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『おはよう』と言えるしあわせ

新型コロナウィルスの猛威が世界に押し寄せてもうすぐ二年になろうとしています。

2019年の年末にはまさかこんな閉塞した世界になるとは思っていませんでしたし、自分自身の仕事・生活・考え方が大きく変わるなんて思ってもみませんでした。

制限が多いこのコロナ禍で非常に苦労すること、嫌な事、『いったいなんなんだよ』ということ……思い通りにならないことが――コロナ禍前にもあったはずですが、何故かより大きく感じるようになったようにも思います。

ただ。
こうした嫌な思いとは逆に。
今までの自分の仕事の方法や考え方に”良い”変化があったのも事実です。

そうしたことの一つに
『おはよう』と言えるしあわせ
に気付いた、ということがあります。

先日、朝起きて。
家族に「おはよう」と言った時に、急に感じたのです。
毎朝、毎朝「おはよう」と言っているけれども……この「おはよう」を言える事はあたりまえのようでいて、あたりまえではないのではないか、と。

色々な人の仕事の成果が融合し、様々な人の生き方が相まって、この「おはよう」が言えるのではないでしょうか。
「おはよう」という事ができること自体がぼく自身も家族も仲間も誰一人欠けることなく存在することはもちろん、身も心も健康でなければいう事が出来ません。

『おはよう』と言える環境、意思、気持ち……そしてその思いに呼応する身体がなければ、『おはよう』と言えませんし、その発信を聞いたり、見たり、感じたりして、返す。

あたりまえに行っていること、いつしか無意識のうちに行動している事ですが……これは素晴らしいことであり、一人一人の生き方、仕事、思いが存在しなければ、朝を迎えることもできませんし、挨拶を交わす事も出来ません。

こうした毎日、毎朝の何気ない挨拶ができるということは非常に幸せなことなのだと、改めて感じたのです。

朝起きて、深呼吸する度に感じる事。
『おはよう』と言える幸せ。
SNSなどに書き込んだりする『おはよう』の言葉もそうだと感じます。

あたりまえに行っている事でも、自分ひとりの力ではなし得ないことなのではないでしょうか。

もちろん。
こうした挨拶は”あたりまえ”に行いたいものです。
しかし、それは”できて当然”ということではなく、色々な人の生き方、仕事、思いの結晶だと改めて気付いたのです。

作物を作ってくれる人、料理をしてくれる人、街の治安を守ってくれる人、医療を支えてくれる人、流通を滞りなくしてくれる人、金融やサービスを提供してくれる人……
ここには書ききれないほどの職業と思いが融合するからこそ、ぼくは朝、目を覚ます事ができるのだなぁ、と感じました。

そして、ぼくの周りにいる仲間、家族。友人、SNSで繋がってくださっている皆さんの意思と思いが交錯するからこそ、「おはよう」が交わされ、次の日にも繋がっていくのだなと強く感じています。

”できて当然”ということではなく、こうしたことを胸にしっかりと抱き、あたりまえに『おはよう』と言えるように。
ぼく自身もしっかりと思いを重ね、努力していきます。

『おはよう』と言えるしあわせ。
皆さん、いつもありがとうございます!


舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!