告げ口AIと少女の左手⑦
あすいく園
静香は、知らない女に手を引かれて、知らない場所に着いた。
家だとしたらやけに大きい。学校だとしたら逆に小さい。庭にはこんもりと樹木が茂り、門を入るとすぐのところにバスケットボールのゴールポストがあった。
知らない女が案内を乞う。八月の終わりで、外はまだ蒸し暑いが、屋内はほどよく冷房されていた。
奥の部屋に、痩せたおじさんが待っていた。
「チャイルド・ネットワークの者ですが」
「園長の貝原です」
大人二人が小さな紙きれを儀式ばった手つきで交換する。静香はぼんやり、窓の外を見ている。
大きなデスクを挟んで椅子に座ると、女は園長に書類を渡した。
貝原はそれをざっと見て、
「大体のところは聞いてますがね、父親が亡くなって、母親も行方不明だとか」
「そうなんです」女は静香を不憫そうに見た。
「他に親族はいないわけですね」
「父方の祖父母が富山県にいますが、死んだ息子とは絶縁していまして、孫の引き取りも拒否しています。母方の祖父も二年前に他界して」
「となると、残るは母方の祖母……」
「なんですが」女は書類の方を示した。貝原は手元を見て、頷く。
「亡くなったんですね?」
「ええ、交通事故だそうです。娘のところへ行く途中だったのか、帰る途中だったのか。自分の家と娘のアパートのちょうど中間辺りでクルマに跳ねられて。それが……父親が死んだのと同じ日なんです」
「偶然ですね」貝原は軽く呟き、書類をめくった。「カウンセリングを受けてますね」
「はい。父親が亡くなるのを目の前で見ていますし、極端に無口なもので一応」
「知的障害はないですか? そうだとウチではちょっと」
「いえ、大丈夫です。無口なのは性格的なものでした」
「とはいえ、会話は成立したんですよね」
「もちろんです。小さい頃の話などもしています」
「どんなことを?」
「そう……やはりネグレクトだったようです。六歳頃までは虐待も……」
「ほお、逆に言うとそれ以降虐待はなくなった?」
「まあ、無口な上に子どもの言うことですけど。ベッドの下に魔物がいて、それが夜になると手を掴むんだと」
「よくある恐怖心の擬人化ですね」
「はい。でも通常は、敵対関係にあるわけですよね。自分を襲って食べてしまう怖いものです。ところがこの子の場合、それがだんだん味方になっていった……イマジナリー・フレンド化したと言いますか」
「なるほど。面白いですね」
「その結果、魔物が自分の手に力を与えてくれた。それで、母親がむしろ娘を恐れて、虐待がやんだ、と。もちろん、カウンセラーが整理するとそういうことらしいという」
「変わってますね」貝原はそこで初めて静香に言葉を掛けた。「静香ちゃんは、そんなに力が強いのかな?」
静香は窓から園長に視線を移した。
だが、黙ったままだ。
貝原は、ふん、と鼻を鳴らして、書類を揃えた。
「わかりました。他に伺っておくことはないですか?」
「ええ、以上になります」
「それじゃ事務室の方で、入所の手続きをお願いします」
すぐに、昼食の時間になった。
園長に連れられて広い食堂に行くと、同じ年頃の子どもが二十数人いて食事をしている。
夏休みなのに、給食がある!
さらにその日の夕方と、その翌朝にも食事が出た。静香はびっくりした。ここは、天国……? あたし、死んだのかな?
別にそれでも構わなかった。生きて腹をすかせているより、死んでも満腹の方がずっといい。
二学期が始まると、近くの公立小学校に転校した。毎朝、他の子どもと一緒に集団登校する。
静香と同じ六年生は、もう二人いた。どちらも男子で、痩せた方の子は静香と同じくらい無口だった。
ある夜、園長室に静香と、その無口な男子が呼ばれた。
「今日はね、『お呼ばれ』に招かれたんだ。雉沢先生というおじさんが、とっても豪華な晩御飯を御馳走してくれるからね」園長は静香に向かって、機嫌を取るような笑顔で言った。「嬉しいだろう?」
しかし、静香は嬉しくも何ともなかった。既に日に三回、食事は与えられている。それで充分だった。
貝原は男子を見た。「友坂くんはもう、何度か行ったことがあるよね。静香ちゃんに、いろいろ教えてあげるんだよ」
友坂澄生は真っ青な顔をしていた。
「食事が終わったら、雉沢先生と遊ぶんだ」貝原はまた静香を見る。「なに、先生が優しくしてくれるからね、言われた通りにしていればいいんだよ」
それから二人は着替えさせられた。いつの間に用意したのか、花柄のブラウスはサイズがぴったりだった。だが、服に関心のない静香は、妙な居心地の悪さを感じた。
澄生も、王子さまのような、胸元にひらひらがついた白いシャツに、細身の黒いスラックス。そして二人は園長の運転するステーションワゴンに乗せられた。
着いた先は、静香が見たこともないような、高いビルだ。
地下駐車場にワゴンが滑り込むと、男が一人待っていた。
「後でまた迎えに来るからね」
園長の微笑に、静香は眉をひそめた。この後、絶対、嫌なことがある。そう本能が告げていた。
隣を見ると、澄生の体が、小刻みに震えている。
だが静香は、言葉だけではピンと来なかった「豪華」な晩餐を楽しんだ。
不安も忘れ、夢中でフレンチのコースを平らげる。
「よく食べる子はいいねぇ」
雉沢先生なる人物は、目を細めて眺めていた。自分は殆ど料理に手をつけず、澄生も半分近く残した。それを静香は全部食べてしまった。さすがにお腹が苦しい。
食事が済むと、雉沢は別室に二人を連れて行った。
ベッドの巨大さに、ここでも静香は目をみはった。
だが、そのベッドの上で、全裸になった雉沢と澄生が始めた行為は、醜悪に映った。
澄生は苦しそうに歯を食い縛り、額に老人のような皺を刻んでいる。それを静香は、ただ呆然と見ていた。
やがて雉沢は荒い息を弾ませ、ベッド脇の椅子に座らせた静香に言った。「次は静香ちゃんを可愛がってあげるからね」
なぶられ続けて、痛々しいまでに蒼ざめた澄生は、ベッドを降りると、静香の手を取って立ち上がらせた。その手は嫌悪に冷えきっていた。
「すぐ終わるから、我慢しろ」
囁いた澄生に背中を押され、静香はキングサイズのベッドに昇った。雉沢は彼女を受け取り、抱きすくめた。静香の頬に自分の頬をすり寄せ、ぐふふ、と笑い、静香の胸を手で撫で回した。
横綱を思い出した。
気持ちが悪い。いや、気味が悪い。
肉厚で、脂ぎった手が、もどかしそうに静香の肩からブラウスを脱がせようとする。
逃れようとした静香はうつ伏せにベッドへ倒れた。
左手がだらんと床に垂れる。背中にのしかかる雉沢の重みに、呻き声が漏れる。
しかし、アパートの安っぽいパイプベッドとは異なり、高級家具にはベッド下がない。床までしっかり板が続いて、静香の左手を撥ねつけた。
明るい照明の下で、左手は暗がりを求め、虚しくさまよう。
雉沢はブラウスをびりっと引き裂いた。
サイドテーブルの下に、左手が偶然潜り込んだ。細い四本の脚の間に、淡い影がわだかまっている。
その闇が左手を捉えた。瞬間、静香の首筋で毛が逆立った。
ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ
始めは不気味だったが、いまは頼もしいあの感触が左手首を包んだ。
静香は体をくるりと反転させ、のしかかる男の裸の胸に、その手を突き出した。
どん!
