見出し画像

夢のはなし

今日、令和2年7月1日は、長期間にわたり営業を自粛されていた「東京ディズニーリゾート」が営業再開をされた日でもある。
新和座の松井も東京ディズニーランドに行ったと聞いている。
率直に言って・・・羨ましい。

最近スティッチ好きになったぼくとしても非常に行きたいのだが…
いつか諸々の条件が整った時に行こうと思っている。

ディズニーリゾートは人をワクワクさせる。愉快にさせる。
こんなオッサンが行ってもワクワクするし、「夢」が見られる。
乗り物やキャラクターもそうかもしれないが…建物、雰囲気、仕組み自体が何故かこう…愉快な気持ちになるのだ。
リゾートに行って不愉快になったことはない。

そんな「夢」の国の営業再開の日に「夢」の話を書いてみようと思う。

▼大人になったら・・・

ぼくは子供の時から…今から思えば20代になる前まで…漠然と「大人になったら夢は叶うもの」と思っていた。
だから、父母も始め、周りの大人は「夢が適っていて、もう夢はない」と決めつけていた。

だから母親が「今のお母さんの夢は・・・」なんて言うと「何言ってんだ?!」と思っていた。

漠然と大人は夢を持たないものだ、と思っていた。

▼大人になって

もちろん、そんな思いはとんでもない。
大人になっても…いやいくつになっても夢は持つものだ。
現に今現在、ぼくにも夢はある。

無論、歳を重ねる毎に…現実味を帯びたり、その夢が目標となっている場合も多いと思う。
単純に子供の頃の「〇〇になりたい」とか「△△がほしい」というような夢ではなくなってくる。
しかし、夢は持つものだ、とぼくは感じている。
夢があるからこそ、それは生きる希望となり、生きる目標にもなっていくのではないか、と感じている。

▼荒唐無稽でも・・・

別に大人だからと言って、「現実的な夢・目標」である必要はないと考えている。
これはぼくが独身で子供もいないから…甘い考えなのかもしれないが…
「夢」を見るのは勝手なのだ。
たとえそれが実現しなくても、現実としてありえなくても…「夢」を見るのは自由なのだ。
実現するものであればそれを実現するために、計画をたてることができるし、現実にあり得ない、起こり得ない夢だとしても…それを考えている時は、人間の心(すくなくてもぼくの心は)は自由になる。

荒唐無稽な夢でも、それは誰も否定できないのではないか。

もちろん、現実に起こり得ないもの、実現が難しいものは…期待が大きくなると…叶わない時に大きく落胆する。
しかしながら…だからといって最初から「夢」を持たないのと「夢」を持つのとでは…生き方の張り合い、行動の仕方が違ってくるのではないだろうか。

▼そんなの無理だ、と・・・

「そんなの無理だ」と言われたことはたくさんある。
実現不可能だ、と言われたこともたくさんある。
その通りだった。

全てが叶っていないのが今現在の状態だ。
しかしながら…少しではあるが叶った事もあるし、完璧ではないが…近づきつつ物もある。

「そんなの無理だ」と言われた時にあきらめていたら、今現在の状態も築けなかったのではないだろうか。

あきらめる、といのは「自分でも無理だ」と思うことだと考えている。
自分で無理だ、と思わなければ…夢は消えたりしないのではないだろうか。

▼完璧でなくても・・・

完璧でなくても…夢に近づくことはできる。
100%でなくても、夢を追い続ける事もできる。
そして、夢が変わっても「夢」自体は持ち続けていく事ができる。

自分で「無理だ」と思ったら…それは夢を変えたり、変化させていく事もできるのではないか。

ぼくが子供の時に思っていたように「大人は夢を叶えていて、もう夢はない」なんていうことはない。

叶うか叶わないかは別にして、夢を持つことは、生きる希望になるし、糧にもなるし・・・人生の目標にもつながるのではないだろうか。
そして、「夢」を持ち、その「夢」に向きあうとき、人はおそらく嫌な感情をもたないのではないだろうか。

▼さもしい根性

ぼくのように元来、根暗な人間は…すぐ嫌な事を考える。
夢に向き合っていない時・・・心がすさみ、さもしい考えになっていったりする…

人が失敗すれば、心配しているフリをする。
人が成功すれば、やっかむ。
人と自分を比較して、人が自分よりも劣っている部分を探す。
人が自分よりも劣っていると自分の中で理屈がついたら、安心する。
そうでなければ、その人間のことを悪く思う。
自分が人よりも出来ていないと思えば、人よりも出来ている部分を見つけ出し、安心する。
人が自分よりも幸せそうだとイライラする。
人が自分よりも幸福そうだと妬む。
いいなぁ、羨ましいなぁ。
なんであの人はうまくいったのだろう。
なんであの人は幸せそうなんだろう。

そりゃ、そうなのだ。
その人はなるべくしてなった、努力をしたからだ。
その人が自分と同じ質や量の努力をしたかどうかじゃない。
その人にあったその人の努力がもたらした結果であり、うまくいって当然なのだ。

そういう人を妬み、嫉み、僻む。なんてさもしいのだろう。なんて意味がないのだろう・・・

こういう時、たいてい、嫌な気持ちになっていて・・・
夢のことなんか忘れている。

▼夢を持ち続けてゆく。

少し話は逸れたが…
こうしたさもしい根性が顔を出す時、だいたいが夢を持っていない、忘れている時なのだ。

妬んだり僻んだりする時間はもったいないのかもしれない。こうした時間は確かに前向きでもなければ、建設的でもない。

ただ、自分の中で完全には消すことができない感情ではある。
ぼくがぼくである本質を取り戻すためには必要な感情であり、時間だろう、と。
ぼくはこうしたことを受け入れていくことで…さらに「夢」っていうのが大切だということに気付いた。

先ほども書いたが・・・夢と向き合っている時は…嫌な感情はでない、もしくは起こりにくいと考えている。

だからこそ、嫌な感情を抱き終えたら…もう一度、「夢」に向かい合う時間を大切にしようと思う。
いくつになっても・・・いつでも・・・夢は持てるのだから。


舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!