事務長に連絡しました」
 老婦人はただ怯えきっているが、事務長の方は何か考え込んでいる。その鋭い目つきは猛禽類を思わせる。「お呼ばれ」の実態を知っているな、とみひろは思った。一方副園長はお飾りで、何も知らないのだろう。
「園長の自宅にも連絡されましたか?」
「それが」答えたのは副院長だった。「園長先生は独身でいらっしゃって」
「あ、そうですか。じゃ、ご家族は……」
「いません。お一人暮らしです。ご実家も確かもうどなたも」
「しかし、お宅はこことは別にあるんですよね」
「はい、練馬にございます。いつもは、六時からの夕食を子どもたちと摂りまして、それから帰宅されるんですけど。今夜はお帰りの前に、ちょっと……」
「ちょっと?」
「あの、一昨日、雉沢先生がお亡くなりになりましたね」
「ええ、心筋梗塞で」
「先生は生前、当園にもご寄付もいただいてまして、その他にも子どもたちを度々食事に招待してくださるんです。慈善活動の一環として」
 慈善活動か……この老婦人はそう信じ込んでいるのだ。みひろは事務長をちらっと見た。こちらはポーカーフェイスだった。
「一昨日も、実はウチの子どもたちがお邪魔していました。友坂くんと三輪さん……二人ともやはりショックだったんでしょう。目の前で人が亡くなったんですから。それで大分元気がないので、学校も休ませておりましたが、警察の方も見えて、長い時間質問されまして、その疲れもあって、なかなか笑顔が戻りませんで」
 孤児に笑顔なんてあるか。みひろは苦々しく思った。この副園長は教育者なのに何もわかっていない。そしてこの回りくどい話し方。「お呼ばれ」の裏を見抜く頭もなさそうだ。
「それで夕食後、慰めてやりたいから呼ぶようにと園長先生が」
「夕食後なら七時頃ですかね。終わったのは?」
「三十分程度じゃないでしょうか。わたしは子どもたちにテレビを見せたり、遊び相手をしたりしてまして、確かなことはわからないんですが」
「事務長さんはいかがです?」
 事務長は素っ気なく首を振った。「いえ、私は夕食前に帰りますから」
「じゃあ、まあ三十分くらいで話は終わって、子どもたちは部屋に戻ったらしい、と。しかし、園長は帰らなかった」
「そうなりますね。わたしはてっきりお帰りになったものとばかり……」
「こちらにいるお子さんは何歳ぐらいなんですか?」
「下は五歳くらいから、上は中学生までです。義務教育が終わるまでに、里親が見つかれば出て行きますし、そうでなければ住み込みの仕事を探すことになっています」
「中卒では難しいでしょう?」
「いえ、人手不足ですから、何かしらはあります。でも、本当は高校くらいは出してあげたいんですけど、部屋数に限りがありますし、新しく入って来る子どももおりますし」
「部屋は大部屋ですか?」
「個室もあります。後は二人部屋か四人部屋ですね」
 これもカーストだな、とみひろは思った。大人たちの汚い欲望の犠牲にさせられた子どもは、特権として個室を与えられるのだ。
 だとすると、雉沢に四回も呼ばれた友坂澄生は当然個室だろう。さっき接触できなかった少年に会う機会だ。
「あの……」
 みひろは聴取を遮った。視線が一斉に自分を向く。
「友坂くんに会えないでしょうか」

 宿直の若い職員は、いかにも子ども好きそうな笑顔を丸っこい体形に乗せていた。
「一応、消灯過ぎてますんで」二階への階段を先に立って昇りながら、低く囁く。「ほんとはいけないんですけど、澄生は結構宵っぱりですから起きてると思います」
 この男も園の裏側を知っているのだろうか。子どもたちに何をさせ、その代償に得た寄付金で、自分の給料も賄われていることを。
 それを知った上でこの笑顔だとしたら、どんなサイコパスより恐ろしい。
 あすいく園の二階には、長い廊下が伸びていた。左右に並ぶ扉のひとつを職員はそっとノックし、返事を待たずに開ける。
「澄生、起きてるよね?」
 室内は真っ暗だが、うん、という声が返る。
 職員は中に入り、壁のスイッチを捻った。
 狭い空間にベッドがひとつ、机がひとつ。安いビジネスホテルよりまだひと回り小さい。みひろは昔映画で見た修道院を連想した。
 ベッドに仰向けに横たわり、友坂澄生は天井を真っ直ぐ見つめていた。
 みひろは驚いた。確かに、美しい少年だ! 美術愛好家なら、ルネッサンスの巨匠が描いたアドニスやナルシスを思い浮かべるだろう。
「友坂くん、わたし、凌野と言います」警察という言葉は避けたが、少年はわかっているようだ。「少し、話してもいいかしら?」
 澄生は首をこちらに向けた。その瞳の色に、みひろはまた打たれた。鳶色というのか、ハシバミ色というのか、茶系統ではあるが、単純な茶色ではない。複雑な色が混じり合い、溶け合い、屈折した感情が溢れ出すような眼だった。
 みひろはベッドの脇に立ち、腰を屈めて澄生に顔を寄せる。
 澄生も上半身を起こした。ベッドから降りようとするので、そのままでいいわ、と言うと、枕を背中に当てて座った。
 自分から会いたいと言ったものの、何を話せばいいのかわかっていない。ひとまずアイスブレークのために、当たり障りのない話題を探して室内を見渡した。
