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告げ口AIと少女の左手⑥

《幕間狂言》左手縁起


 今宵、鬼を退治た、と父は言った。
「その証がこれよ」
 差し出されたものを見て、何もえ言えず、怯えて泣いた。
 父は舌を打ち、「武者の子が情けないのう」と呟くと、まだいとけない稚な児を睨み下ろした。
 されど、どのように言われても、やはりそれはあまりにも醜く、あまりにも世の常ならず、あまりにも禍々しい気を放っており、稚な児は震えがとまらなかった。
 斬り落とされた、左手であったのだ。
 それも、いぼに覆われた、太く逞しい、人ならぬ異形の手。
「怖いのか、これが」
 なぶるように言った父は、稚な児の小さな体を押さえつけ、あどけない頬に、その左手の尖った爪を突き刺した。痛みと恐怖に総毛立ち、じたばたと逃れんとするも、あらけないもののふの力には抗いようもない。鬼の爪は頬を切り裂き、白桃の柔肌を赤い血で染めた。
 傍らで継母は、身ごもって丸みを帯びた我が腹を大切そうに撫でながら、冷たい光を宿した目で稚な児を眺めている。

 鬼の左手は厨子に納められ、父の武勲の証として屋敷の奥の間に飾られた。
 稚な児は不吉なその手を畏れた。
 武勇と腕力に優れた父からすれば、ひ弱で怯懦な不肖の子であった。後年、知将と讃えられる武人に育つのだが、それは裏を返せば身体の弱さを知力で補ったとも言える。
 父はしかし、知などに重きを置かぬ。武人は力だと信じている。だから稚な児を厳しく躾け、未熟な手で無理矢理弓を引かせ、未熟な脚で馬に飛び乗らせようとした。それができぬと、容赦なく打擲した。そんな日々は、稚な児にとってつらい責め苦でしかない。
 だが、その賢さは、既に彼の中に芽吹いていた。
 三日もすると、父が斬った鬼の左手を徒に恐れるのではなく、むしろ自らの役に立たせようと思い始めた。
 そしてある晩、深更を過ぎ、屋敷中が寝静まった頃おい、密かに寝所を脱け出して、紙燭の光ひとつを頼りに、奥まった一室に忍んで行ったのだ。
 厨子は扉を開けたまま、左手が見えるように安置されている。揺らめく炎に照らされて、それは稚な児を招くようだった。
 彼はそっとそれに近づき、小さな指で触れてみた。
 ぬぶぬぶしていた。じゅぶじゅぶしてもいた。そして、ぞわぞわとも。
 あやしい触れ心地に鳥肌が立った、その時。
「童、我が左手をなんとする」
 不意に地を這うような声が響き、稚な児は身を強張らせた。眼だけを横にずらせば、いつの間にか窓が開いて、皐月の夜がぬばたまの闇を澱ませている。その暗黒をそびらに負うて、古びた沼の腐った水色をした巨躯が、ぬっと室に入らんとしている。渦を巻く剛い髪の間から、二本の白い角が生えている。そして、その左の肘から先が、幻のように失われている。
「重ねて問うぞ、童。そは我が左手。お前の父と戦い、不覚にも斬り落とされたものを、今宵取り返しに来たが、さてその手を、お前は何とする」
 父は、退治た、と言うたが、では、死んではいなかったのか。
 稚な児は唇を嚙み締めた。このように人から問い詰められて、内気な彼に答えられた例しはないのだが、なにゆえかその夜は、唇からはっきりとしたいらえが漏れた。
「このような強い手がほしい。逞しい手がほしい。だからこの手を、我が手にするのじゃ」
 すると、鬼の眼が、うれたげに開かれた。
「ほほう。して、そのわけは」
「父を……殺すため」
 途端、鬼の大きな口元が大きく歪んで耳まで裂ける。分厚い唇の隙間から黄ばんだ長い牙が覗き、鬼は笑みきかえた。
「面白い。帝にしてからが、父子、兄弟で相争い、殺し合う世。武者の子が父を弑して悪いこともないわ。よかろう、くれてやる」
 鬼はひらり身を翻し、二歩で稚な児との間を詰めた。
「さすればお前は父に虐げられておるのだな。もはや、え耐えぬほどに」
 その呟きには、微かに憐みの響きがあった。
 鬼は稚な児が握りしめた己が左手を、残った右手で取り上げ、
「お前の左手を出せ」
 と命じた。稚な児は素直に従った。鬼は腕をくれると言った。ならば約束は違えまいと、あどけない信頼があった。
「この手をひとたびお前にくれてやれば、生涯離れることはない。いや、それどころか、お前の子、お前の孫、未来永劫にわたり、お前のように親から苦しめられる子があれば、必ず憑りつくことになるが、それでもよいか」
 稚な児は迷いもせず、こくんと頷いた。
 鬼は左手の無残な切り口を突きつけた。
「では、ここに左の拳を当てがえ」
 再び稚な児は、素直に従った。小さな左の拳を、棍棒のように太い鬼の左手の切り口に当てる。すると、引き込まれるような力が働き、拳は見る見る鬼の左手に吸い込まれていく。
 鬼の手は肘までしかないが、長い。稚な児の二の腕までがすっぽりと埋まってしまった。
 途端、もの狂おしい痒みが襲った。鬼の左手の肉が、自分の左手の肉に、深く食い入ってくるのがわかった。
 あまりの痒さに、稚な児は紙燭を取り落とすと、床に転がり、のたうち回った。しかし、ひと言も声は漏らさぬ。か細く白い左腕の先に、自らの胴ほどもある太くて青黒い鬼の左手をつけた、えも言われぬ不思議な姿で、苦しんでいる。
 ふと、遠く、屋敷の門の辺りから、人々のかしましく騒ぐ声や矢叫びが起こり、そこに太刀と太刀がぶつかるけざやかに澄んだ音が重なった。
「始まったか」
 鬼が、床で燃える紙燭の火を、柱のような脚で踏み消し、辺りは真の闇になる。
「検非違使ども、目にもの見せてくれるわ」
 未だ悶える稚な児にそびらを向けて、鬼はまた窓から外へ身を躍らせかけた。苦しみながらも、それを稚な児は呼び止める。
「待て」
 振り向く鬼に、稚な児は精一杯見開いた目でものを言う。
 鬼はその瞳の言葉を受け取った。
「安心せい。お前の父親は、お前のために取っておいてやる」
 言い捨てると同時に闇に消え、門に向かう足音が遠ざかる。
 やがて痒みは治まった。我に返って腕を見ると、それは元通りのか細い子どもの手であった。
 鬼の左手は、まるで稚な児の左手の中に溶け込んだかのように、跡形もない。
 だが、荒ぶる力が漲るのを、彼は感じた。息を鎮めて、にんまりと笑った。
 開いたままの窓の向こう、深まさる闇の底から、橘の香が流れてくる。
 遠く、鳴神が轟く。