雉沢は戸惑いの表情を浮かべ、自分の胸にするりと埋まった少女の左手を見た。
左手が、くいっと右に曲がる。指先に何かが触れた。柔らかい、どくどく。これだ。これを握り潰すんだ。
「ぐぉっ」
動物めいた声を上げて、雉沢がのけぞった。今度も静香の体が引っ張られてベッドから浮き上がる。静香は左手を思いきり振った。すると、雉沢の胸からすっぽり抜けた。
雉沢は仰向けに倒れ、ベッドの向こう側へずしんと落ちた。静香も、ベッドから転がり落ちた。
暫く、部屋は静まり返った。
最初に動いたのは澄生だった。恐る恐る雉沢に近寄ると、傍らに膝をつき、頬をぱちん、とはたく。
ぴくりともしない。
もう一度、頬をはたいた。さらにまたはたく。さらにまた。徐々に力が入って、ぱちん、ぱちんと小気味のいい音がクレッシェンドする。
「はは、死んでやがんの」
立ち上がった時、綺麗な顔立ちには微笑が浮かんでいた。
「きみ、凄いね」
彼は静香を見た。その左手を、確かに見た。
表情は少し動いたが、他の誰とも違って、怯えなかった。逆に静香の左手を、自分の手でそっと包み込んだ。
「ありがとう、やっつけてくれて」
澄生の手は、さっきと違った。嫌悪に冷え切った手ではなく、柔らかい体温が溢れていた。
母親の自分を叩く手、いやらしい横綱の手、怒りに震える日に焼けた男の手、ブラウスを引き裂く雉沢の手。彼女の知る手は、どれも悪意に満ちていた。
だがいま、人の手から、ぬくもりが伝わることもあるのだと、静香は知った。
「開けといた方がいいな」独り言のように呟きながら、澄生は窓際に行く。「こっから殺し屋が入ったことにしよう」
そして静香をかえりみた。
「きみも、黙ってるの、得意だよね? ぼくもそうなんだ」
瞳が妖しく煌めく。
「このこと、ぼくらの秘密にしよう」
秘密……ぼくらの……
静香は頷き、にんまりと笑った。
ノックの音。
「雉沢先生……どうなさいましたか?」
呼ぶ声に澄生はドアを開けた。
それからはめまぐるしい騒ぎになった。
次々と人が現れた。
二人を地下の駐車場へ受け取りに来た男。それに、電話で呼ばれたらしい別の男。その男が呼んだらしい、さらに別の男。
彼らはみんな困ったような、怒ったような顔をしていて、楽しそうな人は一人もいなかった。
澄生は多くの質問を浴びせられたが、そのすべてに沈黙で答えた。もちろん静香も、約束通りそれに倣った。
男たちはついに諦めた。
死んだ男は、偉かったようだ。日に焼けた男の時とは、騒ぎの大きさが違う。
あの時は警察に連れて行かれて、女のお巡りさんと男の刑事にあれこれ訊かれた。何か喋ってしまいそうで怖かったので、女のお巡りさんがちょっと部屋を出て行った隙に、テーブルの下の暗がりに左手を入れた。あの、ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわが始まって、励まされる気がした。それで静香は安堵の微笑を浮かべ、沈黙を守り通せたのだ。
また警察に行くのだろうか。でも、きっと大丈夫だ。暗がりはどこにでもある。そこに左手を入れさえすれば、力が湧く。
それに、今度は一人じゃない。
隣にいる澄生を、そっと見た。
澄生も静香を見つめ返した。
左手を差し伸べる。もう普通に戻っている少女の左手。いつもの静かな、静香の左手。澄生は優しく握ってくれた。
あったかい。
だが、結局警察には行かなかった。
迎えに来た園長のステーションワゴンで、二人はあすいく園に帰った。
消灯時間は過ぎていたので、静香は四人部屋で、澄生は個室で寝た。
夢に、ピーターが出て来た。
あの、両目が飛び出した爬虫類の顔が、雉沢の死顔に重なって、それから澄生の綺麗な顔になった。
いい夢だった。
次の日。
静香と澄生は学校を休むように言われた。
お昼前に、また大人が二人来た。若い男の人と女の人で、遅れてもう一人、おでこの広いおじさんも来た。彼らはまず澄生の個室に入って、何かずっと話していた。
静香は自分の部屋で、一人ぼんやりとベッドに横になっていた。
窓の外、園の庭にある楡の木の葉が、柔らかい風にざわめいている。
世界中で、たった一人になったようで、心地よかった。
やがて静香に会いに、三人の大人がやって来た。
質問は夕べと同じ。静香の反応――沈黙――も同じ。
彼らが引き上げると、昼食に呼ばれた。
まだ学校に上がる前の小さな子に混じって、澄生と二人向かい合う。
ナポリタンだった。静香はフォークが使えないので、箸で食べた。持ち方も教えられていないので、不器用に麺を少しずつしか取れない。それで、麺類は苦手だった。
澄生は器用にフォークを操る。大人のようにタバスコまでかけるのだ。
先生たちは、食堂の一隅に固まっている。誰も言葉少なだった。
静香がもたもたしている間に、澄生はさっさと食べ終えて、立ち上がった。先生たちの方に、「すみません、疲れたので、部屋で休んでいいですか?」と許可を求め、園長が頷くと、自分の食器を持って、食堂を後にした。静香には何も言わず、顔を見もしなかった。
