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告げ口AIと少女の左手⑤

12

 小中井のクルマで自宅まで送ってもらい、そのまま眠れずに朝を迎えた。
 たっぷりとした朝食をつくり、異常な食欲だという三輪静香のことを考えた。
 澄生と話した後、この点については職員にも確かめた。
「ネグレクトがあったみたいで、そういう子にはまま見られるんですよ。食事をちゃんと与えてもらえてないと、次はいつ食べられるかわからないんで、詰め込もうとする。その癖がまだ抜けないんですね」
「ここへ来たのはいつですか?」
「つい先月ですよ。父親が亡くなって、母親も行方不明。祖父母も、父方は随分前に亡くなって、母方は祖母がいたんですけど、それも最近亡くなって」
 今日はどうしようか。二人の子どもにはともかく会えたが、静香とは顔を繋いだだけだ。学校帰りを待ち伏せようか。
 それに公安が押さえている大路秘書にも、できれば会いたい。
 だが、そうそうこの一件にばかりかまけてもいられないのだ。
 上半期の終わりは管理職が忙しい時期である。特に下期の予算を取るための折衝が重要だ。その日の午前中も、課長以上が出席する全体予算会議がある。Vプロジェクトルームは増見情報分析局長の直属で、課長に当たる上司がいないため、みひろも、桐畑や左右田と伍して出席する。
 全体会議はこれが一回目だから、二回目に向けて午後は資料づくりや下準備、根回しに追われる。とても、静香の学校や大路が監禁されている公安のダミー会社に行く暇はないだろう。
 定時に登庁すると、和藤と木月はもう来ていた。
 みひろが、昨夜あすいく園の貝原園長が急死したと話すと、二人とも驚いていた。
「とは言っても、いつまでも通常の監視業務を疎かにできません。それで今日からは、この件に関するデータマイニングは中止します。木月さんは通常の『要注意データ』の精査をお願い」
 木月は残念そうだったが、はい、と素直に言った。
「和藤くんは雉沢の件を引き続き追ってほしいけど、方針はちょっと考えないとね。まだあまり成果がないし」
「そうですね。でも園長が死んだのなら、鑑識と検死の報告が知りたいですね」
「それは小中井さんに頼んどく」
 そう言って腕時計を見ると、全体会議まで後五分もない。小中井に慌ただしくメールで依頼し、会議室に向かった。
 課長ではないみひろは末席である。そこから少し離れた桐畑と左右田を伺うが、彼らはもとより増見局長ですら、普段とまったく変わらない態度だ。
 各課から予算要求が行われ、局長クラスから質問が飛ぶ。第一回から会議は紛糾した。特に、Vプロジェクトルームが未だに大きな成果を上げていない点が問題視された。
 攻撃の先頭に立ったのは、情報統括局局長である。情報統括局は、警視庁公安部と公安調査庁のデータベースを統合するシステム構築が仕事だ。だから、Vプロジェクトのような新しいシステムが増えるのは歓迎していない。おまけに彼は同じ局長の増見とはライバルである。プロジェクトの失敗を誰よりも願っているだろう。
「いまご報告しましたように」みひろはとりあえず弁明をする。「情報貢献の件数は今年度、飛躍的に伸びています」
「情報貢献」とは、破壊活動を行う恐れのある国内外の団体に関する情報を、関係機関へ提供することだ。みひろは多少これを拡大解釈して、例えば麻薬の使用をほのめかした人物の情報を厚生労働省麻薬取締部にリークしたり、改造拳銃を見せびらかした男の情報を警視庁に提供したり、団体ではなく個人に関するものも含めて数を水増ししている。
「この傾向は今後も続く見通しで……」
「私は量の話じゃなく質の話をしてるんだ」統括局局長はけんもほろろだ。
 増見が慌てて援護の口を挟む。「いつどんな情報が掛かるかは、神のみぞ知るだろう。量を増やしていけば、その確率が上がるんだ」
「それはそうだが、ならば、コストパフォーマンスを検討しないとな。その確率にいくらかかるかが重要だ」
「この件のコストは」みひろが言った。「サーガテクノロジーが負担しています」
「ああ、いまはまだトライアルだから、凌野室長のご学友が太っ腹に払ってくれてる」嫌味な笑いが浮かぶ。「しかし、本格採用となれば向こうも商売だ。システムの提供や維持管理に費用を請求してくるだろ?」
 それはその通りだ。もっともあのコアラは、格安でやるよ、とウインクしたのだが。
「Vプロジェクトが有無を言わせぬ大ネタを掴めばともかく、情報収集能力に対していくらかかるのか、費用対効果に鑑みて結論を出すことになるだろう。まだ半年先とはいえ、そろそろ具体的な見積もりを取っておくべきだ」
