フィクションと現実と
ここ何日か。
ぼくは『フィクションと現実は違う』ということを何度も考えました。
それはニュースでとても信じられない事が報じられているからです。
▼奴隷契約書?
ぼくはこのニュースを見た時に耳を疑いました。
奴隷契約書?
そんなものを13歳の少女に署名捺印させるという意味のわからない行為をしたそうです。
ニュースを見ると、それだけでなく金銭を渡して淫らな行為もしたとか・・・。
この男は一体何がしたかったのだろうか、ぼくは思いました。
先日、どこかの議員が「14歳と50代が同意の上で性交して捕まるのはおかしい」という、これまた意味のわからない事を言っていたようですが…
彼に言わせれば、この契約が(書面上は)成立しているから、この逮捕はおかしい、とでも言うのでしょうか。
この議員の考えについて言いたいことはありますが、それはまた別の機会にするとして、この事件。
本当にこの男は何が目的で『奴隷契約書』なるものを少女に署名させたのか・・・わかりません。
▼動画を撮りたい?
それにこの事件についてもぼくは耳を疑いました。
この男も、
「インターネットで人を殺す動画やグロテスクな動画を見て刺激を受けた」
という供述をしていたそうで(今は黙秘しているようですが・・・)動画を撮りたかった、と・・・。
一体何を考えているのか・・・ぼくにはまったくわかりません。
▼フィクションはフィクション
ぼくは事件の当事者でも男どもの関係者でもないので、おいそれと軽々しいことは言えませんが…それでも、この二つの事件を見聞きしますと、この男達は、フィクションと現実の区別がついていないのではないか、と感じています。
今、世の中はものすごい技術が進歩して、映像でも音楽でもゲームでも…実際に触れているかのように体験できるものが数々あります。
また、小説でもドラマでも映画でも演劇でも…さも本物のように表現されているものがあります。
テレビでもドキュメンタリー風のものもたくさんあります。
こうしたものはあくまでフィクション、作り物であるわけです。
しかし、この男どもはこれを現実世界に持ち込んだわけです。
性癖と言われればそれまでかもしれませんが…無断でフィクションを現実に持ち込んではいけないと思いますし、逆に現実をフィクションに持ち込んではやはりいけないと考えています。
しかしながら。
現実を元にしたフィクション作品は多々あります。
また、フィクションの世界を”了解”した上で現実に持ち込むこともたくさんあります。
▼混合されること
たとえば、件の『奴隷契約書』なるもの。
男女の間でお互いに了解の上で”プレイ”としては存在するとは思います。
しかし、それは”プレイ”から離れれば無効でありましょうし、お互いの関係性、この”契約書”とは別の信頼関係があるからこそ成り立つ”プレイ”であるのではないでしょうか。
また、実話を元にしたフィクションというのも数多存在します。
どこまでが本当でどこまでが創作かはわかりませんが…そういう小説や映画、演劇などなど多数あります。
こうしてフィクションと現実が混合されることはたくさんあります。
でも。
あくまでフィクションはフィクションであると、認識することが大切なのだと考えています。
▼まずい混合
まずい混合も存在します。
それはこれらの事件もそうですが…
例えば・・・さも実話のように書かれた”フィクション”なんていうのもあると思います。
これは上記の『実話を元に』しているようでまったくの出鱈目、さも、あったことのようにされているものです。
言い換えれば”フィクション”として生み出されたのに、いつのまにか『実話』になってしまったものです。
個別にどれだ、とは言いませんが…そういう新聞記事などもあるのではないでしょうか。
また、去年でしたか。
女子プロレスラーの方が亡くなった事件がありました。
あの時もテレビの『ドキュメンタリー風バラエティー番組』をさも現実のように受け取った人間が誹謗中傷を彼女に行った事が原因の一つだとされています。
こうしたまずい混合は作るほうも受け取る方も絶対にしてはいけないことだと考えています。
▼リアリティ
ぼくは演劇人の端くれとして色々な物語、舞台を創ってきました。
しかし、それはあくまでフィクションとして創ってきました。ですから自分の仕事として、『作り物』ではあるけれども、見て頂くお客様の心を動かすことが出来たら、という思いで創ってきましたし、これからも創っていきます。
よくお芝居をしている中で『リアリティ』という言葉が出てきます。