だが、彼の皿があった後には、一枚の小さな紙が折りたたんで置かれていた。
食後、ひっそりした二階の廊下を忍んで、澄生の部屋のドアを叩いた。
中に入ると、机に向かって座っている澄生に、さっきの紙片を渡す。
『あとで、おれのへやにきて』
そう書いた自分の筆跡を、珍しいものでも見るように一瞥すると、澄生は細かく破ってゴミ箱に捨てた。
「何も言ってないだろうな」
質問ではなく、確認という感じだった。静香は、こくんと頷いた。
「これからも同じだ。お前は何も言うな。警察は、窓から入って来たやつが殺したって言ったら信じたみたいだ。まさか、お前がやったなんて、考えもしないよ」
静香がまた頷くと、澄生はごく自然に手を伸ばした。その細くて白い指先が、彼女の左手首を掴む。
「この手がなぁ……」
澄生は貴重な化石を発見した古生物学者のように、手を指でなぞる。くすぐったい。
「なあ、お前もわかってるだろ。ここじゃ大人にやらしいことされる代わりにご馳走を食わせてもらうんだ。たくさん我慢すれば、一人部屋にも入れてくれる。後、ほら」
澄生は静香の手を離し、机の引き出しを開けた。さまざまな箱がぎっしり詰まっている。蓋を開くと、色とりどりのチョコレートだった。
「こういうのもくれるんだ」
澄生はひとつを差し出した。静香は口に入れ、これまで知らなかった芳醇な甘みにうっとりした。
「他にもあるぜ」
今度は袋からつまみ出した、オレンジ色の三角形。これ、知ってる。遠野圭太郎の顔が浮かぶ。
チョコレートを食べ終えて、その三角形に手を出す。やっぱり、そうだ。グミだ。
「それからベッキオと話せたり、ゲームをやらせてもらえたり。誕生日やクリスマスに『お呼ばれ』があると、ケーキが出たり、プレゼントがある。けどさ」
澄生の不思議な色の瞳に、ゆらっと炎が揺れた。
「あんな目に遭わされるんじゃ、割に合わねぇよ。子どもだからってバカにしやがってさ。サクシュだよ」
静香は黙って聞いている。もうひとつ、澄生がグミをくれる。
「俺はもううんざりなんだ。それに、ちやほやされんのも小学生の間だけだ。中学になって、声変わりしたり髭が生えたりするだろ。そしたら途端に呼ばれなくなるって先輩が言ってた。四人部屋に逆戻りだ。いるだろ、大部屋に小一や小二のガキと押し込められてる中学生。俺ももうすぐああなる。女の子だって中学になったら、やっぱ大事にされなくなるぜ」
澄生がこんなに喋るのは初めてだった。静香にはその声が、音楽のようだった。
「こんなとこ、おさらばしたいって、ずっと思ってた。でも、子どもじゃ、食べていけない。住むとこもない。だから諦めてたんだ。でもさ、お前なら……お前と一緒なら生きていける」
澄生は再び静香の左手を取る。
「一緒にこっから逃げよう。こんな凄い力を持ってるお前なら、金を稼げる」
「……どうやって?」
それは、静香が澄生に初めてした質問だった。澄生はびっくりしたように目を見開いた。
そして、甘く微笑んだ。
「大丈夫、俺にいい考えがある」
園長室
翌日、二人は平常通り登校した。
澄生は小さい子たちを引率しながら、ちらちらと後ろを振り返っては舌打ちしていた。「やっぱ見張ってやがるな、警察のやつら」
静香にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「今日、放課後、準備しとくから」
静香は一瞬きょとんとしたが、例の「こっから逃げる」ことだと気がついた。
クラスが違うので、下校は別々だ。静香はエコバッグを持って、後ろを振り返り振り返り帰ったが、警察がいるかどうかわからなかった。
澄生はいつもより少し遅く帰って来た。掃除当番だったと職員に話していた。ふざけた子がいて、先生に一緒に叱られて、時間がかかった、と。
ほんとはきっと、「準備」をしてたんだ。
夕食の後、澄生と静香は園長室に呼ばれた。貝原園長は出窓から夜の闇に沈む庭を眺めていた。
「おお、来たか。入りなさい」
穏やかな声で迎えたが、重々しい木のドアをしっかり閉め、鍵までかけた。静香と澄生は顔を見合わせた。
「いろいろ大変だったねぇ」
園長は二人の肩に手を置いて、デスクの前の椅子に促した。
「きみたちも悪い時に『お呼ばれ』に当たったよ。でも、よそでこの話をしてはいけないよ」
澄生が頷いたので、静香も真似をした。
「ただし、お巡りさんは別だ」園長の声が少し重くなった。「警察は調べるのがお仕事だからね。友坂くんは、窓から男が入って来た、と話しているそうだね?」
また澄生が頷く。静香も頷く。
「本当なのか?」
さらに声が低くなった。彼は椅子に座った子どもたちの頭上から、のしかかるように見下ろした。
「先生には、ほんとのことを言わないとダメだ」
澄生が何か答えようとした。その暇を与えず、園長は少年のか細い肩をぐいっと掴み、全力を込めて頬に平手打ちを食わせた。
パン!