 そして見積が出てくれば、今度は高いといちゃもんをつける。そうやって毎回否定的な発言というボディーブローを効かせておく。年度末、コーナーに追い詰めたVプロジェクトを、留めの一発でマットに沈める腹だ。
「ベッキオの持つ可能性は、金のために捨てるには惜しい」増見がせめてものカウンターを放つ。「公安も調査庁も、自分のネタはなかなか明かしたがらないんだ。ウチでも自前の情報収集システムを持つ意義はある」
「それはそうだが、極秘であっても機密費の計上は必要だ。いずれは見積も取らなきゃならないんだから、いまの段階で一度見ておいてもいいだろう」
 増見はそこで引いた。「ま、それはやぶさかじゃない」
 それで、みひろが見積を取ることになり一応収まったのだが、予定は大幅に超過して午後一時半になっていた。
 廊下に出たところで、みひろは増見に呼び止められた。「大分やられたな」
「すみません。このタイミングで来るとは思ってなくて準備が」
「まあ、まだ致命的じゃない。ところで夕べ、園長が死んだってな」
「ええ。現場に行って来ました」
「見込みはありそうか?」増見は低い声をさらに低めた。「桐畑はとっくに投げてるし、左右田も厳しいと言ってる。後は凌野ルームだけが頼りなんだ」
「残念ながらウチもまだ」
「そうか……ここで犯人を炙りだせれば大手柄なんだがなぁ」
 言われるまでもない。
 みひろは軽く頭を下げて、部屋に戻った。
 普段軽く済ませる朝食をしっかり食べたので、空腹ではない。そのまま木月に見積を頼み、追加資料の作成に夕方まで没頭した。
 すると四時頃、和藤が席に来た。「ちょっと考えたことがあるんです」
 木月も小耳に挟んで、手を休めた。
「いいわ、話して」
「公安から、あすいく園の現場状況を送ってきました。それを見ると、窓が破られてますよね」
「ええ。出窓ね。装飾品なんかが置いてある。外から開けるには取っ掛かりがないから、乱暴に突き破ったんでしょうね」
「いや、それが、実際には難しいと思うんですよ」和藤はプリントアウトの束を持っている。現場検証の報告書だろう。その一枚をみひろに示した。木月も席を立って、みひろの後ろから覗き込む。
 庭から出窓を撮影した写真のプリントアウトだった。鑑識課員が何か調べている後ろ姿が写っている。
「この人の身長が1メートル70くらいとすると、地面から出窓の中心部までが約1メートル半です。庭から園長室に飛び込むにはこの高さを飛ばないといけません。でも、陸上競技の男子110メートルでも、ハードルの高さは1メート67センチなんですよ」
「じゃあ、何とか越えられるじゃない」
「アスリート並みのジャンプ力があればですよ。それに、助走が15から20メートル必要なのに、出窓の前はすぐ庭木です。とてもそんな距離は取れません」
「それじゃ、偽装だって言うの?」
「そうです。恐らく庭から棒か何かで窓ガラスを突き破って、飛び込んだと見せかけたんじゃないでしょうか」
 棒という言葉に、みひろは反応した。どこかで棒を見た。昨日、あすいく園で。
「それと、雉沢の部屋の窓が開いていたことを考え合わせると、プロファイリング的にちょっと面白い共通点があるんです」
 謎解き場面の名探偵よろしく、和藤はそこでひと呼吸置いた。
「幼稚さなんですよ」
 再びみひろは反応した。今度ははっきり、昨夜会った友坂澄生の顔が浮かんだ。
 幼稚さ……つまり、子どもっぽさ。
「映画やアニメの表現を、実際にあるものと鵜呑みにしてしまうって、子どもにはよくありますよね。例えば、ヒーローが窓から飛び込む場面がよくあります。でも、撮影では俳優はトランポリンで飛んでいるし、窓ガラスも本物じゃなく、割れても怪我をしない材質のものです。しかし、子どもはそこまで想像が及ばない。それで、道具を使って窓ガラスを割っておけば、警察はそこから犯人が入ったと考えると思った。雉沢の場合もそうです。あの時、部屋は密室状態で、自分たちしかその場にいなかった。それで疑われないようフランス窓を開け放しておいた。でも、そうなると犯人は高層マンションのベランダにロープ伝いに降りたことになる。でも、これもアクション映画じゃよくある場面だから、子どもにしてみたら問題ないわけです」
「それじゃ、友坂澄生が嘘をついたってことね。そうしたら夕べの細工もあの子が……」そう言いかけたみひろは、澄生の部屋で見たものを思い出したのだ。釣り竿。すなわち、棒である。
 そして、雨に濡れていたバスケットボール!