第三部 三輪静香


三歳


 いる。

 絶対、いる。

 子どもなら、誰だって知っている。

 ベッドの下の暗闇には、何かがいるってこと。

 ものごころがついた頃に、静香も知った。
 子ども部屋の……
 いや、これは子ども部屋なのか?
 むしろ、物置?
 乱雑に放り込まれたガラクタの山。そのひとつとして、静香も放り込まれている小部屋。
 ベッドがある。
 古くて、安っぽくて 小さな、パイプのベッド。そこにいつも一人で寝かされている。寝てばかりいる。いつも空腹で、起き上がる力が出ないから。
 しかし、腹さえ減っていなければ、そのベッドにはいたくない。特に、夜は……

 そうだ、子どもはみんな知っている。夜のベッドの下には、何かがいる。何か邪悪なもの。何かヤバいもの。ざわざわと嫌な気配を撒き散らしながら、そこでじっと待ち構えている。

 目覚めると、また、うつ伏せになっていた。
 左手がだらんと下に垂れている。
 静香は寝相が悪い。左手が下に垂れると、また、ベッドの下のあいつが、いやらしくなぶるとわかっているが、どうしてもそうなってしまう。
 三歳の少女は、もう諦めを覚えている。好きにすればいい。気持ち悪いけど、でも、それだけだ。
 薄い壁越しに、隣の部屋から、声が聞こえる。
 そうか、今日はあの男が来ているんだっけ。
 母親が珍しく上機嫌にくすくす笑っている。
 その声を聞く内に、ふと、感じた。
 あ、来た。
 また、ベッドの下で、静香の左手を、ねっとり見つめているのがわかる。
 胸が、どきどきしてくる。
 気配が、だらんと垂れた左手ににじり寄って来る。
 来るな!
 あっち、行け!
 手を引っ込めようとする。だが、まだ体は眠っていて、痺れたように動かない。
 濃厚な闇が、ずるりずるりと迫る。
 とうとう、指先に、触れた。
 そっと撫でた。
 なんていう感触!
 ぬぶぬぶとまとわりつく粘り気と、じゅぶじゅぶと腐った湿り気。
 静香の左腕の、あらゆる毛穴がぼわっと開いた。
 瞬間、闇は、小さな手をぐっと掴んだ。
 ぞわぞわと、全身に悪寒。
 小さな虫が無数に蠢く穴の中へ、手を突っ込んでしまったよう。ぞわめく感触が指先から全身に広がる。
 ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 そしてやにわに静香の左手を、ぐい、と強く引っ張った。
 静香の体がベッドの端までずれ、うつ伏せの顔がはみ出した。
 窓の外から街灯が差す。その薄明りで床がぼんやり見える。自分の左手が、ベッドの下に引き込まれ、手首から先は闇の中。
 少女は全身に鳥肌を立てながら、唇を噛んで耐える。
 ムカデの、無数の脚が這い回っているような。腐った動物の死骸の、腸をまさぐっているような。氷点下に凍りついた鉄の手すりに手が貼りついてしまったような。
 ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 朝まで……朝までの我慢だ。
 左手首が不快な感触で、手袋のように覆われていく。
 手首の細胞と細胞の隙間に、何かがじわじわと浸透していく。
 闇が、体の中に入って来る!
 静香は手を引っ込めようとした。
 しかし、がっちりと掴まれて、ぴくりとも動かない。
 やがて、痒みが襲った。
 浸み込もうとする闇に、体が抵抗している。一種のアレルギー反応だろう。
 うつ伏せの姿勢では、右手で掻くわけにはいかない。
 痒い! 痒い! 痒い! 
 気が狂いそうなほど、痒い!
 母親が「こけしみたい」と蔑む細い眼から、大粒の涙が溢れる。
 ついに、限界を越えた。静香は慌ててタオルを口に突っ込もうとしたが、僅かに早く、悲鳴が夜をつんざいてしまった。
「ひーっっっっっ!」
 たちどころに、
「うるさいっ!」
 隣の部屋から母親の怒鳴り声。
 それに続く、宥めるような男の低い声。「おい、泣いてるみたいだぜ、見て来いよ」
「だいじょぶよ。ねぇ、それよりさ、タッちゃん、久し振りなんだからさぁ」
「んなもん、いつだってできるだろ。見に行ってやれって」
「……何よ、もうっ!」
 どん!
 母親がベッドを降りる足音が、アパートを揺るがした。
 それは、どしん! どしん! と静香の部屋までやって来る。
 ああ、お化けより怖いものを呼んでしまった。
 激しい痒みすら忘れ、静香はすすり泣いた。
 だが、母親は、乱暴にドアを引き開けたところでとまった。
 いつものようにのしかかって、力いっぱいひっぱたくことはせず、じっと立ち竦む。
 そして、黙ってドアを閉め、立ち去った。
 静香はほっとした。緊張の糸が切れ、いつの間にか痒みが治まっているのにも気づかない。
 疲れ果てて、また眠りに落ちていく。

