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随想(風)〜甲州道中“鳥の旅”2023

2019年に参加した後、翌年はコロナ禍で未開催が続く。昨年再開されたけど予定が入っていて不参加。今年は4年振り4回目の参加。鳥の旅とはなんぞや?と思った方は過去3回の旅行記を読んでみて下さい。

今回は徒然なるままに思ったことを随想風に書いてみることにした。

走った距離は裏切らないのか?

前回(2019年)43時間で完走
1月 71km
2月 61km
3月 48km
4月 84km
5月   34km
6月 116km(旅の前まで)

今回(2023)DNF八王子
1月 34km
2月 45km
3月 85km
4月 14km
5月   60km
6月 14km(旅の前まで)

前回(完走)も今回(DNF)も大して走ってない(笑)

強いて言えば違いは6月にあったかも。前回は6月に入った旅の前に25km、45km、30kmの刺激入れのロングランをやってた。今回は3〜4kmを4日だけしか走ってない。いくらなんでも走らな過ぎやろ。それだけが理由ではないにしても、いきなり長距離走らされたもんで身体がびっくりして反乱を起こしたか・・・50kmくらいから足首周辺(脛の下の方)と足(足底、足指)の筋とか腱とかが引き攣りまくって走れない。歩くことはできる。いつもの足攣りとは部位も挙動も違ってる。なんだかヤバい感じ。第一エイドでDNFすることを何度も考える。

「走った距離は裏切らない」と言うより「走らな過ぎは誤魔化せない」ってとこかな。

トレイル・マジック!

甲州街道と言っても旧道を走るのでロードだけじゃなくてトレイルもある。旧道というより古道と呼ぶのが相応しい趣きのあるトレイルを何箇所か通るのだけどそれが鳥の旅の魅力でもある。

第一エイド(石和温泉)の前に痛めた脚が温泉に入って快復しなければDNFのつもりだったけど少しマシになった気がした。加えて第二エイド(黒野田)まで28kmほどでスタッフはまだ時間が早いから全部歩いても余裕で着くと言うので先へ進むことにした。脚の負担を軽減するため預け荷物に入れておいたストックを使う。炎天下に登り基調で延々とロードを歩く。走ると脛より下から足裏まで突っ張るので歩くしかない。と言ってもこの区間は登り基調だから走れても歩いてたので大した差ではなかったと思う。

なんとか笹子峠の手前の古道の入り口に辿り着く。

ここから峠までトレイルが続く。大好きな区間。木々に囲まれて落ち葉と柔らか土ののトレイルは脚に優しくて気持ち良い。痛みを忘れる。

4年ぶりの笹子峠の立て札を前に「また来たよ」って感じの清々しい気分。

登りはここまででここからは下り基調。痛めた脚には登りよりも下りの方がキツい。そのはずだが意外と下れる。あれ⁈

 トレイルからロードに出る。硬いロードはなおさら脚にキツいはず・・・なのに思いの外、走れる。痛くないわけじゃないけど、走れるなんて微塵も思ってなかったから急に完走へのモチベーションが高まる。
これはトレイル・マジックだ!

しかし冷静に考えてみるに、トレイルは平らじゃないし柔らかいから足首とか足裏に色んな方向の力が掛かって、ロード走った時の強張りが解されただけなんじゃないかと思う。そもそもアスファルトの道なんてものは人間の歴史で極々最近なわけで車のためにここまで拡がったのだから人間には優しくないのだ。トレイルで脚の痛みが改善したのはマジックでも何でもなくて至極当然なこと。

そうこうしてるうちに無事、第二エイド(黒野田)に辿り着く。

時計

自宅を出発してすぐ、腕時計を忘れたことに気づく。取りに戻ろうかと思ったけど、タイムを気にすることも無いし、気にしたところで速く走れるわけでも無い。と言うか腕時計が無くてもスマホで時刻はわかるから要らない。実際のところ腕時計無しで走ってみてスマホの時計ですらほとんど見ることが無かった。

真っ暗な空が白んでくると一斉に鳥が鳴き始める。段々と明るくなり、朝靄に包まれた優しい光を浴びる。

お昼になるとギラギラと強い光が頭の上から刺すように降り注ぐ。

西へ沈むにつれてエネルギーが弱まり最後の輝きを森の木々の隙間越しに見届ける。そして再び暗闇が訪れる。

これこそが時間の流れであって時刻などというものは人間の都合で人間が創り出した概念でしかないのだ。お腹が空いたら食べる。これを腹時計と言うではないか。時間を感じとれるくらいの心の余裕が日常にもあるのいいのだが・・・

遅かったからこそ出逢えた景色がある

地図通り走ってるので走ったことあるはずなんだけど記憶にない道。4年ぶりなので忘れて当然なのか、歳とって物忘れが激しくなったのか・・・

その一つがここ。

上野原 鶴川朝景

犬目宿から下ってきて上野原へ向かう途中。暗闇から薄明の時を経てまさに陽が昇ろうとしている瞬間だった。最初はこんな道通ったことないなぁと思ってたけどよくよく考えたらいつもはここを夜明け前に通過してたからだと気づいた。同じ時期の同じ場所でも時刻が違えば違って見える。特に夜明けや日没の前後は15分違うだけで見え方が全然違う。