 例えば、釣り竿にボールを結び、庭から出窓に投げる。ガラスが割れたら、素早く引いてボールを回収する。
 こうして自分たちから嫌疑の目を逸らすのだ。
 しかし、それは裏を返せば、二人の子どものどちらかが……あるいは二人が共謀して、雉沢と貝原を殺したということになる。
「でも、犯人は」木月が言った。「凄い力のプロレスラーみたいな男なんですよね」
「そこなんだよね。でも、考えようはある。殺人犯と事後工作犯は別だとするんだ。雉沢の場合、やはり大路が手引きして殺人が行われたんでしょう。だが、子どもは自分たちが疑われると思い、窓を開けて侵入者をでっち上げた。園長の場合も、自分たちが生前の園長を最後に見ています。それで出窓に工作し、外部犯に見せかけたんですよ」
「すると殺人犯は?」
「それはわかりません」和藤は認め、ベッキオのようなことを言った。「まだデータ不足です」
「子どもたちを売春から守る正義の組織ですかね」木月は冗談とも真面目ともつかない顔で言った。「必殺仕事人的な」
「それこそ映画ね」
 だが、みひろは和藤の「幼稚さ」という着眼点に強く惹かれた。あの綺麗な少年。異常な食欲の少女。雉沢や貝原園長と最後に会っているのは、あの二人なのだ。
 必ず事件に関わっていると、直観が主張していた。
「とにかく、男の子と女の子について掘り下げてみましょう」みひろは結論づけた。「男の子は友坂澄生、女の子は三輪静香。この名前に言及した音声データをすべてチェックね。木月さんもいまの作業は一旦置いて、やってみてくれない?」
「了解です!」
 木月は張り切っていた。

「見つけました!」
 ピンホールメガネを外して、木月が嬉しそうに言ったのは、それから三時間後だった。退庁時間はとっくに過ぎているが、Vプロジェクトルームは今日も徹夜の覚悟だ。
「シズカって、工藤静香もいれば、静御前もいるしで、三輪静香でも同姓同名が結構いまして、なかなかお目当ての子にヒットしなかったんですけど、公安の報告書で小学校の名前がわかったんです。そしたら、四年の時の担任がユーザーでした」
「なるほど、学校の先生か。扱いにくい生徒がいれば、愚痴もこぼすわよね」
「それがちょっと変なんですけど……まあ、聞いてください」
 木月がパソコンのキィーを叩くと、スピーカーから女の声が流れた。女性教諭なのだ。
 しかし、彼女が話題にしているのは三輪静香ではなかった。横綱というあだ名の関川龍。そして遠野圭太郎という少年。どうも横綱が怪我をしたらしく、そのことを遠野が知らせたらしい。
 だが、やがて教師は幾分の畏怖を感じさせる声音で、その名を口にした。
 三輪静香。
 少女はその場にいて、なぜか笑っていた、と言うのだった。
 顔面蒼白で苦悶していた横綱は、辛くも一命を取り留めた。本人は急に気分が悪くなったとしか言わないが、医師の診断はまさかの心筋梗塞。
 小学生の病名とは思えないが、あだ名の通り大柄で頑健な少年が、ネグレクトで栄養不良のひ弱な少女と喧嘩して負けたとも考えづらい。
 だが、その謎は棚上げになったまま、教師とベッキオの《対話》は終わっていた。
「それから、もうひとつ。ある刑事が三輪静香のことを話しています」
「刑事?」
「ええ。あの子の父親は殺されていたんです。その事件を担当した刑事です」
 逃げたカメレオンを契機に、発見された男の死体。それが静香の父親、三輪辰徳だった。母親のエリカは犯人に拉致されたと見られ、行方不明。背後にはコカインが絡んでいると思われる。
 静香は、父親の死体のすぐ横で、ソーセージを食べていた。その情景を想像すると、背筋が寒くなるような不気味さがある。
 そして取調室で、またも見せた不可解な笑み。
「三輪静香については、以上?」
「はい」
「和藤くんはどう?」
「友坂澄生が一応見つかったんですけど、本人はユーザーではなく、学校の友だちが噂しているのが三件だけで、内容も他愛ないです」
「一応、聞かせて」
 しかし和藤の言うように、他愛がなかった。友だちというのはいずれも女の子で、澄生のことが好きだと、少女なりの苦しい胸の内をAIに訴えていたのだ。
 その後で、みひろはもう一度、静香にまつわる音声データを再生させた。
「この刑事が言う被害者の状態は、雉沢、貝原に似てますね」再生が終わると、和藤が言った。