 殆ど物を置く余裕もないが、ひとつだけ、部屋の主の個性を主張するものがあった。
「釣りが好きなの?」
 片隅に隠すように、細い釣り竿が一本、立てかけてあったのだ。
「……はい」
 少年は頷くが、また黙ってしまう。
 職員が口を挟んだ。「澄生のパパが好きだったんだよな。よく連れてってくれたんだろ」
 少年はまた頷く。
「好きだった」と過去形であるからには、父親は亡くなっているのだ。悲しい記憶にしか繋がらない釣りの話を膨らませても意味がない。みひろは諦めて、本題に斬り込んでみた。
「昨日は雉沢先生のところでご馳走になったのね」
「……はい」
「おいしかった? どんなお料理だったの?」
 澄生は首を傾げた。さすがにフランス料理の名前はわからないのだろう。
「……スープと、お肉と……」
 そこでふと、キッチンに食べ残しがなかったことを思い出す。
「たくさんあったでしょう。みぃんな食べたの?」
「ぼくは……あんまり……静香ちゃんが」
「静香ちゃんが食べたの?」
「あの子、よく食べるんだ……です」
 言い直すところが微笑ましく、みひろの口元もほころぶ。
「そう、静香ちゃんはたくさん食べる子なのね」
「うん……いつも全部……他の子が残したら、それも……」
「ふうん。じゃ、昨日は、きみの分も?」
「はい……おじさんのも」
 雉沢の分も! それは六年生の女の子にしては異常ではないだろうか。
「へぇ、凄い食欲ね。でも、いいことだわ。これからどんどん大きくならないとね。澄生くんもちゃんと食べるのよ」
「いつもはぼくだって残さず食べるけど、大人に呼ばれた日は、食べれない」警戒心が薄れたか、鬱積したものが溢れたか。澄生は初めて淀みなく言った。
 大人に招かれて緊張するという意味にも取れるが、もちろん本音は食後に寝室で強要されるおぞましい行為を思うと、とても食事どころではないと言いたいのだろう。
 少なくとも四回、この繊細なガラス細工のような少年は、雉沢の餌食になっている。これだけの美貌なら、他にも彼を望む者はいるだろう。すると、もっともっと多くの夜を、苦痛と恐怖と屈辱の中で過ごしたに違いない。
 みひろはいつしか、両手をきつく握りしめていた。
「それで……その時、窓から男の人が入って来たのね」
 澄生はどこか怒ったように早口で言った。「ほんとだよ、窓から入って来て、おじさんに飛び掛かって、おじさんは死んじゃって、また窓から行っちゃったんだ」
 証言を信じてもらえていないのは、子ども心に感じているのだ。その苛立ちを鎮めたくて、「わかってるわ」とみひろは手を伸ばした。肩か腕か、どこかに軽く触れるつもりだったが、少年は襲われた小動物のようにびくっと身を遠ざけた。
 みひろは慌てて手を引っ込める。
「今日は、夕ご飯の後、園長先生に呼ばれたでしょう」
 話題を変えると、壁の方に身を寄せたまま、澄生は頷いた。
「どんなお話だったのかな?」
 澄生の複雑に美しい瞳が斜め上を向いた。考えている証拠……つまり、嘘をつこうとしている証拠か。
 この子の美貌に惑わされてはいけない。子どもにも策略はある。
「……元気を出しなさいって」
 澄生はおずおずと答えた。軽く仕掛けて敵の反応を伺う棋士の顔。
「うん、元気を出すのね。他には?」
 たたみ掛けると、また瞳が斜め上を向く。
「……あの……窓から入って来た怖い人は、もう来ないから大丈夫って……」
 それが本当なら、貝原園長の保証は空手形だったことになる。それも子どもたちのところではなく、彼自身のところへ現れたのだ。
「それでお終い?」
 澄生はまた、頷く。
「じゃあ、園長室を出たのは七時半ぐらいだったかしら?」
「はい……多分」
「その後は?」
「遊び部屋に行って、テレビを見ました」
「ふうん、どんな番組?」
 人気芸人が出ているお笑い番組の名を言った。
「ああ、あの番組ね。わたしも好きよ。澄生くんは芸人さんは誰が好き?」
 メインで司会をしている漫才コンビの名が上がる。
「うん、すっごく面白いわよね。笑っちゃうよね」
 やっと、少年は微笑んだ。だが、彼の答えに、みひろはまた胸を衝かれてしまった。
「笑ってると、嫌なことも、忘れられるでしょ」
 暫く、沈黙が部屋を染めた。
 職員が痺れを切らした。
「もう、よろしいですか?」
 みひろははっと我に返り、澄生に微笑えもうとしたが、頬が強張る。「どうも、ありがとう。おやすみなさい」
 澄生は肩の力を抜いた。「おやすみなさい」
「おやすみ、澄生」
「おやすみなさい、先生」
 職員はみひろを外に出し、自分も出しなにスイッチを消した。
 闇が戻る。
 ドアを閉めた彼は、みひろの顔を見て表情を変えた。
「何か?」
 みひろが怪訝に思って訊くと、彼は自分の頬を人差指でなぞった。
 それを真似てみて、指先が湿るのを感じた。
 気づかない間に、みひろは泣いていたのだ。


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