 それから、母親は静香をあまり叩かなくなった。

六歳

 時々、母親より年を取っている太った女が来る。
 母親がいなければ、静香に食べ物をくれる。
 だから、この女が来ると嬉しい。
 でも、母親がいると、女は口論を始めてしまう。
 その日女が来た時、残念ながら母親はいた。
 静香は一人、台所の床にへたり込んで、いつものように腹を空かせていた。しかし、冷蔵庫を漁ろうにも、すぐ隣の和室に閉じ籠っている母親がいつ出て来るかわからない。多分、寝てるから大丈夫だとは思うが、万一見つかったら痛い目に遭う。その危険を冒すかどうか、決心がつかないまま、窓からの西日を浴びて、流しの下にうずくまっていた。
 そこへ年を取った女が現われた。
 女は合鍵を持っていて、勝手に入って来る。手のレジ袋に、静香の目は吸い寄せられた。知らない間に涎が垂れている。
「エリカはいないのかい?」
 尋ねながら女は靴を脱いだ。
 静香は女……と言うより、女の持つレジ袋に向かってにじり寄った。
 流しから離れると、バカになっている下の棚の扉がきぃっと開いた。いくら閉めても、いつも半開きになってしまう。
 その時、がらっと襖が開き、母親がのそっと出て来た。ぼさぼさに乱れた髪、ぼそぼそに荒れた肌。化粧を落とさず寝たらしく、ファンデーションがまだらだ。
 年を取った女の顔が強張る。
「なんだ、いたの。もう三時だってのに、いいご身分だこと」
「っせーな」がらがら声で、母親は女を睨む。
 あ~あ、また喧嘩か。
 母親はどしどしと床を鳴らして流しに突進し、静香を足で押し退けた。慌てて半開きの戸の横にもたれる。隣に母親の脚が来て、水道の水をごくごくと飲む音がした。
 年を取った女は小言をぶつくさ。母親は金切声で応戦。これが終わるまで、食べ物はお預けだ。最悪、年を取った女は怒り狂い、レジ袋を持ったまま帰ってしまう。
(今日は、そうなりませんように)
 幼い祈りを唱えながら、静香はひたすら待つ。
「日焼け男はどうした? え? 結局、子どもができたって、家になんかいつかないじゃないか」
「いるわよ! いまは出かけてんの! タッちゃんだって忙しいんだからね!」
「忙しい? ふん、笑わせるよ。ふらふら遊んでるだけのチンピラが」
「違う! 最近は毎日事務所行ってるもん! 組長さんにも可愛がられてるんだから」
「どうだか。他の女のとこにしけ込んでんじゃないの? いつ来たって、いないけどね」
「ばっかじゃないの、平日の昼間から大の男が家にいる方がおかしいじゃないよ」
「土日もいないんだよ! 第一、子どもダシにして男繋ぎ留めようなんて、うまくいくわけないんだよ。とばっちりは娘だよ、いっつも腹空かして可哀そうに」
「ああ、そうですか! だったらあんた育てりゃいいじゃん。いいよ、連れてって」
「なによ、その言いぐさ。こっちだって年金暮らしでカツカツなんだ。そんな余裕、あるわけないだろ」
「ふん、金ねぇんなら黙ってろよ」
 静香は待つのに飽きてきて、半開きの戸を片手で揺らして遊び始める。きぃ……きぃ……きぃ……古くなった公園のブランコのように、戸は軋みながら揺れる。もっとも静香は公園に連れて行ってもらったことはない。
「ああ、もう、うるさいっ!」
 母親が怒鳴った。年を取った女に言ったのかと思ったが、違った。吊り上がった眼が、静香を睨み下ろしている。きぃ、きぃと軋む戸がうるさいと言ったらしい。言い争いが膠着しての八つ当たりだ。
 叩かれる、と思った。だが、逃げ場はない。さらに身を縮こまらせて、流しの棚に背中を押しつけた。左手が、半開きの戸の隙間から、するっと流しの下に潜り込んだ。
「やめなさいっ!」振りかぶった母親の手を、年取った女が押さえる。
「どけっ、くそババァ!」
 二人が揉み合う。揉み合いながら、執拗に母親は静香に手を伸ばす。静香はますます体を流しに押しつける。左手が下の棚の暗がりに入り込む。
 すると、指先が、何かに触れた。
 びくっと、静香はすくんだ。
 ベッドの下にいるはずの、それ。
 ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 まさか、流しの下にも!
 闇は左手に侵入する。鳥肌。静香はとっさに、左手を引っ張る。綱引きだ。少女と闇の。ただ、ベッドの時と違って、この態勢なら体重がかけられた。
 全身を前に傾けて、流しの下から左手を引いた。
 左手が夕陽の中に現れる。闇が、左手に潜り込んでいるのを静香は感じた。そして、自分の意志とは関係なく、それは真っ直ぐ前に飛び、母親の下腹部に炸裂した。
 母親はうっと呻いて、つんのめるようにくずおれた。
 年を取った女が、口をあんぐり開けて、静香を見ていた。恐怖の色に染まったその目が、静香の左手に釘づけだ。
 母親は床に長く伸びた。
「そ、そろそろ帰らなきゃ……」
 少女の左手から視線をもぎ離すと、誰に言うともなく呟いて、年を取った女は玄関から逃げるように出て行った。
 ドアが閉まる音で、母親ははっと意識を取り戻した。娘には目もくれず、もぞもぞと和室へ這い込むと、後ろ足でぴしゃりと襖を閉めた。
 大人がいなくなった台所で、静香は一人、年を取った女が放り出していったレジ袋に飛びついた。