「そうね。飛び出した両目、紙のように白い顔。死体検案書を見れば、多分胸に手型の痕がある」
「だとすると、同じ人物が三輪静香の父親、雉沢、貝原を襲ったことになります。しかも、静香の目の前で」
「そうね。後、横綱もいるわ。未遂だけど」
「ほう、横綱って、どの横綱です?」
 不意に、みひろの言葉が遮られた。
 驚いて振り返ると、ドアのところに公安の小中井が立っている。この部屋に入るには身分証でロックを解除しなければならないが……どういう手蔓か、自分のIDで入れるようにしたらしい。
「ども。お疲れさまです」
「小中井さん、大路は吐きましたか?」
 みひろが質問に質問で返すと、小中井は肩をすくめた。
「ダメですね。完全否認です。われわれが無理矢理罪をきせようとしているんだって、もう泣くわ喚くわ。挙句、自殺に見せかけて殺すつもりだろうって、えらく怯えちゃって」小中井は苦笑した。「周辺もかなり洗ったんですけど、怪しい節もない。これ以上攻めても埒が明きそうにないんで、今朝、解放しました。もちろん、見張りはつけてますけど」
「どのみち、園長の件には無関係ですしね」
「そう、アリバイは完璧だ。公安が証人です」
「それで、やることがなくなって、こちらへ来たと」
「いやあ、きついなぁ」小中井は広い額をぴしゃりと叩いた。「それより何です、いまの大相撲話は? 私も混ぜてくださいよ」
「相撲じゃないですよ」みひろは言って、木月にもう一度音声データを再生させた。
 聞いている小中井の表情が、次第に引き締まってくる。
 みひろは和藤の「幼稚さ」というプロファイリングについても話した。限られた室員と時間である。公安を最大限利用した方がいい。
「すると、あの静香って子に守護天使でもついてるってんですか?」小中井は半信半疑だ。
「まだ結論を出すには早いです。でも、幸い横綱こと関川龍は未遂に終わって、いまも生きています。口を割らせることができれば、もう少しはっきりしたことがわかるでしょう」
「そうですね。後は、三輪辰徳事件の担当刑事か。ま、こっちはこれ以上のネタはなさそうですが、念のため誰かやりますよ」
「刑事部でしょう? 公安から問い合わせて素直に答えますか?」
「いつもなら揉めますね。けど、今回は官房長官付いてますから」
「ああ、印籠ですね」
「そう」
「関川龍と遠藤圭太郎は、わたしも聴取に立ち会えますか?」
「構いませんよ、室長からいただいたネタだしね。でも、予算取りの時期に、いいんですか」痛いところを突いてくる。食えない男だ。「学校帰りにでもクルマに乗せて尋問って感じかな。段取りできたらご連絡します」

 段取りは、翌日にできた。さすがに素早い。資料づくりを放り出し、みひろは指定された小学校の正門に出向いた。黒塗りのセダンの後部ドアが開く。乗り込むと、助手席の小中井が今日の流れを話し始める。
「後五分で放課後です。関川龍はすぐ出て来ると思われますから、そこを捕まえて話を聞きましょう。クルマに誘い込む役は、こいつがやります」
 運転席には女刑事がいた。強面のおじさんよりはいいだろうが、髪にメッシュの入った鋭い眼の女だ。
「こう見えて、案外子ども受け、いいんですよ」
 小中井が言うので、任せざるを得ない。
 遠野圭太郎は塾に通っているため、この後その帰りを狙うということだった。
「それから、三輪辰徳事件の担当刑事ですが、昨日ウチの者が行きました。もう定年で退職してましてね、やっぱり新しい情報はなかったです。事件も完全にオミヤ入りで……あ、出て来ました」
 なるほど、横綱だ。
 何人もの生徒と一緒に門から吐き出された関川龍は、抜きんでて背が高く、横幅もある。とても小学六年生とは思えない。中学どころか高校生でも通るだろう。
 あいにく取り巻きのような少年が何人かいる。このまま遊びに行かれてしまうとチャンスがつくりづらいと心配したが、四つ角ごとに櫛から歯が抜けるように一人二人と離れていき、最後は関川龍一人になった。
 女刑事はクルマをとめ、素早く少年に駆け寄った。
 突然声を掛けられて訝し気な関川龍を、どう言いくるめたか、クルマに連れて来る。
 後部シートのドアが開き、中を覗いた少年はみひろを見てびくっとした。他に同乗者がいるとは思っていなかったようだ。だが、やはり女だと見て安心したのか、女刑事に背中を押され、素直に乗って来た。
