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シッパイ ヲ ミトメナイ

ぼくは今までの人生の中で多くの失敗をしてきました。
仕事、恋愛、健康、人間関係・・・様々な失敗をしてきました。

今でも思い出すと悔しい気持ちや顔が真っ赤になるほどの恥ずかしい気持ちになります。

そして、この失敗があるからこそ、家族と共にいて、仲間ができ、自分自身が成り立っていると感じています。

▼数多くの失敗

ぼくは俳優として初舞台の時に、自分の出番をミスしました。
これは慢心というか、バカというか…水曜日だったので、マガジンを読んでいて、自分の出番をすっぽかしました。
もちろんとんでもなく怒られました。

システムの仕事でも「自分はできるぜ」と考え違いをしていたので、大ミスから小ミスまで様々してきました。だらだら考えていて、納期を守れないこともありました。

恋愛でも同様です。
ぼくの(今となってはどうでもいい、ありえない)考え方を押し付けたりした結果、フラれ続けてきました。

以前にも書きました通り、人間関係においても自分の慢心から仲間が離れていく事もありました。

また、今でも・・・失敗を繰り返しています。
同じような失敗も何度も繰り返します。反省をしていないわけではありません。ただ、やはり、失敗をしてしまう時があるのです。

▼失敗の種類

今までを振り返りますと・・・自分の失敗でも種類があるなぁと思っています。
上記の失敗は自分の慢心というか、気の緩みが原因の失敗だと思っています。この失敗はできればない方がいいですし、原因が「自分の心構え」ということであればとっても恥ずかしい事です。

しかしながら、失敗は失敗でも「一生懸命やった失敗」はけして悪いことだとは思っていません。
むしろ、「一生懸命やったからこその失敗」は次に繋がります。

なぜ、次に繋がるのか。
これは「慢心、心構えからくる失敗」でもそうなのですが‥‥
「失敗」という結果が出たことによって、自分の行動や心構えのどこに原因があったか知ることが出来ます。
ましてや、一生懸命やったのであれば、「方法」がその時に合わなかっただけで原因をしっかりと知ることが出来ます。
ですので、物事を続けていく限り「失敗」は次につながるものだ、と考えています。

そして、今、ぼくはこの失敗ということに少し違う考えを持つようになりました。

▼失敗を認めない

いろんな書物やネットなどで「失敗を認める」ということが書いてあります。以前のぼくも、「成功も失敗も認める」からこそ次につながる、という考えを持っていました。

しかし、このコロナ禍において少し考えが変わってきました。

失敗は認めなくても良い、と。
自分の中で失敗を認める必要はないんじゃないかと思っています。
受け入れるわけでもありません。
成功はもちろん認めることもありますが、失敗に対しては認めようが認めまいがどっちでも良い、と考えるようになりました。

これは、このコロナ禍で「続けることの難しさ」を痛切に感じているからかもしれません。
新型コロナウィルスという見えない敵は、様々な業種、ほぼすべての業種について影響を与えました。
何事も「続けていく事が難しい」状態になってきたと感じています。

成功や失敗というのは結果であります。
つまり、何かを成し遂げたからこその結果であるわけです。
結果が出るまでやり通すことは非常に難しいです。
ですから、成功であれ失敗であれ、やれることが第一に大切だ、と考えるようになりました。

だからこそ、「やり遂げた」からこその結果であり、成功も失敗も「結果」に過ぎず、それを認める・認めないという感覚自体おかしかったと感じるようになったのです。

▼やっている途中での失敗した感覚

先に述べたぼくの失敗談(もっともっとありますが)もそうですが、結果としての失敗であります。

生活をしていく中で、「あ、これ、ミスったかも」ということは良くありますし、「あーあ、失敗だ」と思う事がままあります。
しかしながら、これは失敗なのか、という事もこのコロナ禍で少し疑問になってきています。

仕事や何か事柄をしていく上で、「あ、間違えた」ということも感じますし、「失敗したなぁ」と思う事はあります。
だからといって、ここで止めてしまっては結果は出ません。
途中で止めてしまっては、成功も失敗もないのです。