 やがて彼女は、小学校一年生になった。

七歳

 ランドセルなど買ってもらえない。
 母親がスーパーで景品にもらったエコバッグを持ち、静香は小学校に通った。
 教科書や上履きは、年を取った女が文句を言いながらも揃えてくれた。
 しかし、そもそも彼女がいなければ、母親は娘が学令に達したことにも気づかなかっただろう。
 小学校に上がって、静香は驚いた。
 なんと、給食というものがあったのだ。
 食べても、怒られない!
 それどころか、残さず食べなさい、と言われる!
 残すなんて、そんなバカ、いる? と思ったが、いた。偏食が激しかったり、小食だったりして、食べきれない子どもが。
 信じられない!
 おかずが余った時は、先生がお代わりまで許してくれる。
 今夜、食事にありつけるかどうかわからない静香は、できる限り小さな胃に食べ物を詰め込んだ。
 先生は、当然ネグレクトの疑いを抱いた。ある日、母親がいる時に、先生と、知らない大人二人がアパートにやって来た。
 最初は穏やかに話していたが、次第に母親は口から泡を飛ばし始め、結局ブチ切れた。しかもそこへ、どういう気まぐれか時々来るあの男まで現れ、大声で怒鳴り散らすと、彼らを追い返した。
 母親は急に静香を風呂に入れ、食事をつくり、世話を焼き始めたが、それもその日だけのことだった。
 年を取った女もまた来て、母親と言い争っていた。
 静香は自分の部屋のベッドで、それを子守歌にまどろんだ。
 自分のことが問題になっているらしいとはわかっていたが、だからと言ってどうすることもできない。
 とにかく、学校のある日が待ち遠しかった。