 背後でドアがバタンと閉まった。
「関川龍くんだね」
 太い男の声に、再び少年はぎょっとした。それまで巧みに気配を消していた助手席の小中井が、くるりとこちらを振り返った。
 横綱は口を尖らせた。
「え、なんで? 誰? ゲームのアンケートじゃないの? 答えたらフィギュアくれるって……」
 運転席に戻った女刑事が言った。「ごめんね。でも、訊きたいことがあるのはほんとよ。フィギュアはあげられないけど、ぴーぽくんなら」
 警察のマスコット人形をダッシュボードから取り出す。用意のいいことだが、それがバッジ替わりとなって少年は蒼白になった。
「要らない? ぴーぽくん」差し出した人形を受け取らないので、女刑事は残念そうだった。「人気ないな、ぴーぽくん」
「あ、もらいます」
 横綱は丸々と太った指で人形を取った。
「そう? なんか押しつけちゃったみたいで悪いわね」
「いえ……だいじょぶです」
「ところで四年生の時さぁ」小中井が言った。「きみ、病院に運ばれたよね。放課後に」
「……は、はい」
「あの時、何があったのかなぁ」
「え? お、俺、急に……あの……気分が悪くなって……」
「嘘をつくなっ!」
 みひろまで飛び上がるような大声が、炸裂した。鼓膜にきーんと耳鳴りがする。横綱も全身を硬直させた。そっちだって嘘ついたじゃないか、と言い返す余裕もない。
 これが刑事の恫喝か、とみひろは思った。
「静香ちゃんを呼び出したろ? 体育館の裏に」小中井は穏やかな口調に戻った。関川龍は滝のように汗を流している。「どうして、呼び出したのかな?」
「お、俺……」
「あの子に、エッチなことでもしようと思ったんじゃないの?」
「ち、違……」
「遠野くんはもう喋ってるんだぞ!」
 これが刑事のハッタリか、とまたみひろは思った。
「俺……ただ、ちょっと胸を……」
「胸を触らせろって?」
「違うって! 見るだけ。見るだけで……」
「あの子、そんなに胸が大きかったのか?」
「あいつのおふくろ、水商売で、やらしい女で、あいつもだから、やらしいことしてるって、う、噂で……」
「なるほど。そういう女なら、胸ぐらい見せるだろうと思ったんだな。そしたら?」
「……」
「静香ちゃんに触ったんだろ? 抱き締めたんだ。そしたら向こうが暴れた」
「暴れたって言うか……急に胸に」
「胸に?」
「なんか……ドンって」
「ドン? ぶつかったのか?」
「は、はい」
「でも、きみの方がずっと強いだろ? 相手は女の子じゃないか? 他に誰かいたんじゃないのか?」
「と、遠野が……」
「いやもっと他にだ。もっと力の強い、中学生とか高校生とか、ひょっとして大人が……」
「だ、誰もいなかったよ! 静香だ、あいつが俺をドンって突き飛ばしたんだ! 俺、ひっくり返って、地面に頭ぶつけて、くらっとして……」
「ほんとかい? きみよりずっと小さい女の子だぞ」
「だ、だって、手が、気味悪くて」
「手が? 倒れた時、見たのか?」
「う、うん。一瞬だけど、手が、もの凄く気味悪くなってて」
「どんな風に?」
「……なんか、こう、ヌルヌルしてて、ぶよぶよもしてて……そ、そうだ、なんかイボイボだらけな感じも」
「人間の手はそんな、ヌルヌルとかしてないぞ」
「でも、してたんだ! ほんとだよっ!」
「それでどうした?」
「遠野が先生呼んで来て……」
「じゃなくて、静香だ。静香はどうしてた?」
「どうって、突っ立ってて……そ、そうだ、にやあって笑ったんだよ。それで俺、ぞっとして」
「どっち?」
「え?」
「どっちの手が気味悪かった? 右? 左?」
「ひ、左」
「左利きなのか?」
「し、知らねぇよ、そんなこと……」
「それから?」
「せ……先生が来た」
「ふむ」小中井は言葉を切った。少年の震えと汗はとまらない。「どうして先生に、そのことを黙ってた? 気分が悪くなったとしか言わなかったんだろ?」
 だが、関川龍は答えなかった。だぶついた顎から汗を滴らせている。それこそ取り組みが終わったばかりの相撲取りのように。
「ったく、クソガキが色気づきやがって」吐き捨てるように言った小中井は、ここでいろいろ訊かれたことは誰にも言うな、と横綱に口止めして、解放した。
「大人のせいですね」