激しい音がしたが、重厚なドアはしっかり受け止めて、外に漏らさない。
澄生の体は椅子ごと吹っ飛んで、部屋の中央に転がった。
「窓から男が入って来ただと! でたらめにもほどがある! 大人をバカにしてんのか、友坂!」
日頃の園長とは、別の園長がそこにいた。
「映画じゃあるまいし! 二十八階にどうやって入るんだ! 空を飛んだとでも言うのか!」
澄生は返事をすることもできない。唇が切れて、赤い血が流れていた。
「三輪! お前はどうだ? お前も見ていたはずだ!」
静香も両肩を掴まれ、がくがくと揺すられる。長い髪が乱れる。
「答えろ! 本当は何があった? そんな男はいなかったんだろ?」
「……い、いた」
静香の声も揺れる。園長は肩を突き放し、倒れた澄生につかつかと歩み寄った。
「お前が本当のことを言わないなら、友坂が可哀想なことになる」
腰から上半身を折って、少年の体を抱き上げる。澄生は抗うが、痩せた園長の力は意外に強く、歯牙にもかけない。
澄生は徐々に持ち上げられていく。
抱え上げて、床に叩きつけるつもりだ!
恐怖に駆られた。澄生が危ない。椅子から立ち上がり、部屋の中を見回した。
天井で煌々と輝く電灯は、室内から闇を払っている。どこにも暗がりがない。
だが、すべての闇を消し去ることは不可能だ。
静香はデスクの向こう側に回り込み、その下を覗く。
あった。
闇だ。
静香は左手を闇に捧げた。
ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
そして、園長に飛び掛かった。
気がつくと、園長は両眼を飛び出させ、蒼白な顔色で横たわっていた。眉間の皺が苦痛の深さを物語っている。
澄生は歪んだ笑いを浮かべていた。「やっぱ、スゲェわ、お前」
二人でそっと園長室を出ると、「誰にもなんにも言うな」と澄生が言った。
それぞれの部屋に戻り、静香はいつもの通り就寝時間に寝た。
目を覚ましたのは夜中である。パトカーがけたたましいサイレンを鳴らして乗りつけ、野次馬が門のところに集まって来れば、さすがにうるさい。
それからも次々クルマが来る。ばたばたと人が出入りする。宿直の先生が来て、静かにしなさいと言ったが、無理だ。みんな興奮してお喋りがとまらない。
だが、静香にとっては一昨日の夜の繰り返しに過ぎなかった。いつの間にかまた寝ていた。夢も見なかった。
「とても悲しいことがありました」
朝食の時、副園長のおばさんが言った。
「夕べ、園長先生が亡くなられたのです」
ああ、そう言えばそうだった、と静香は思い、澄生をちらっと見た。
少し離れた席の少年は、美しい無表情である。
協議の結果、全員平常通り登校することになったらしい。仕度をするように言われて部屋に戻った時、またあのおでこの広いおじさんが来た。
園長先生に呼ばれたね? こくん。どんなお話をしたの? …… こないだは大変だったけど元気を出してとか? こくん。
雉沢の時と同様、今回も口をきかないだろうと端から諦めていたのか、おでこの広いおじさんは割とあっさり出て行った。
門の前にはマスコミが集まっていたが、さすがに子どもへのインタビューはしてこない。
学校に着いた時、澄生が耳打ちした。「授業が終わったら、プールんとこに来い」
静香は、今日逃げるんだ、と思った。
「なるべく人に見られるな。特に先生には」
うん、と静香は言った。
指示通りにプールの裏に行くと、澄生は先に来て待っていた。そこには金網の塀があり、その向こうはコンクリートの崖である。金網にはロープが結んであった。
「こっから崖を降りるんだ。そしたら下の通りにクルマが待ってるからな」
警察が正門で見張ってるから、裏から逃げるんだと言う。静香は頷いた。澄生は頭がいい。言う通りにしていれば大丈夫。
食事が保証されているあすいく園を出るのは少し不安だが、澄生について行こう。
ロープを伝って、先に澄生が滑り降り、静香が続いた。ほぼ垂直なコンクリートの崖を降りるのに静香は必死で、下の道にいるというクルマに注意を向ける余裕はなかった。
最後をぴょんと飛び降りて、路上に着地する。そこで初めて、すぐ脇に大きなクルマがとまっているのを知った。後部シートのドアが開き、澄生が身を乗り出して手招いている。
静香は走った。女が追いかけて来ていることには、まったく気づかなかった。
ただ、澄生の拡げた腕だけを、一途に見ていた。
クルマは急発進し、後部シートで二人の子どもはだんごになった。澄生がおかしそうに笑った。静香も声をたてて笑い、自分が笑ったことに驚いた。
だが、運転している男は不安そうだ。「おい、澄生、だいじょぶかよ。なんか女が追っかけて来てっぞ」
スキンヘッド、タンクトップの肩にタトゥー。怒ったように釣り上がった細い眼。
「ああ、あれ」リアウインドウを振り返って、「へーきですよ。刑事でしょ」
「け、刑事?」ハンドルが動揺で揺れた。
「夕べ、園長が死んだんです。それでつきまとわれてうるさくって」
「マジかよ、貝原のおっさんが? なんで?」
「ふふ、ほんとのこと、知りたいですか?」
澄生の含み笑いに、スキンヘッドはバックミラー越しに静香を見る。
「まさか、それもその子が?」
「あ、これ、静香。こっち、ナオ先輩ね。お前の先輩でもある。あすいく園のOBだから」
「OBって……施設上がりなんて威張れた経歴じゃねぇよ」