 給食が、静香の生きがいになった。

八歳

 くすくす、くすくす。
 くすくす、くすくす。
 昼休みの教室。
 給食を食べ終え、満腹感に浸っていると、背後から忍び寄ってきた笑い声。
「三輪さん」
 中の一人が呼んだ。クラスで一番成績がよく、見た目も可愛いリーダー格の少女。いつも取巻きを三人従えているお姫様気取り。
「三輪さんって、髪、長くて、きれいよね」
 静香は黙っている。お姫様気取りは笑いながら続けた。
「臭いけど」
 きゃはは、と取巻きが笑う。
 静香は途方に暮れた。公園でも遊ばず、幼稚園にも行っていない。同年代の子どもと、どう接していいかわからない。
 先生は職員室に戻っていた。大半の児童は校庭で遊んでいる。教室には、殆ど人がいなかった。
「三輪さんって、ランドセル、持ってないの?」
 お姫様気取りはさらに言った。
「教科書もないの? その、汚いバッグは空っぽかしら?」
 机の脇に下がっている安っぽいエコバッグを指差すと、取巻きの一人が、まるでリハーサルしたかのように、素早くそれを取り上げて、
「なんだ、あるんじゃない」
 と言いながら、教科書を机に積み上げた。
「いい? バッグに入れっぱなしじゃ、意味ないのよ。机の下にしまうところ、あるでしょう? そこに入れておいて、授業の時に出すの」
 机の下!
 静香は緊張した。
 以前、年を取った女が来た時に、流しの下の暗がりにも闇がいたことを思い出したのだ。
 暗がりは、ベッドの下だけではない。
「何してんのよ、ちゃんとしまいなさいよ。居眠りばっかりしてないで、授業を聞くのよ。元気がいいのは、給食の時間だけなんて……ねぇ?」
 三人の取巻きは、そうよそうよ、と合唱する。
 それでも静香は凝固している。
 すると、業を煮やしたお姫様気取りは、やにわに静香の左手を掴んだ。教科書の一冊を握らせ、机の下に押し込んだ。
 ごく狭い空間なのに、静香には途方もなく広く感じられた。闇の奥の奥から、やはりあの気配が漂ってきた。
 いる。
 やっぱりここにも、いる。
 手を引っ込めようとするが、お姫様気取りの力は意外に強い。
「いやっ!」
「何よ! あたしの言うことが聞けないの?」
 気配はどんどん濃くなり、ついに左手首が覆われた。あの、お馴染みの、ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 静香は握らされた教科書もろとも、左手を机の下から力任せに抜いた。
 お姫様気取りが、一瞬で背後へ吹っ飛ばされた。机の列に、派手な音を立てて倒れ込む。後を追って飛んだ教科書が、その額をしたたかに打った。
 お姫様気取りが、う~ん、と目を回した。取巻き三人は呆然として、魅入られたように静香の左手を見つめていた。
 静香はとっさに左手をまた机の下に隠した。取巻きたちは、そこではっと我に返った。慌ててお姫様気取りを助け起こすと、教室から逃げるように出て行った。

 以来、静香に構う者はいない。

九歳

 横綱は、なんか、最近、やらしい目で見てくる。
 静香が廊下に出ようとした時、のしのし歩いて来たあいつとぶつかってからだ。
 肉の壁にほわんと跳ね返ったが、ドアと横綱の間に挟まる格好になった。
 横綱は静香をじっと見た。気持ちよさそうな顔をしている。
 静香は身をよじって脱出すると、一目散に走って逃げた。
 あれからだ。
 あれから、ねっとりとした視線が追いかけて来る。
 そして、その放課後。
 下駄箱で運動靴に履き替えていると、遠野圭太郎が寄って来た。
「な、なあ、三輪。これ、食べたことある?」
 差し出した掌に、小さくて三角っぽいものがふたつ。どちらもばけばしいオレンジ色だ。
 食べる、という動詞に反応していた。しかし、遠野のなぜか汗ばんだ掌が気持ち悪い。第一、いままで声なんか掛けてきたことのない優等生が、なんで?
 警戒したのが伝わったか、遠野はひとつを口に放り込み、くちゃくちゃと噛んだ。
 静香はとっさに、残ったひとつを引っ手繰っていた。口に入れると、ぐにょぐにょとした変な食感だが、やや酸味のある甘さが拡がった。
「グミって言うんだぜ、うまいだろ」
 まだくちゃくちゃやりながら、遠野が言った。
「これ、もっといっぱいあるとこ、知ってんだ、俺」
 グミ……初めての食感……爽やかな甘さ。
 ふらふらと遠野について行くと、体育館の裏、ひと気のない塀際に横綱が待っていた。
 静香は遠野を睨んだ。「グミは?」
 遠野は薄笑いを浮かべて、黙っていた。
 横綱が静香に近寄って、肩を掴んだ。その圧倒的な力に、軽い体は呆気なく抱き寄せられる。
「お前、最近ちょっと生意気だよな」
 横綱が耳元で囁く。
「胸なんか出てきちゃってよ」
 横綱の手が、静香の体を這い回り始めた。
「お仕置きしなきゃ。な、遠野」
 へらへら笑っている優等生に、横綱の注意が逸れた一瞬。
 ランドセル代わりのエコバッグを、静香は振るった。それが偶然、横綱の右眼に当たった。
「あ、くそっ」
 横綱の手が緩んだ。その隙に逃げようとしたが、遠野が慌てて駆け寄って来て、絡み合った二人は地面に倒れた。
 エコバッグが投げ出された。
「ざけんなよ、このブス」
 横綱は怒りに燃えていた。尻もちをついた静香は、その巨体を見上げた。太陽の光を遮って、横綱の影が静香を覆った。
 暗がりだ。
 首筋の毛が逆立った。
 ざわっと音を立てて。
 ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 不快な感触が、手首を包む。
 横綱が襲いかかってきた。太ってはいるが敏捷だ。静香は思わず目を閉じた。反射的に左手を突き出す。それはカウンターとなって、横綱の胸に炸裂した。
 ドン!
 か細い女の子が突いたところで、横綱の突進はとまらない……はずだ。だが、巨体はぴたりと静止した。広い胸に当たった静香の左手を不思議そうに見た。
 いや、違う。
 当たっているんじゃない。埋まっているんだ!
 静香もびっくりした。左手首から先が、すっぽり横綱の胸に突き刺さっている。
 なに、なに、なに???
 錯乱して手を抜こうとするが、かえってそれは胸の奥深くに潜り込み、くいっと右に曲がった。その先に何かがある。静香の手には少し余る大きさの、ぶよぶよして、どくどくと動いているもの。
 左手は勝手にそれを強く握ろうとする。
「い、痛ぇ!」
 横綱が変声期前の甲高い悲鳴を上げた。顔からさあっと血の気が引いた。膝が崩れて、仰向けに倒れた。
 コンクリートに強か後頭部を打ちつけたものの、それが少年の命を救った。倒れた弾みで、静香の手がすっぽりと胸から抜けたのだ。
 しかし、胸の痛みは消えないらしい。横綱は息も絶え絶えに「痛ぇ、痛ぇ」と呻き続ける。
「わーっ」
 遠野が悲鳴を上げて駆け去った。だが、静香は横綱の苦悶を見つめた。
 眼球が苦痛に飛び出している。舌も口からはみ出している。クルマに轢かれて、アスファルトに叩きつけられたカエルみたい。
 ふん、変な顔……
 不意におかしさが込み上げてきた。
 やがて走って来る足音が聞こえ、担任の先生が遠野に引っ張られて来た。