『リアリティがないとお客様の心は動かない』
と良く言われます。ぼく自身もそう感じることは多いです。
しかし、『リアリティ』はあくまで『リアリティ』であり、必ずしも本物にする必要はないと考えています。
もちろん、小道具や衣装が時代背景に沿った本物であればイメージもわくでしょうし、演者やスタッフはやりやすいですし、お客様もご覧いただく上で物語の世界に入っていただけると感じます。
と同時に。
例えば―――殺人を舞台上で行うことはできませんし、麻薬などを使用するト書きがあったとしても、もちろん使う事なんてできません。
『リアリティ』というのは“作り物“の中でどれだけ本物に近づけるか、ということだとぼくは考えています。
あくまでも、『リアリティ』はフィクションであって現実ではありません。
演劇で申すのであれば、演者の演技力、スタッフの技術力・演出力によってどれだけお客様を物語の世界に入っていただけるかを考え、実行する事の一つが『リアリティ』だと考えています。
▼フィクションは現実とは違う
少し話が本題と逸れましたが、世の中にあるフィクション作品。
小説、漫画、アニメ、映画、ドラマ、演劇、音楽、絵画などなど・・・
それらはとても素晴らしいものだと考えています。
しかし、やはり、それはフィクション作品であって、現実は違うとぼくは考えています。
先ほども申しましたが、今、世界は技術が進歩して、色々な媒体でエンターテインメントを楽しむ事が出来、情報を得る事が出来ます。
自分の趣味や趣向、性癖まで満たす事が出来ます。
こうした技術が上がってきている今だからこそ、ぼくらは『フィクション』と『現実』はきちんと切り分けて考える必要があるのではないでしょうか。
こうした事件の男どもに限らず・・・日々目にするニュースや情報についても。ネットでやっているから本当のことばかりでないし、テレビでやっていることがすべて現実なわけじゃないと感じています。
”フィクション”と”現実”が混合しやすい時代であり、今はコロナ禍で人と直接会う事が厳しい今だからこそ・・・こうした区切りが不鮮明になってしまうのではないかとも感じています。
世の中の技術はものすごく進歩しています。
それは否定するべきことではありませんし、さらに色々な技術が現れ、色々な作品が出てくると思っています。
しかし、技術がどんなに進歩しても、”フィクション”、作ったものと”現実”はまったく違うものであり、明確にわけることがこれからもっと大切になっていくのだとぼくは考えています。
▼愚見
アダルトビデオというものがあります。
男性諸氏は少なからずお世話になる事もあると思います。
このアダルトビデオ・・・もちろんフィクションです。現実っぽくつくっていても、フィクションです。
アダルトビデオを見るにしても。
童貞の子が見るAVに対する感じ方、想像と、
セックスしたことがある人が見るAVに対する感じ方やイメージと、
子の親になった人がみるAV対する思いは違うと思っています。
例は極端ですが…
あくまでも作り物は作り物で、本物を知っていないと、フィクションと現実の区別がつかないのではないか、と考えています。
だからといって、本物の行為のうち、犯罪行為をして『本物』を知ろうということは愚の骨頂です。
そうしたことが現実で不可能だから、フィクションが存在すると考えています。
▼愚見その2
ぼくはこうした”フィクション”と”現実”をわける感(勘)みたいなものを鍛えるのは、『生』のものを見たり、聞いたりすることが大事だ、と考えています。
ぼくが舞台人の端くれだから、という気持ちも少しはありますが…
それでも、画面などを通じない、『生』のものに触れることはとても大切だと思っています。
動物園、植物園、水族館、遊園地、落語、バレエ、お能、コンサート、美術館、博物館、演劇・・・
その場に行き、空気を感じ、(たとえレプリカであったとしても)立体を見て、音を耳で聞く。
こうしたことで、”フィクション”と”現実”を切り分ける感(勘)のようなものが育つと思いますし、これらに触れる事で…
映画やテレビ、ドラマ、ゲーム、小説、漫画などなどのエンターテインメントをさらに楽しむ事ができるのではないか、と考えています。
そうはいっても・・・一番はこのコロナ禍を抜け、人と人とのつながり、ふれあいが制限なくできることだと感じています。
ぼくも演劇人の一人として、『生』の感動をお客様に感じていただけるように努力して参ります。
舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!