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ことばの日に。

今日、5月18日は語呂合わせから『ことばの日』だそうです。
そんな日の今日、改めて言葉について考えてみました。

▼言葉と共に生きる

ぼくは以前、『言葉と共に生きる。』という記事を書きました。
基本的には、この考え、

言霊を信じ、言葉の源泉は自分の心・頭の中ということを更に意識し、言葉と共に生きていく。
言葉に影響され、言葉に影響を及ぼし、ぼくも言葉も成長していく事が大切なんだと改めて感じました。
言葉を支配せず、支配されず、共に生きていくことで自分の心も磨かれていく事を信じています。

という思いは変わっていません。

今日、言葉の持つ力について改めて感じ考える出来事がありました。

▼勇気の出るメール

ぼくは生まれてから今まで色々な人の言葉に励まされ、勇気づけられました。と同時に色々な人の言葉に傷ついてもきました。

さらには色々な人の言葉に考えさせられることも気付かされることもありました。

今日。
とっても久しぶりに勇気づけられるメールをもらいました。
教え子からのメールからとっても勇気をもらい、さらに今ぼくが悩んでいる事についてある種の答えが出た
ように感じています。

そのメールを読んでいた時は単純に『嬉しいな』『勇気が出るな』と思っていたのですが、読み終え、返信し、さらにもう一度読んだ時に
「言葉にはやっぱり色々な力がある」
と強く感じました。

▼しゃべり言葉と書き言葉

しゃべり言葉と書き言葉があります。

しゃべった言葉は耳から、書いた言葉は目から基本的に入ります。
しゃべった言葉は残りませんし、書いた言葉は残ります。

しかし。
今この現代において、こうした分け方、違いがあやふやになってきていると感じています。

それはしゃべった言葉でも、映像や音声の録音技術で残りますし、映像で言えば、”テロップ”や”字幕”で目からも入ります。
書いた言葉でもTwitterのように短文投稿であれば、しゃべり言葉のような印象を受ける事もあります。

ですので、ぼくが子供時代と比べて、今、この言葉がもつ力というのは更に大きくなっているように感じていますし、これから更に大きくなっていくのではないでしょうか。

▼議事録で・・・

昔、システムエンジニアをしていた時に議事録の書き方についてとっても違和感を持ったのを覚えてます。
今となっては、その書き方も一つの考え方であり、新人エンジニアだったぼくの訓練の為であったと思えば良い方法なんだとは感じています。

そのやり方とは会議の時系列通りに、一言一句、出席者の言葉をその通りに書いていく、という方式でした。

もちろん、議事録というのもはそういうものだから、というのもわかりますし、喋った言葉を文字として書き残すことで、保存性も高まりますし、参加していない人への資料的役割になるのもわかります。

ただ、何年かして色々な現場を体験したのち、とある現場で同じプロジェクトの他社センパイがこういう事を言いました。
「議事録で言質をとって、エビデンスにする」
というのです。
ぼくはこの言葉に今でもとっても違和感があります。

言質をとる、エビデンスにする、という考え方自体が恐ろしいなぁと思うのです。
無論、例えばお客様との打ち合わせとかプロジェクト内の打合せで責任の所在をはっきりさせるために『言質』をとったり、『エビデンス』にするという考え方もあるとは思います。

しかし、こういう事が常態化してしまうと、自らの考えの変更も自分以外の考えの変更も柔軟にできなくなり、また、『責任』の所在ばかりが明確になってしまう議事録が存在する事を恐れてしまい、自由闊達な議論ができなくなるのでは、という恐怖があるのです。

▼好き勝手言って良いわけじゃない

だからといって、打合せや会議をはじめ、話す言葉で好き勝手な事を言って良いと考えているわけではありません。
もちろん、人を傷つける言葉は以ての外ですし、責任感のない空虚な言葉は要らないとも考えます。

しかし、『言質』や『エビデンス』を恐れるばかりに考えを表明しないということは自らの考えを封じ込めてしまうとっても恐ろしい事だと考えています。

また別のセンパイはこう言いました。
「武藤くんの言葉は軽いからなぁ。ごまかしも多いし。」
と。確かにごまかしも多いと思いますし、言葉が軽い時もあると思います。
しかし、それは誰にでもあると今のぼくは考えています。
それは相手によって、多かれ少なかれ、喋り方も内容も変わってくるからではないでしょうか。