 静香はまだ笑っていた。

十歳

 母親の機嫌がいい日には、かなりの確率で、あの男が来る。
 シャツの胸元を大きくはだけ、日焼けした肌とゴールドのチェーンを見せびらかしている男。
 櫛をきれいに入れたてかてかの髪が、ちょっとでも乱れるとイラつく男。
 母親が、タッちゃんと呼ぶ男。
 一緒に食事をすることもあるが、男は酒ばかり飲んで、あまり食べない。だから、残ったものを静香は貪る。お腹がいっぱいでも無理して食べる。次はいつ獲物にありつけるかわからない野獣の食い方。
 だから、土産のひとつもくれず、頭を撫でたりもしない無愛想な男でも、静香は来ると嬉しかった。
 特に、給食がなくなる夏休みには。

 五年生になっていた。
 母親が留守の暑い午後、床に這いつくばって、冷蔵庫を漁っていると、いきなりドアが開いた。びくっと振り返ると、大きな水槽が宙に浮いていた。
 ぎょっとして、悲鳴が漏れた。
 水槽のくせに、水が入っていない。湿った土が敷き詰められ、太い木の枝が横たわっているだけだ。
 その上に、怪物がいた。
「なんだ、腹減ってんのか」
 水槽の向こうから、あの男の日に焼けた顔が覗いた。
「エリカのやつ、相変わらず飯食わせてねぇのか」
 男は水槽を抱えて部屋に上がった。
 怪物に怯えた静香は床の上を後ずさりした。その目の前に、男はそっと水槽を置いた。
 怪物と向かい合う。
 なんて、大きな眼だろう。しかも顔の横についてるなんて。どこを見ているかわからなくて、怖い。いぼいぼだらけの緑色した肌も不気味だ。
 でも、初めて見るのに、以前どこかで見た気がする。
 どこだっけ? テレビかな?
「いいか、こいつはピーターだ」
 男が教えた名前を、静香は恐る恐る繰り返す。
「ピ、ピーター」
「そうだ。大切なお客さんなんだ。暫く預かるから、よろしくな。いじめたりすんじゃねぇぞ」
 男は台所の隅を片付け、そこに水槽をそっと移した。電源に繋いで、ごそごそ調整していると、ランプが点いた。
「おし、これでいい。後は……餌だな」
 男は足早に出て行った。駐車場まで餌を取りに行ったのだろう。静香は、だんだん見慣れてきた怪物に、少し近寄った。
 ピーターの方は、静香にはまったく関心を示さず、微動だにしない。
 それにしても、ほんと、気味悪い肌。
 きっと感触もいやらしくて、おぞましいに違いない。
 そう、静香の左手を掴む、あの闇みたいに。
 男がどかどかと戻って来た。水槽の前にあぐらをかき、手に持った容器から、ピンセットで中身を摘まみ出す。
 再び、静香はひっと、息を飲んだ。
「ゴキブリじゃねぇよ。コオロギだ」男はまた上機嫌に笑った。今日はよっぽどいいことがあったのか。それとも、このピーターを預かることが、とても嬉しいのだろう。「ま、ゴキブリでもいいんだけどな」
 ピンセットに摘ままれた昆虫は、もぞもぞと動いている。生きているのだ。
 男は虫を、ピーターの前に差し出した。
「え?」
 静香は目を丸くした。
 一瞬だった。
 ピーターが長い舌をひらめかせたかと思うと、コオロギはたちどころに消え失せた。
「ま、早飯なのは世話が焼けなくていいやな」
 立ち上がった男は、もう一度、念を押した。
「いいか、この水槽に触るんじゃねぇぞ。ピーターにもちょっかい出すなよ。餌は俺が毎日やりに来る。エリカにも言ってあるからな」
 静香は素直に頷いた。すると男は、よおし、と満足げに言って、娘の頭を撫でた。
 静香はある期待を抱いて、男を見上げた。だが男は、コオロギの入った容器とピンセットを持って、出て行ってしまった。
 自分の娘が腹を空かせていると知りながら。
 怪物には餌をやって、娘には何も食べさせないままで。
 期待をはぐらかされた静香は、呆然とした。
 悲しい怒りが込み上げた。
 ピーターの無機的な顔には、心なしか食後の満足感が漂っているようだ。
 怒りは嫉妬に変わり、やがて憎悪になった。
 ピーターへの、激しい憎悪。