 俯いて黄昏の道を去って行く少年の後ろ姿。それを目で追いながら、みひろはため息をついた。
「親が、三輪静香の母親のことを差別して悪く言うんでしょう。子どもは、そういう親の子なら苛めても構わないと決め込むんです」
 だが小中井は感慨もなく、腕時計を見た。「室長、遠野の塾が終わるまで、飯、食いましょうよ」

 駅前の、ありふれた中華料理店で、ありふれたラーメンとありふれたチャーハンとありふれた八宝菜を食べながら、小中井は言った。
「火事場のバカ力ってことなんですかねぇ」
 横綱に迫られた静香が、身を守るために途方もない怪力を発揮した。それくらいしか合理的な解釈の余地はない。実際、クルマに轢かれそうになったわが子を救うために、ごく平凡な主婦が素手でとめたというような話は無数にある。
「だとしても、ヌルヌルしていたり、ブヨブヨしていたり……それからイボイボですか。そんな気味の悪い手だったというのはどういうことかしら」
「苦しんで見た幻影でしょう」あっさり言ったのは、女刑事だ。
「お前はほんと、簡単に結論出すよな」小中井が呆れると、彼女は、えー、ダメすか、と言いながら、あ、申し遅れました、あたし、安西です、といまさらながら名乗った。
「とりあえず、遠野って子も近くにいたわけだから、三輪静香の手がどうなっていたか、見てるはずです。この後確認しましょう」
 小中井はそう言った。
 遠野圭太郎の塾が終わったのは、九時過ぎだった。塾のあるビルから一人で出て来ると、暗い夜道を家に向かう。
「こんな時間に、ゲームのアンケートって口実は使えませんね」
 みひろが言うと、クルマを止めた安西は「あの子は大人なしそうですから、警察だって言いますよ」と簡単に答えた。
 ところが案に相違して、少年はバッジを見せられるといやいやをするように首を振った。
 ちっと、舌打ちした小中井が応援に行く。みひろもウインドウを下ろし、様子を見守った。
「人権がある」「未成年なんだ」
 遠野が繰り返すふたつの言葉が夜風に乗って届いた。
 時間が遅いので、通行人はいない。しかし、あまり騒ぐ声が大きくなれば、近所の住人が出て来るだろう。
 みひろはクルマを降りて、三人が押し問答する街灯の下に駆け寄った。
「遠野くん」
 呼び掛けると、少年は振り向いた。助けが来たかと期待したのだろうが、やはり見知らぬ顔に失望したようだ。その口が再び、人権と未成年の連呼を始める前に、みひろはひと言囁いた。
「横綱が病院に運ばれた時、三輪静香の手は、どうなっていたの?」
 遠野圭太郎の顔から、すーっと血の気が引いた。
 そして彼は、「うわーっ!」と叫びながら、駆け出した。
「あ、待て!」
 小中井が追いかけようとしたが、すぐ前の家で犬がわんわんと吠え始め、玄関から人の出て来る物音がした。
 極秘捜査に携わる三人は、急いでクルマに引き返す。
 どこか路地に駆け込んだのだろう。フロントガラスに拡がる闇の中に、もう遠野少年の姿はなかった。
 三輪静香が右利きであることは、後日、四年時の担任・村川和子に会った別の公安刑事から報告された。

13

 ――そりゃお前、静香って子がバケモンなんだ。
 コアラはあっさり決めつける。
 ――バイオテクノロジー的に極めて興味深い。
 翌日、企画庁での仕事の合間に、休憩コーナーでコーヒーを飲んでいると、佐賀が電話してきた。そう言えば、佐賀の授けた作戦であすいく園に潜入した首尾を報告していない。簡単に報告しながら、ふとみひろは言った。
「にしてもさあ」
 ――ん? 何よ。
「佐賀くん、あたしの手が空いた時を狙ったみたいに電話してくるよね」
 ――そうか? 偶然でしょ。
「ま、いいけど」
 それから園長の死と、ベッキオに引っ掛かった横綱や三輪辰徳の件を話す。
 それで、静香がバケモノで、その不気味な左手とやらが強力なのだと佐賀は主張したのだ。それならすべての辻褄が合う、と。
「だって、いくら何でもそんなこと」
 ――だからお前は頭固いっての。大学の時も俺が柔軟な戦略で相手の主張を一旦認めようって言ったら猛反対しやがってさ。
「そんな古い話」
 ――お前が進歩ねぇの。いいか、とにかく俺のおかげで静香に接触できたんだろ、それを活かせよ。今日、行って来い。
「いま予算会議の資料が……」
 ――それより、大ネタ掴んだ方が確実だって。行って来い!