「先輩には昨日、学校帰りに電話して大体は話しといたんだ。でも、静香が園長を殺っつけたのはその後だからまだ言ってない」
澄生は簡単に夕べのことを、ナオ先輩なる若い男に説明した。「まさか、静香が園長まで殺っちゃうとは思わなかったけど、でも、お陰で俺も助かったんですよ。あいつ、キレるとほんと、ヤバいでしょ。何人も殴られたり蹴られたりしてますよね」
「ああ、俺もヤラれたわ」ナオ先輩は苦々しく言った。「人の好さそうなツラしてっから、みぃんな騙されんだ」
「だから、くたばったって自分のせいですよ。でも、園長室の窓が開かないってわかった時はビビったなぁ」
「窓?」
「一昨日みたく窓開けとこうって思ったんですよ。そしたら誰かがそっから入ったって思うでしょう。ところが、出窓って、中から開かないんですよね。それで困ったけど、パパが、川釣りが好きで、ルアーでブラックバスとか釣るんだけど、あれだってひらめいたんですよ。釣り竿で何かぶら下げて、庭から窓をぶち割れば、外から殺し屋が飛び込んだみたいに見えるって。で、釣り竿で錘を引っ張って回収すれば、証拠も残らない」
「なーる。澄生は相変わらず知恵が回るよなぁ。で、何をぶら下げた?」
「バスケのボール」
「はは、それも懐かしアイテムだなぁ。いつも庭に出しっぱだったもんな」
そんな話をしている間に、ワンボックスカーは住宅街を抜け、広い道路に出ていた。「甲州街道だよ」と澄生が静香に教える。
静香にとって、二度目のドライブだった。最初は高輪の雉沢のところへ行った。だが、あれは夜だったから外はよく見えなかった。
昼間は、無数のクルマが流れている。そして無数の街路樹、ビル、歩道橋。自分がテレビの中に入ったような気がした。テレビでしか、そういうものを見たことがない。
澄生はちゃんと目的地がわかっているらしい。堂々と落ち着いて、ナオ先輩と最近のあすいく園の様子や職員の悪口を言い合っている。
甲州街道を進むにつれ、クルマはますます多くなる。交差点には行き交う人、人、人。こんなにたくさん人がいれば、見つかることはないだろうと、静香は安心する。
日が、大分傾いている。
「初台だ」澄生が大きな交差点で言った。「こっからだと新宿もすぐなんだぜ」
しかし、静香に地名はわからない。ただ、澄生が自慢そうな口ぶりなので、新宿はきっと凄くいいところなんだろうと思った。
ワンボックスカーが大きな通りを逸れ、ビルとビルの間の細い路地に入ると、周囲は急に貧しい雰囲気になった。
ビルもどんどん低くなり、道もどんどん細くなって、迷路のようだ。清潔で無機的だった街が、薄汚れた生活の匂いを放ち始める。
ワンボックスカーがとまったのは、そんな一画にあるコインパーキングだった。降りる時、「ほんとは今日返さなきゃいけないんだけど、ま、明日でいっか」とナオ先輩は呟いた。
そして彼に連れられて、辿り着いた場所を見た瞬間、静香は胸がきゅっと縮むような恐怖を感じた。
小さな二階建てのアパート。それは静香にとって、馴染み深い世界だ。せっかく逃げ出した、あの物置のような部屋にまた連れ戻される気がして、脚がすくんだ。
「ん? どうした?」
ナオ先輩に訊かれても、うまく説明ができない。ただ、ぶるぶると首を振る。
澄生は何かを察したのだろう。安心させるように静香の左手を取った。「だいじょぶだよ。俺がついてる」
それで静香の脚の呪縛は解けた。
二階の、一番奥の部屋。薄っぺらい金属のドア。そこから母親が出て来るのでは、と身構えた。あるいは、日に焼けた男か、もしかすると怪物ピーターが。
だが、誰も出て来ない。誰もいないのだった。
アジト
「ここ、組の、まあちょっとしたアジトみたいなもんで、チャカとかヤクとかヤバいもんを一時的に隠しとくとこなんだ。俺はまあ、留守番って感じでさ、だから時々組の人が来るけど、そん時だけどっか消えてりゃ、ま、基本ずっといてだいじょぶだから」
そう言いながら、ナオ先輩が出した夕食がカップ麺だったので、静香はがっかりした。これならあすいく園の方がよかった。だが、澄生は幸せそうだった。
なら、あたしもここでいいや。
「ちょっといま、金がなくてな」
ナオ先輩は言い訳しながら、澄生に訊いた。
「しかし、電話で言ってた話、ほんとなのかよ?」
「ほんとですよ。俺、ナオ先輩に嘘ついたことないでしょ」
「そうだけどさ……さすがに聞いただけじゃ信じらんないぜ」
ナオ先輩が、不意に静香の左手首を掴んだ。静香はびくっとした。
「この手で、雉沢とクソ園長を殺ったってのか?」
ナオ先輩は、品定めでもするように、静香の左手を裏返す。
「けど、雉沢は病気だろ? ニュースじゃそう言ってたぜ」
「だからそれが嘘なんですよ。俺、ちゃんと見てたもん」
「う~ん……まあ、雉沢んとこは、俺も『お呼ばれ』で行ったけどな」
「ひどいやつでしたよね。それを静香が一発で」そう言った澄生は外人みたいに肩をすくめた。「でもいくら言っても無理ですよね。こんな女の子がね。だから、ナオ先輩にもいっぺん見てほしいんですよ。そしたら絶対わかるんだから。ねぇ、誰かいない? 殺したいやつ」
「いや、急に言われてもなあ」美貌の少年が物騒なことを口にするので、ナオ先輩はスキンヘッドを困ったように撫でる。
「別に殺すんじゃなくても、痛めつけるんでも。そういう仕事、ありますよね。ナオ先輩、反社なんだから」
「お前、反社って何だかわかってんのかよ」ナオ先輩は苦笑する。「まあ、そんじゃ、軽い取り立てん時でも、ちょこっと手伝ってみるか」