もちろん、誰に対しても態度を変える事なく、常に真実を言い、信頼される言葉を言うのは理想です。
しかし、それが完璧にできる人をぼくは未だに知りません。

ぼく自身の言い訳ですが、余計に怒られたくないからごまかしもしますし、『できない』と言えば『できます』と言われるまで説得が続くわけですから、そうもなってしまうのではないかと今でも思っています。

少し脱線してしまいましたが…しゃべり言葉でも書き言葉でも、できれば、常に自分の思っている、考えている素直な言葉を発するのが理想ですが、状況や環境でそうできないことがあるのも事実です。

▼言葉そのものの力

こうしたことから、言葉は良い方向にも悪い方向にも影響を与えるものだなと考えています。
それはしゃべり言葉でも書き言葉でも同じであります。

ではなぜ、言葉はこんなに力を持っているのでしょうか。
ぼくの少ない髪の毛と小さな脳のこの頭で考えますと…
それは『気持ちを表に表す最大のコミュニケーションツール』だからだと考えています。

人同士でも他の動物とも・・・自分が考えている事と相手が考えている事の交換は完璧にはできません。それは脳(や心)で考えた事、思った事が自動的に相手に伝わるわけではないからです。
そこで人間は言葉を使い、コミュニケーションしているのだと考えています。
言葉の他にも態度や表情、視線などもありますが、一番伝わりやすく確実なのが同じ言語を使う事だとぼくは考えています。

ですので、誰が喋っても誰が書いても…
その言葉はその人が発したものであり、それを受けた人は当然『その人が考え、思い描いたもの』として認識するでしょうし、
ある時は責任を生じるでしょうし、
またある時は人を勇気づけ、またある時は人を元気づけ、時には人を傷つけることもあるのではないでしょうか。

▼力の正しい行使と受け止める力

こう考えますと、ぼくらは『力』を持ち、常に『力』を使っているのだと感じています。
だからぼく如きの文章やしゃべっている言葉でも、読んだり聞いてくださる方々が感動したり、賛同してくれたり、勇気づけられたり…時には反感を買う事もあるのかと思います。

どんな力もそうですが…ある一定の力には相反する力が存在します。
だから同じ言葉を使ったとしても、良い方向に作用する事もあれば悪い方向に作用する事もあります。

また力には使い方もあると考えています。
同じ”文字”を使ったとしても、その使う場面、使い方、使う人によってやはり結果は変わってくるのではないでしょうか。

さらに、言葉は・・・しゃべるのであれば視線、表情、身体の動きなどを合わせて力を持つと思いますし、書くのであれば、色々な書き方(例えば手書きとか、パソコンで打つとか・・・)を融合する事で結果は大きく変わってくると思います。

これらの力の源泉ははやり『人の心』だと思っています。
相手を屈服させてやろう、相手を困らせてやろうという思いであればどんなに丁寧な言葉を使ってもやはり、悪い結果が伴うと思っていますし、たとえたどたどしい言葉だとしても相手を思いやっての言葉であれば、それは大きく人の心を潤すものになるのではないでしょうか。

と同時に・・・先ほども申しましたように、今はしゃべり言葉と書き言葉が明確に分かれていない部分もあると思っています。
ですので、誰かが「喋った」つもりで書いた言葉が他者に大きな影響を与える事もありますし、過去に喋った言葉が残っている場合もあります。

ただ、ぼくはこうしたことが悪い事だとは思っていません。
しかしながら、受け取り方はより柔軟に行って行かなければならないのではないかと思っています。
先ほどの議事録の例もそうですが…喋ったことを文字にしたり残っているから『言質』にするということであれば、己自ら喋ったこと、書いた事は未来永劫、取り消せない更新できないという恐ろしい世界になってきてしまうと思いますし、そういう縛られたような雰囲気が続けば、人間自体の進化の幅が狭くなってしまうとぼくは考えています。

人の考えは常に変化しています。
人の思いも常に変化しています。
色々なモノに影響を受け、影響を及ぼしながら進化していくのだと思っています。
だからこそ、言っている内容も変わってくる場合があると思っています。

自分に起こり得る変化も他者の変化も認め関係性を築いていく事で言葉はもっと素晴らしい進化を遂げるのではないか、と考えています。

不肖武藤。未だにできてはおりませぬが…
少しでも皆さんの心に良い変化をもたらす言葉をしゃべり、書いていく為に研鑽してまいります。

ことばの日にもらった勇気づけられたメールを読み、ぼくはまた一つ進化したと感じています。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!