「ちょっと、何よ、あれ!」
 母親がスマホに怒鳴っている。
「組長さんのペットって、あんな気色悪いもんだったの! 普通、犬とか猫でしょ!」
 夕方、帰って来た母親はピーターを見た途端顔色を変え、すぐに電話を掛けたのだ。
「えー、一週間も? あんなのが一週間もウチにいるの? 餌はどうすんのよ?」
 すると、男の返答に、母親の声が少し軟化する。
「あ、そう。タッちゃんが毎日来るの。何時頃? ……うん、わかってるけど、大体でいいのよ。大体何時頃来るつもり? ……あ、そう、わかった。三時頃ね。じゃ、その頃いるようにするわ」
 電話を切った母親は、さっき怒鳴ったことも忘れたように、鼻歌を歌っている。

 しかし、男は必ずしも三時には来なかった。
 母親は昼近くに起きて、もそもそとパンを食べ、後は化粧に余念がなく、二時を回ると時計を頻繁に見る。
 翌日はさすがに予告通り、三時前に来た。そして母親と和室にこもってごそごそやっていて、それが何かいやらしいことであるのは、静香にももうわかっている。
 ところが、その翌日は四時近くになってやっと現れた。あたし後一時間で仕事なんだよ、と怒る母親を宥め、例のコオロギをピーターに与えると、すぐにまた用があると行ってしまった。
 さらにその翌日は、夜になってようやく姿を見せたが、母親は仕事でいない。深夜帰った母親は、電話で怒鳴り散らした。
 次の日、昼頃起きた母親は自分だけむしゃむしゃと自棄のように冷蔵庫のものを食い漁ると出かけた。こういう時は大概夕方、大きな袋をいくつも抱えて帰って来る。そしてそこから洋服や靴など、きらびやかで虚ろな物ばかりを取り出す。
 残った静香は冷蔵庫をチェックするが、案の定空っぽだった。
 空腹で胃が痛んだ。加えて、連日の猛暑で、エアコンのない部屋は炎熱地獄さながらだった。
 何か口に入れられるものを探して、台所を汗だくで這いずり回ると、隅の水槽に相変わらず彫像の如く固まっているピーターが目についた。
 こいつは、毎日きちんと餌を貰える。時間はまちまちでも、男が餌やりに来なかった日はない。なのに静香には、土産の菓子ひとつない。
 自分は怪物以下なのだ。
 最初の日に感じた嫉妬と憎悪が、再び胸の内で首をもたげた。
 ぼおっとしてるだけのくせして、なんでこいつが餌をもらえて、あたしはもらえないの。
 まだ理不尽という言葉は知らないが、得体の知れない感情が蠢いた。
 気がつくと、静香は水槽の縁に指をかけていた。ゆっくりと体重をかけていく。だが、小さな体では、びくともしない。
「くそっ」
 今度は足で押してみた。壁に背中を当て、両足で踏ん張ると、水槽はぐらっと揺れた。
 ピーターが、驚いたように身動きした。
 ざまみろ。静香は嬉しくなった。そのままどんどん脚を突っ張り、水槽を傾けていく。電源コードが抜け、ランプがばちばちっと明滅して消えた。ピーターは枝にしがみつこうとしたが、かえってその動作が水槽の傾斜を加速して、ついに横倒しになった。
 がたん!
 部屋中に大きな音が響いて、ピーターは水槽から飛び出した。
 ばたばたっと尾を振り、体勢を立て直すと、意外な素早さで玄関に向かう。しかし鍵のかかったドアは開かない。行き詰まった怪物は、じっとそこに蹲る。
「ふふ」
 静香の厚い唇から笑い声が漏れた。
 ひっくり返った水槽から、木や土や葉が散乱し、床は悲惨なありさまだ。
 その土の隙間に、白い袋がたくさん覗いていた。
 水槽の底に、隠されていたのだ。
 静香はひとつを手に取った。食べられるものだろうか。ビニールの袋に入った白い粉。それが数えきれないほどある。
 お砂糖かな。
 唾がじゅっと湧いた。
 でも、塩かも知れない。
 窓から差す日の光に袋をかざしたが、見た目では判断がつかなかった。
 細い指で、袋を引っ張ってみる。かなり堅いが、その内、ぱさっと割れた。
 粉が散った。
 指についたそれを、静香はそっと舐めてみる。
 甘ければ、砂糖。しょっぱければ、塩。
 だが……
「うぇ」
 ひどい苦さに、ぺっぺっと唾を吐く。当てが外れた静香は袋を床に叩きつけた。
 それがまるで合図だったように、ドアが開いた。
 男が立っていた。
 彼は惨状を見て唖然としたが、足元に蹲るカメレオンを見てすぐに何があったかを理解した。
「こ、このガキ……」
 日焼けした顔が、怒りでさらにどす黒くなる。首にかけたゴールドのチェーンがジャラッと鳴って、彼は土足のまま静香に飛び掛かった。
 床に座っている小さな体を押さえつけ、思いっきり頬を張る。ばしっ! という音と共に、首がもげそうな痛みが走る。
