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嫌になるほど自由

選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

安部公房「鞄」
1975.11刊行 『笑う月』収録

幼い頃から小説を読み漁っていたものの、国語の授業やテストにおける「作者の意図は?」という設問の解答に対して、「作者が明言していないのなら、それは問題作成者の主観だろ。」と当時からひねくれていた私が、安部公房を最初に知ったのは高校生の時の現代文教科書だった。「鞄」という小作品であった。

あらすじ

半年以上前の求人広告に今更応募してきた青年。
なぜ今頃?と訊けば、青年は持っていた大きな鞄を示して、
この「鞄の重さ」が行く先を決め、ここにたどり着いたと答える。
問答の末、鞄を事務所へは持ち込まないのを条件に採用。
青年は、大きな鞄が残して、下宿先を探しに出て行った。
その鞄を持ち上げて歩いてみる。その重さから急な坂などは登れず、方向転換して事務所に引き返そうとしても鞄の重さが邪魔をしてたどり着けない。
仕方なく鞄を持って歩ける方向へ進んでいくと、自分が今どこを歩いているのかも分からなくなる。
しかし、「鞄が私を導いて」いると感じて不安も迷いもないので、私は自由だった。

自由

自由。
この言葉には誰しも憧れがあるのではないか。誰にも、何にも囚われず、自分の思うがままに、あるがままにいる。
自由を求める歌は世の中に溢れかえっている。

しかし、裏を返せば、すべてを自分が決定しなければならない、ということ。自らの選択、決定、行いは自らに帰する。
自業自得という言葉がある。らの(行い)をらがる。
自由と自業自得は根本的には同じかもしれない。

この状況は、自分によっぽどの自信がない限り、実はストレスでもある。他者のせいにすることも、「仕方ない」と言うことも許されない。嫌になるほど自由なのである。

選択

言い尽くされた言葉に「人生は選択の連続」というものがある。
生を受けてから、様々な選択をして今がある。友達選び、進学先、就職先、転職、恋愛、固定資産購入、今日外食するか、本を読むか映画を見るか、筋トレ行くか家でのんびりするか…。
それを選択した要因が外的圧力、状況による消極的なものもあれば、自らのその時の考え方によるものもある。
選択を続けた結果、選択肢が増えた人もいれば、減った人もいるだろう。
人生は終わりのないフローチャートのようなものだ。生を受けて死ぬまで選択肢の多寡はあれ、選び続けなければならない。

さて、この物語における「鞄」は我々の行動を定義する象徴だと私は考えている。鞄の「重さ」- 我々が各々抱えている「考え、思い、理想、問題、人間関係、仕事、展望…」によって、行き先(生き先)は決定される。

私は、選択肢は多いほうが良い、と基本的に考えているが、そのぶん選択するストレスも多く発生する。
あとで「ああすればよかった」と考えてしまうのは私だけではないだろう。タイムリープ譚がいつの世でも一定の支持を集めたり、最近でいうと「転生モノ」が流行ったりするのは、多くの人が過去の選択を悔やんだり、もしもこうだったら、と現状から逃避したくなるからだろう。

(ここまで書いて、映画 ”Butterfly Effect”  (アメリカ, 2004)を思い出した。私の好きな映画ベスト5にずっと入っているというのは、私が後悔の多い人生を歩んできたからだろう。)

ビジネスにおける自由

昨年11月に25年来の友人と設立した株式会社Progressでは、マーケットの状況や資金、世の中のトレンドや自分たちの得意分野などを勘案して戦略を練っている。自分たちの好きなように「自由」にできるからこそ、決断には大きなエネルギーを使う。根底は変わらずとも、設立当初の事業から派生したり、方向性を転換したりして、いかにスケールアップさせるかに頭を悩ませる。

そう、嫌になるほど自由なのだ。

選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

しがらみのない、無名のスタートアップだからこそできることはある。
だが、無名ゆえ現時点では夢想でしかないこともある。

Progressという鞄に、夢やら妄想やらプレッシャーやら信念やら邪念やら理想やら戦略やらを詰め込んで、なんとか前進していきたい。
詰めたモノの重量によって、我々は自ずと導かれる。願わくはその行き先が我々が目指すものと同じであってほしい。



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