「うん、何でもいい!」
「おし、手頃なのが来るまでちょっと遊んでろ」
しかし、「ちょっと」と言うには、随分長く待たされた。「手頃な」仕事がなかなか来ないのだろうか。
それでも静香はさほどいらいらせず、貧しいながらに食事がちゃんとあり、たまには小遣いをもらって澄生とコンビニで甘いものを楽しんで、それで結構満足だった。
警察が追ってくる気配もない。
昼間、ナオ先輩が出かけている間は、近所をぶらぶらしたり、テレビを見たり、ゲームをしたりして過ごした。
それにも飽きると、アイスを舐めながら、澄生はナオ先輩との思い出を話した。
「事故でパパとママが死んで、あすいく園に入れられたのって、俺が小二の時でさ。ナオ先輩は中三だった。来年は園を出なきゃいけないって年だよ。だから一緒にいたのは、ほんと、半年ぐらいだったんだよね。けど、初めての『お呼ばれ』が、ナオ先輩と一緒だったんだ。最初だから、不安じゃん。でも先輩が優しくしてくれて、それで仲良くなったんだ。あすいく園のことも、先輩から教わった。俺たちが大人にひどいことされる代わりに、園はお金をもらってるんだとか。俺が初めて行った時も、いろんな奴が値段つけて、一番高かった奴がゲットしたとか。だから、大人の相手をする子は、他の子よりいいものが食えるし、お菓子ももらえる。一人部屋にも入れる。そういうこと、全部さ。俺はもう、あんなこと嫌で嫌で、園から逃げたいって言ったんだけど、寝るとこもないし、食うもんもない。どうするって言われて、答えられなかった」
澄生の美しい瞳は、少し涙ぐんでいた。
「でも、ナオ先輩、自分が卒業したら迎えに来てやるって言ってくれたんだ。静香は見てないかも知れないけど、あすいく園って、時々いかにもって感じの怖そうな人が来てさ、園長室でこそこそやってるんだ。その一人と、たまたま会ったんだって。中学で不良仲間に入ってて、遊んでる時にね。それで、挨拶したんだ、あすいく園にいるんですけど、何度かお見かけしましたって。そしたら、ああ、って感じで、お前らも大変だな、って。割と優しいこと言ってくれたんだって。先輩それで、卒業したら一度遊びに行っていいですかって訊いたら、ああ、いつでも来いって。あの人ならきっと面倒見てくれる。それで、ヤクザになれれば、安月給でこき使われるより、ずっと早く金もできるからって」
「それで……なれたの?」
「一応、面倒は見てもらえたんだけど、やっぱり下っ端からだろ。そうすぐには金もできないし、未成年だから正式に組にも入れない。だから、ほんとはまだヤクザじゃないんだよ。だから俺のこと、迎えにも来れない。でも、手紙はくれてさ、携帯の番号も教わってるから、時々電話して、会ったりもしてた」
澄生はため息をついた。
「あ~あ、早く仕事来ないかな。そしたら、お前の実力、先輩だってわかるんだ」
一週間が経ち、夕方帰って来たナオ先輩は、にこにこしていた。
「待たせたな。出動だ」
空手道場
空手道場のフローリングに、三人の男が転がり、苦痛に呻いていた。
その中央に、道着の男がすっくと立っている。
静香は、ナオ先輩と澄生に挟まれ、ドアの隙間から一部始終を覗いていた。
「あいつ、強ぇぞ。行けるか?」
ナオ先輩が耳元で囁く。
静香はよくわからない。だが、澄生のすがるような目を見て、こくんと頷く。
道着の男は、転がっている男の一人を蹴飛ばした。「さあ、とっとと帰れ。帰って社長に言っとけ。こないだやっと大口の契約が取れた。来月手形が入るから、そしたら半額返す。残金も年内には返すから、お前らは大人しく待ってりゃいいんだ。いくら期限が来たからって、腕づくで取り立てようなんて、俺には通じないぞ」
蹴飛ばされた男は、道着の男よりよほど大きい。背も、幅も、たっぷりある。静香はちょっと横綱を思い出した。あの子も、大人になったらこういう風になるのかな。
ともかく、そんな屈強な男が、いとも簡単に倒された。後の二人も、瞬く間だった。そして、道着の男に追い立てられて、情けなく、もうひとつのドアから退散していく。覚えてろ、など、お決まりの捨て台詞を言う気力もない。
「知ってるだろうが、俺には女房も子どももいない。人質を取る手も通じないぜ。どうしても力づくなら、ゴルゴ13でも呼ぶんだな」
そして、三人が出て行くと、ふん、とバカにしたように鼻を鳴らした。
「いまだ」
ナオ先輩が静香の背中を押す。少女はドアの隙間から、道場の中へ滑り込んだ。
道着の男は驚いた。時刻は午後十時半。こんな街中の空手道場に少女がいるはずはない。
「き……きみは?」
幽霊とでも思ったのだろうか。声に微かな震えがある。
静香は後ろを振り返った。澄生とナオ先輩がじっとこちらを見ている。
二人が期待しているのは、自分がこの道着の男を倒すことだろう。
だが、それには、闇が要る。
園長の時も、雉沢の時も、日焼け男や、横綱の時も。暗がりに左手を突っ込まなければならなかった。
なのに、空手道場はだだっ広い空間で、園長室のデスクや、マンションのサイドテーブルのような家具がない。のっぺりと光が拡がり、暗がりがなかった。
どうしよう……
静香は焦る。また、背後を振り返る。
ナオ先輩がスマホのカメラを向けていた。その下に、必死の想いで自分を見つめる澄生の顔。
すると、ドア脇のスイッチが目に入った。
静香ははっとした。暗がりがなければ、道場全体を闇にすればいい!