 さらに、二度、三度。ビンタは繰り返され、静香の頭はがくがくと揺れた。
 四度目。体ごと吹っ飛んで、流しの下に叩きつけられた。鼻血がだらだら流れるのを感じた。未熟な脳が頭蓋骨とぶつかり、意識がぼおっと遠のく。
 男は鬼のような形相で、尚も手を振り上げた。
 死ぬかも知れない。そう思ったこの時、初めてあの闇の力を借りようと、静香は自分から思った。
 三年生の時は、お姫様気取りを吹っ飛ばした。四年生の時は、横綱さえ宙に飛んだ。あの凄まじい闇の力なら、この男だって……
 半開きのまま修理もされていない戸の奥に、静香は左手を突っ込んだ。
 途端!
 あの気配が凝って、左手にまとわりついた。
 ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
 嫌だったあの感触が、その時は頼もしかった。
 どんなに大人が顔をしかめても、子どもは泥んこ遊びに興じる。カエルを素手で捕まえてなぶり殺す。あの、泥やカエルの感触が、気色は悪いのに、なぜか心地よくもあるのに似ていた。
 男が手を振りかぶる。静香は流しの下から左手を抜き出し、真っ直ぐ前に突き出した。
 どん!
 男の手が、とまった。
 静香の左手が、男の胸の中に埋まっている。手首が、男の胸の中で、くいっと右に曲がり、そこにある何かを掴んだ。横綱の時は手を離してしまったが、今度はこの、柔らかくて、どくどくと動いているそれを離すまいと思った。
「て、てめぇ……」
 掠れた脅し文句が、ひび割れた唇から迸る。かっと見開いた細い眼が静香を睨みつける。
 静香の左手が、男の胸の奥のものを、全力で握る。
「ひ……」
 怒りでどす黒かった男の顔に、見る見る青が差す。
「あ」
 静香は呟いた。
 ピーターがここへ来た時、どこかで見た気がした。
 しかし、あれは過去に見たのではなく、未来に見ることになるこの顔を予見していたのだ。
 それほど、苦悶する男の蒼白な顔は、爬虫類に酷似していた。
 静香は 左手がさらに力を込めるのに任せる。
「ぐぐ!」
 男がのけぞった。静香の体も、引っ張られて浮き上がる。
 ガラガラガッシャーン!
 派手な音が響いて、男は食器棚に倒れ込んだ。弾みで静香も反対側に吹っ飛び、流しに後頭部をぶつけた。
 その時。
「あれ? 鍵かかってない」
 不審そうに呟きながら帰って来た母親の声。それは一瞬明るい響きに転じ、
「あ、タッちゃん、来てんのね」
 と言ったが、すぐに悲鳴に変わった。両腕から、抱えた袋がばさばさと落ちた。
 土足のまま倒れた男に駆け寄る。タッちゃん、タッちゃん、と呼びながら揺さぶるが、太い猪首はがくっと項垂れ、男は壊れた人形だ。
「うそ……死んでんの? なんで?」
 途方に暮れた母親は、鼻血を垂らして傍らに倒れている娘を見た。すると、その目がぎょっと見開かれた。
 恐怖に押されて、視線を逸らした。そして、気づいた。
 床に散らばった白い粉の袋。
 目つきが変わった。
 夫の死も忘れたように、彼女は一番大きなブティックの袋を空け、白い粉をかき集めては入れ始めた。
 その時、またもやドアが開いた。今日はよく人が来るな、と静香はぼんやり思う。
 年を取った女が、母親と同じように低い悲鳴を上げた。
 母親は焦って、残りの袋を必死で詰める。
「あ、あんた……やっぱりクスリを」
 年を取った女が呻き、ようやく倒れた男に気がつく。
「て、亭主を、殺ったのかい?」
 すべての白い粉を詰め終わった母親は、立ち上がった。取られまいとするようにブティックの袋を、胸にしっかり抱き締めている。
「ち、違……あ、あたしじゃ……」
 呟きながら、年を取った女を突き飛ばして、外へ走り去った。ドアがばたんと開き、それからゆっくり閉まっていく。
 年を取った女は煽りを食って、玄関に倒れた。
 そこにはまだ、ピーターが蹲っている。頭上から女の大きな尻が降ってきたので、慌てた怪物は難を逃れるべく、閉まるドアの隙間から滑り出た。
「エ、エリカ! ち、ちょっと待ちな!」
 よろよろと立ち上がった年を取った女は、母親を追って出て行った。
 急にまた、しんとなった。
 死んだ男と静香だけが取り残されている。
 いや、もうひとつ。
 年取った女が放り出して行った、レジ袋。
 静香は飛びついて、がさごそと探った。ソーセージが出てきた。
 胃が、早く早くと急かす。震える手でビニールを剥いた。
 口の中で、魚肉の味が広がる。

 こうして静香は、孤児になった。


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