甲州古道 椚戸

ここは相模湖の北側を巻いて通る甲州古道の“椚戸”(くぐど)のあたり。柔らかな朝の光にえもいわれぬ古の空気感が漂ってた。

遅かったからこそ出逢えた景色。
“一期一会”は人との出会いだけじゃない。
感謝しかない

旧道と新道

韮崎 清哲町

甲府盆地の北側の入り口にあたる韮崎あたりで旧道が南アルプス側の斜面の高いところを通っている。眼下に広々とした川沿いの平地を見渡すことができ、新道(国道20号線)が釜無川沿いの平地に敷かれているのがわかる。

こんなに斜面の高いところだけど旧道に沿って水路があって勢いよく水が流れている。南アルプスが蓄えた水が溢れんだかりに流れ込む場所なのだろう。地図で上流を見るといくつかの川が釜無川と合流している。ネットで調べてるとどうやらこの辺りは昔から川が氾濫するため治水が行われていたようだ。


旧道を走るからこその気づきがある。鳥の旅の魅力はそこにあるわけで先を急ぐだけじゃもったいない。

闘いと向きあい

超長距離の世界を知らない人に「今度、下諏訪から日本橋まで215km走るんです」と話したら、当然信じられないという顔をして「いったいぜんたい、どんな気持ちでそんなに長い距離を走るんですか?」と問われる。「どう思われますか?」と逆に質問すると「やっぱり自分との闘いですよね」と答える。

自分と闘うってどう言うことだろう。「走る」という言葉がそのニュアンスを持ってるからそうな風に考えるのか。確かに100m全力疾走するならそうかもしれないけど、215kmも自分と闘ったら消耗して潰れるだけだ。

そこでどう答えるかというと「自分との向き合いです」と。215km先へ辿り着くには走力だけで頑張ってもだめで、今ココの身体の声を聴きながら、休んだり、食べたり、飲んだりして一歩一歩を積みかせねいく。一歩が1kmになり、10kmになり、100kmになりしていつかそこへ辿り着く。その間、只管(ひたすら)自分と向き合ってる。

只管打坐ならぬ只管打走なのだ。

人間を人間たらしめるもの

近頃はchatGPTが大盛り上がりでAIが人間を超えてシンギュラリティがもう起こってしまったかのような言説が増えた。ただ、ちょっと前のシンギュラリティがディストピア的だったのに対してポジティブな反応が多いように思う。漠然とした概念ではなく具体的なツールなのでビジネスを含めて「どう活用するか」を考えるからだろう。不安も期待も受け止め方次第なんだろう。

これだけAIの情報処理能力が上がってくるとじゃぁAIでできないことは何かということが論点になる。少し前なら創造的なことはできないか苦手とされていたけど最近ではそれも揺らいできた。創造力も情報ゼロから生まれるわけではなくてなんらかの過去の記憶がベースにあるとすればロジックを超えた脳の回路を模倣して何某かの創造ができたりもする。

そうなると次は「人間とは何か」「人間の幸せとな何か」みたいに哲学的なことが論点になってくる。Well beingという言葉がやたら目立つのはそういうことなんじゃないか。ビジネス界においても「AIの進化で人間が阻害されるのでWell beingがビジネスになる」と、そこにまた新たな科学技術が現れたりする。「幸せを感じる脳波が分かったのでこれを人工的に作り出して脳に伝達すると幸せになれる」とかね。

こんな話しを聞く度に思うのは現代社会がいかに身体性を軽視しているかと言うことだ。全ての問題は脳が起こし、全ての問題は脳によって解決するかのように脳のことばかりにフォーカスする。

裸足やワラーチで走る人は読んだことのある人が多いと思うが「Born to run」(クリストファー・マクドゥーガル著)には、人間を人間たらしめる能力の一つとして「地上で人間より早く走れる動物はいくらでもいるけど、人間より長く走れる動物はいない」と書いてある。人間最速のウサイン・ボルトだってチーターには勝てないのだから。チーターは時速100kmくらいの速さで走れるようなのでとても太刀打ちできない。


しかし、人間は毛が少なく、身体の表面に無数にある汗腺を総動員して全身で汗をかくことによって体温調節できるから長時間動き続けることができる。速さや強さで劣ってもチームを組んで獲物を執拗にどこまでも追い詰めて仕留めたからこそ種として生き延びた。実際のところはそんなに単純な話しではないだろうがこの本を読んで妙に肚落ちした。

走ることだけではなくて歩く、踊る、歌うなどおよそ身体の部位を動かすことは全て身体性だ。こうした身体性は脳のより根源的な部分の発達と無関係なはずはなくて原初の時代より人間は走り、歩き、踊り、歌ってきた。生命力は身体に宿り、脳に先立つ。何でも機械が代わりにやってくれて楽だなんて言うのは身体性の危機であって、つまりは生命の危機だと思う。

そんなわけで、一年に一回くらいは身体性(つまり生命力)のバロメーターとして100kmを超える距離を走ろうと思ってる。

走れる限り何歳になっても走り続けたい。
もっと遠くへ。

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