素早くスイッチに飛びつき、カチッと切った。
明かりが消えた道場で、道着の男は戸惑ったようにきょろきょろした。
いまだ! 早く! 静香は、あの感触を待った。ぬぶぬぶ、じゅぶじゅぶ、ぞわぞわ。
だが、来ない。なぜか左手に、闇が入って来ない。
窓からはネオンが漏れている。完全な闇ではないからか。
道着の男は、静香の方へ近づいて来た。「いたずらしちゃダメだよ、お嬢ちゃん」
薄明かりの中で、道着の男は静香の前に膝をつき、髪をそっと撫でた。「どうしたの? どこから来たのかな?」
微笑んでいる。横綱の下卑た笑いでもなく、日焼け男の怒り狂った形相でもなく、雉沢の小鼻を膨らませた欲情まみれの顔でもなく、園長の嗜虐的な喜びと憤怒が入り混じった無表情でもない。優しい微笑だった。
怖くないのだ。静香は気づいた。この人、怖くない。だからきっと、左手は眠ったままなのだ。
同じことに、澄生も気づいたようだ。
少年が道場に飛び込んで来た。ものも言わず道着の男にむしゃぶりつく。自分の力ではダメージを与えられないとわかっているからか、いきなり右手首に噛みついた。
「わっ!」
子どもとは言え、本気で噛まれれば痛い。道着の男はとっさに澄生を振り払った。
ごん!
堅い木の床に、澄生の頭がぶつかった。
途端、静香の心に恐怖が湧いた。澄生が傷ついたのではないかという、恐れ。そして、左手に、ぞわっという感触が来た。
事務所
「アんだとぉ? 吹かしてんじゃねぇぞ、こらァ!」
ナオ先輩が胸倉を掴まれた。
「い、いや、ほんとなんすよ。しょ、証拠もあるんで」
必死でスマホを差し出す。
「あ、鮎川の兄貴に見てもらってください!」
ナオ先輩が静香と澄生を連れて、新宿の外れにある雑居ビルにやって来たのは、その翌日、昼頃だった。
看板には『桑野コーポレーション』とあったが、ナオ先輩はそこを「事務所」と呼んでいた。ドアを開けると、確かに事務机が並んでいるが、たむろしていたのは事務員などではなく、いずれも強面の男ばかりが五、六人。その内の三人に、静香は見覚えがあった。夕べ、空手道場で叩きのめされた連中だ。
「事務所」にはテレビがあって、ちょうど昼のワイドショーをやっていた。『中小企業社長、空手道場で殺害』というニュース。それを見ながら、あの三人を中心に、男たちはこそこそ話しているところだった。
横綱の将来像かと思ったあの大柄な男に、ナオ先輩は声を掛けた。そして、いままさにニュースでやっているあの事件は、ここにいる女の子がやったんだと言った途端、張り倒される勢いで胸倉を掴まれたのだった。
「こんなガキにできるわきゃねぇだろっ!」
大柄な男は握り拳を固めて振りかぶった。ナオ先輩が首をすくめた時、その腕が背後から掴まれた。
「待て」
野太い声に、場の空気が引き締まる。いつの間に現れたのか、ひどく頬の削げた背の高い男が大柄な男を止めていた。すると、他の連中も、あ、兄貴、と言って頭を下げた。
背の高い男はナオ先輩に顎をしゃくった。ナオ先輩は他の男たちにぺこぺこしながら、静香と澄生を連れて、奥の部屋に入った。
園長室のように大きなデスクがあって、そこにガマガエルのように太った老人が座っていた。
「何の騒ぎだ、鮎川」
背の高い男が耳打ちすると、老人は軽く頷いて言った。「見せろ」
ナオ先輩はスマホを開き、映像ファイルを流した。
鮎川はそれを持って、老人の横に回り、二人で画面を覗き込む。
スピーカーから、カチッという音がした。静香が電灯のスイッチを消したところだ。
――いたずらしちゃダメだよ、お嬢ちゃん。
――どうしたの? どこから来たのかな?
「わっ」という悲鳴は澄生が噛みついた時。
ごん! という音は澄生が倒れた時。
そして道着の男の悲鳴がスピーカーを割って響いた。映像は暗いが、ネオンの薄明りで、静香が道着の男に飛びつくのはわかるだろう。その胸にどん! そして、静香を振り払おうとする死のダンス。
老人と鮎川の表情が変わる。
また、スイッチの音。画面が明るくなったところだ。スマホのスピーカーから、ナオ先輩の焦った声が聞こえる。
――おい! こ、殺しちまったのかよっ!
そして鮎川が思わず、「う」と呻いた。道着の男の顔がアップになったのだろう。
両眼が飛び出した蒼白な死に顔は、ヤクザが見ても凄惨なようだ。
動画は終わった。老人と鮎川は、ほおっと溜息をついた。
「バラすことはなかったんだがな」
老人がじろっとナオ先輩を睨む。
「や、やり過ぎでした。でも、自分も半信半疑で、まさかこんな風とは」
「まあ、いいでしょう」とりなすように、鮎川が言った。「社長がくたばっても、会社は残ります。次の社長にねじ込めばいい。がたがた抜かしたらお前もこうなるって脅せば、すんなり吐き出すでしょう」
「まあな。それに、あの会社のやつらがみんな空手の達人じゃあるまいし」
「ええ。変に腕に憶えがあって、正直手こずってましたから、片づいてむしろよかったかも知れません。ま、サツが少々目障りにはなりますが、その辺はうまくやります」
「お前に任せる。ところで、このガキだが」
老人の視線が静香に向いた。
「使えますよね」ナオ先輩が勢い込んで言うと、鮎川が「うるせぇっ!」と怒鳴りつけた。
ナオ先輩は叱られた子犬のように首をすくめる。
「お前、夕べの取り立てのこと、どこで聞いた?」鮎川がナオ先輩に訊く。
「ここっす。昨日、掃除してたんすよ。したら、川上さんたちが、夜、取り立てに行くって言ってて。空手ができる野郎で、何度か失敗してっから、気をつけろって言ってたんで、俺も手伝わせてくださいってお願いしたんです。でも、まだ早ぇって言われたんで、こいつら連れてこっそりついてきまして」
ぱーん、といい音がした。ナオ先輩は頭を押さえた。「す、すいません!」
鮎川は、「勝手なことしやがって」と凄んだ。
「で、ナオ。このガキども、どこで拾った?」