 半ば命令されるように、その日の夕方、みひろは静香の通う小学校に出向いた。

 正門前には、お誂え向きに昔ながらの古い喫茶店があった。その窓際に陣取って、みひろは三輪静香を待つ。
 やがて放課後を知らせるチャイムが店内にも聞こえた。暫くして、子どもたちが続々と門から出て来る。みな揃いの帽子をかぶっているせいで、どの子どもも似て見える。
 みひろは喫茶店を出た。見覚えのあるセダンが路上駐車している。恐らく運転席にいるのは昨日の安西刑事だ。公安も念のため、友坂澄生と三輪静香を監視しているのだ。
 静香に接触するところを、安西に見られるのはまずいだろうか。
 迷いながら、さり気なく電柱の陰に立つ。安西も澄生と静香が出て来るのを待って、学校に注意を奪われているだろう。とりあえず黙っておくことにする。
 その時である。大勢の中に、不意に澄生の横顔が浮かんだ。六年生だから大きい方ではある。それでも特に長身でもないのに、なぜ目についたのか、みひろにもわからない。だが、ともかく澄生は小走りに視界を左から右に過ぎった。つまり、校門からは出て来ないのだ。
 どこへ行くのか。校庭で友だちと遊ぶのか。
 だが、目当ては澄生ではなく静香だ。みひろはその場を動かなかった。
 安西と思われるセダンの運転手も、澄生を見たのか見ないのか、動く気配はない。
 澄生は校庭の方に消えたまま、戻って来ない。
 子どもたちはまだぞろぞろと門を出て来る。賑やかな嬌声が弾ける。
 静香の姿はない。
 嫌な予感がしてきた。
 何かが引っ掛かる。
 そして、みひろは気づいた。
 澄生はランドセルを背負っていた!
 校庭で遊ぶなら、ランドセルは邪魔になる。教室に置いてくるのではないか。
 正門を離れた。学校に沿って右、澄生と同じ方向へ回り込む。塀が高くて、校内の様子は伺えない。
 塀が尽きると、細い路地がある。下り坂になっていて、そこにも三々五々連れだって帰るランドセルのグループがいる。
 背の低い子どもたちを掻き分けるように坂を駆け降りた。左側が学校で、城の石垣のようにコンクリートで塗り固められている。ビル一階分ほどを降りきると、広い道に出た。
 静香が、いた。
 だが、路上ではない。少女は学校裏のコンクリートの崖に蜘蛛のように貼りついていたのだ。見上げると、上からロープが垂れている。学校の塀を乗り越え、ロープを伝って垂直な崖を降りようとしている。いや、もう殆ど地上に届く。静香はロープから手を放し、ぴょんと飛んだ。
 危なげなく、路上に着地する。みひろは走った。映画ではこういう時よく声をかけるが、わざわざ追手が迫っているのを教えるのはバカだ。むしろ足音を殺して少女に肉迫する。
 だが、静香も向こうに走った。その先に白いワンボックスカーが、後部ドアを大きく開けて待っている。
 身を乗り出して手を広げているのは、友坂澄生だ。
 静香は飛び込んだ。ドアの中へ。澄生の腕の中へ。
 もう間に合わない。みひろはせめてナンバーを読み取ろうと、立ち止まって目を凝らした。
 だが、プレートは周到にカバーで覆われている。
 舌打ちする間に、ドアがばたんと閉じ、ワンボックスは急発進した。タイヤを軋ませ、すぐに四つ角を曲がってしまう。
 みひろは再び駆け出す。
 角に辿り着いた時には、もうクルマは跡形もなかった。
 はあはあと荒い息をつく。そう言えば、静香はランドセルを持っていなかったな、と思った。安っぽいエコバッグをばたばたと振り回していた。
 きっとランドセルを買ってもらえなかったのだろう。

 澄生と静香の失踪を、なぜ小中井に連絡しなかったのか。
 正門に戻って安西刑事に告げなかったのか。
 みひろ自身にもよくわからない。
 だが、刑事に監視されているのを承知の上で、誰かにクルマを用意させ、コンクリートの崖をロープで伝い降りてまで逃げたのだ。
 そこまでしてあすいく園からの脱走を図った澄生と静香。その必死の思いを潰して、児童売春組織の手に戻してやる気にはなれなかった。