物事の途中で感じる「失敗したぁ」という感覚。
これはぼくの中で最大の敵であります。
これを感じると・・・物事を投げ出したくなるからです。
もちろん、何度も投げ出したこともありますし、逃げ出した事もあります。
それら自体は自分の心身の状態で判断することであり、逃げても投げ出しても良いと思っています。
途中で区切るわけですから、自分で「ここまで」と決めれば結果は出てきます。
そこで「成功した部分」「失敗した部分」は両方あるはずです。

ただ、ぼくが感じる「途中での失敗感」はどこか「間違えちゃいけない」とか「失敗はかっこ悪い」という思いが自分の心を支配することが多く、それは「せっかくの機会」を逃してしまうのではないかと今は考えています。

▼優劣なんて人に決めてもらうもんじゃない

ぼくは「失敗」は劣っているとは考えていません。
しかし、生きてきた中で「かっこつけたい」「人に良く思われたい」「モテたい」というしょうもない感情が優先して、
「失敗はかっこわるい」
「失敗すると劣っているようにみられる」
「失敗するとモテない」
といつのまにかこうした思い込みに陥ることがあります。

ぼくが専門学校で先生をしている時代、とある生徒が後輩の生徒に「君は〇〇より劣っているね」と言っていたことがあります。
その現場に居たわけではなく、後日、その後輩の生徒に相談を受けたから覚えているのですが・・・
劣っているか、優れているかなんて評価を人が決めるもんじゃないとぼくは今でも考えています。

もちろん、世の中には色々な評価があります。
テストの点数、年収、地位、評判などなど・・・お芝居の世界で言ったら「うまいかへたか」なんていうのもその一つかもしれません。

しかし、このような評価が良かったとしてもぼくはあまり嬉しくありません。

テストの点数は勉強した証。
年収は仕事を頑張った証。
地位は人柄や仕事の進め方もあるでしょうし、
評判は自分の考え方が反映されるだけでしょうし。
お芝居のうまいかへたか、なんていうのは基準がないところで語っても「好み」の問題ではないでしょうか。

人は褒められたり、良い評価されたりすると嬉しいものです。
ぼくもそうです。
その逆の評価をされれば・・・嫌な気持ちになる場合もあります。

ただ。
人からされる評価はあんまり当てにならないと考えています。
もちろん、デジタル的に基準があり、相応の理由があれば納得できるところがあると思います。そうした評価は常に大切です。
しかし、単に「良い・悪い」だけであれば、その評価者の判断基準であり、答えのないモノであればなおさらです。

ですので、人の優劣の評価というのは―――出来事や結果について真剣に考えた末、理由やデータ、基準などがない限り―――その評価者次第なわけです。

▼劣っているから失敗する

以前のぼくは「劣っているから失敗する」と考えていました。
しかし、先に述べた通り、「人からされる評価の優劣」は当てにならないことが多いです。

そして、「劣っているから失敗する」のでもなければ、「失敗するから劣っている」わけでもありません。

やり遂げたから、失敗という結果が出てくることがあるのです。
そして・・・物事をやり遂げた後に、100%の成功もあり得ません。ぼくは100%完璧に一つの失敗もなくできたものを見たことはありません。

物事というのは、何度も何度も繰り返して、失敗しても、繰り返してそして、方法や考え方を変えていき、そうした知恵や工夫、努力がつまったものだと考えています。

もちろん、人は失敗が怖いですし、できれば失敗したくないと考えるものだと思います。
ぼくも今でもそういう感覚があります。できれば失敗したくありません。
しかし。
失敗しないようにしたところで、100%完璧ということはありませんし、失敗をしないと、「やり直し」の工夫や知恵、努力というものが得られないと考えています。

もう一回、書きます。
失敗するのは劣っているからでも、劣っているから失敗するわけでもありません。
他人の基準で失敗を決めつけられることでもありません。
失敗して得るものは取り組んだ証であり、失敗しないと得られないものがたくさんあるとぼくは考えています。

このnote記事を書いて、ぼく自身、失敗を恐れないようにしていきます。
やり遂げるために。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!