老人が話題を変えた。
「お、俺のいた、孤児院の後輩なんすよ。こっちが澄生で、こっちが静香です」
ナオ先輩に後頭部を押され、静香は澄生と並んで頭を下げる。
「いまも孤児院に?」
鮎川の問いに、首を振る。
「いえ、脱走しました。いま、俺が預かってます」
「じゃ、追っかけられてんじゃねぇのか」
「大丈夫です。もう一週間経ちますけど、何の音沙汰もないですし」
「孤児院って、あすいく園だな」
老人が訊いた。
「はい、そうです」
「あそこの園長、こないだくたばったが……まさか、あれもこのガキが?」
「はい」ナオ先輩は答えて、澄生を見た。「って、こいつが言ってます。あの、雉沢も」
「なんだと! 雉沢って、大臣の?」
「あすいく園の客でしたね、あいつ」鮎川が言う。「ニュースじゃ、病死って言ってたが……」
「嘘なんです!」
澄生がきっぱりと答えた。顔色ひとつ変えない。
「僕、見てました。この子と一緒に呼ばれたんで」
鮎川は少年を見下ろし、ふっと頬を緩めた。「じゃあ、そういうことにしとくか」
財布を出す。
「昼飯、まだだろ。これで何か食わせてやれ」
静香はほっとした。いつお昼が食べられるのか、そろそろ心配になってきていたのだ。
ショッピングモール
次の日、ナオ先輩は「今日は買い物だ」と言って澄生と静香を連れ出した。「昨日若頭からもらった金がまだ余ってっからよ。お前らも着た切り雀じゃな」
確かにあすいく園を脱走するのに、着替えを持ち出す余裕はなかった。
アパートの前に出ると、クルマがとめてある。
「いいだろう、ベンツだぜ。これも若頭が貸してくれたんだ。俺らの商売は見栄はらねぇとな」
ナオ先輩が後ろのドアを開けた。静香と並んで乗り込むと、意外なことに助手席に人がいた。
女の人だ。
「うす」
甲に蜘蛛のタトゥー、指に煙草を挟んだ右手を軽く挙げて、女は言った。
運転席に乗り込んできたナオ先輩が紹介する。「これ、ユリナ。静香の服は、ほら、俺じゃちょっとわかんねぇから、助っ人頼んだ」
「へー、ほんと、可愛い顔してんねぇ」ユリナという女は馴れ馴れしく澄生に言った。「それに比べてあんたはまあ、ブサイク」
ショッピングモールに着くまで、ユリナはぺらぺらとよく喋った。ナオ先輩も時々、おい、とか、いやいや、とか、短く突っ込むのが精いっぱいだ。
ナオ先輩&澄生組と、ユリナ&静香組に別れ、一時間後にまたエントランス集合ということになった。
ユリナは静香の手を引いて、店を周る。だが、どんなのがいい、と訊かれても、わからない。母親と一緒に買い物をしたことがないのだ。新しい服なんて、母親が自分のショッピングのついでに時々買って来たものを、放り投げられたことしかない。色とりどりの山のような服の中から、どうやって選べばいいのか途方に暮れる。
結局ユリナが、あ、これ、どう? あ、これ、可愛いよ、と選んだものに、素直に頷く。資金は潤沢らしく、ユリナはあれこれ試着室に持ち込んで、さらに下着や靴まで買ってくれた。
試着室で真新しいブラウスに袖を通した時、静香はその心地よさに驚いた。まだ誰も触れたことがない布地が、肌にこすれる新鮮な感じ。
そうなんだ、服って、こういうものなんだ。母親が買ってくれたのは、どうせすぐ着られなくなるという理由で、古着ばかりだった。
厳密に言えば、「お呼ばれ」の時、新しい服が与えられた。静香のサイズにぴったりだったから、恐らく一人一人園が揃えるのだろう。しかし、澄生の蒼ざめた顔を見て、静香も不安になり、布地の感触を楽しむどころではなかった。
ユリナは仕上げにアポロキャップまで被せて、「一丁上がり」と笑った。
集合場所のエントランスに戻ると、「はえーな」ナオ先輩が細い眼を丸くした。「大分待たされっぞって言ってたんだけどな。女の買い物は長ぇから」
「だってこの子、まるで興味ないんだもん。どれが好きって訊いても、『わかんない』だって。だから、あたしの独断でぱっぱっぱと決めちゃった」
「へぇ、服に興味がねぇのか」
「女の子とは思えないよ」静香の頭をポンと叩き、ユリナは寂しそうに呟いた。「親に服買ってもらったことないんだろうね」
ナオ先輩まで、ちょっとしんみりした顔をして、わざと元気よく「そうだ、これ、見ろよ」
買い込んだ服とは別に箱がある。何それ? とユリナが見て、表情が明るくなった。「あ、モナミじゃん! これ出たばっかでしょ」
「おう、新発売よ」
「あんたがこの子っちにプレゼント? 気の利いたことすんじゃん」
「いや、園にいた頃さ、ベッキオが出て、園長が買ったのよ。したら、前に話したろ、例の『お呼ばれ』。あれした子の特権みたくなっててさ、俺もうそん時中三だったから……」
「使わせてもらえなかったんだ」
「ちゃうって。『お呼ばれ』したやつ脅して、代わりに使ったさ」
「げ、かわいそー。その子」
「いーんだよ。そいつはそいつでまた後で使ったんだから。とにかく、それで俺も使ってさ、なかなかおもしれーなって。ベッキオに『俺のこと、どう思う?』って訊いたらよ、なんて答えたと思う? 『将来大物になる予感がいたします』だってよ!」
「ベッキオって、人の喜ばせ方知ってるよね。あれつくったやつ、絶対悪魔」
「バカ、AIが俺様の力を見抜いたのよ」ナオ先輩は腰を屈めて静香に言った。「な、静香、アパートで留守番してる間、暇だろ。こいつが遊んでくれっからな」
「AI子守りかぁ。あたし、AIホスト、ほしーなー」
「けっ、んなもん出るか」
「だって、メイドはいるじゃん。メイドがいんのに、ホストがいねーってどうよ」
「知らねぇよ」
言い合う二人をよそに、静香の目はサーガテクノロジーが売り出し中のAI子守りではなく、すぐ横で売っているソフトクリームに向いていた。
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