 その代わり、もう二人に会うこともないだろう。
 静香の左手の謎も、永遠に解かれず仕舞いになるだろう。
 だが、それでもいいと、みひろは思った。
 同じ孤児として、澄生と静香が世界へはばたくのを、黙って見逃してやりたかった。
 ただ、ひとつだけ気がかりがある。
 あのワンボックスカーを運転していた人物だ。二人の脱走の背後には、大人がいる。その正体と脱走を助けた理由がわからないのは不安だった。

 その翌日。
 Vプロジェクトルームに増見が現れた。
「珍しいですね、局長から来るなんて」
 みひろが言うと、彼は「うん、いいニュースだから、みんなにも直接と思ってさ」
 和藤と木月もピンホールメガネを外して、期待に満ちた顔を上げる。
「公安の小中井刑事から、素晴らしい報告書が上がってきてね。Vプロジェクトを褒めちぎってるんだよ」
 意外だった。あれから小中井とは音信不通になっている。静香と澄生の脱走の件すら、まだ何の連絡もないのだ。
「ベッキオデータのおかげで、現場にいた女の子の背景が掴めたんだって? 親父の殺害とか、同級生の入院とか」
「ああ、そのことですか」
「小中井はかなり驚いたらしいよ。しかもデスクにいながらにしてってとこに。いいことが書いてあった。コロナ禍で企業のリモートワーク化が進み、デジタル庁のDXも進んでいるが、公安関係では難しい。しかし、ベッキオシステムはその突破口になるかも知れないってさ」
 小中井は当初からVプロジェクトに好意的だったし、だからこそ自ら担当に手を挙げたと言っていた。しかし増見はそれを知らないので、意外なところに現れた援軍がよほど嬉しかったのだろう。
「とにかく、この件で直接役に立ったわけじゃないが、ポテンシャルは感じたと。こっちとしては充分な評価だよ。しかも必ずしも味方とは言えない公安が言ってるってとこがありがたいね。いやあ、お疲れさん」
「え? お疲れって……」木月がきょとんとした。「あの、この捜査はもう終わりなんですか?」
「悪い悪い、後先になったが、そうなんだ。正式に結論が出て極秘捜査は終了になった」
「結論ですか」和藤も眉をひそめる。「どんな結論か伺ってもよろしいでしょうか」
「うん、雉沢はやはり病死だったってことさ。大路も叩いたが何も出ない。他に現場に侵入する方法はない。ゆえに病死。心筋梗塞。ま、官房長官としても念のため暗殺じゃないか確認したかったわけだから、それでご満足ってことさ」
「でも、胸に手の痕があったんですよ」みひろが言うと、増見は笑った。
「例の、謎の大男か? だってあれは見ようによっては手の痕に見えるってだけで、そんなはっきりしたもんじゃないし、心筋梗塞を起こす前にどっかにぶつけたんだろ。解剖した医者もその可能性は認めてる」
「貝原園長の件は?」
「あれはまだ強盗事件として活きてるが、公安は手を放して刑事部に投げた。たまたま雉沢の直後だったから関連が疑われたけど、捜査の結果まったくの別件で、強盗が入って驚いた園長の心臓がいかれたってことだ。雉沢と違って園長には不整脈の兆候もあった」
 あの年齢であれば、不整脈ぐらい誰だってある。しかし、みひろはそれ以上追求はしなかった。
 Vプロジェクトとしては、ベッキオシステムの有効性を証明できればいいのだ。その点、小中井がいい報告を上げてくれたのなら、満足すべきだった。
 それに、変に突っついて、静香と澄生の脱走にスポットが当たるのは二人のためによくない。小中井も、安西が監視していながら逃がした不始末を、みひろに打ち明けたくないのだろう。
 つまり、これで丸く収まったのだ。
「わざわざありがとうございました」
 みひろは増見に頭を下げた。
 だが、三輪静香の名前を、みひろはもう一度聞くことになる。


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