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春眠暁を覚えず

春眠暁を覚えず。孟浩然の"春暁"の一節だ。
中学の国語の授業ではじめて目にした漢文。先生の解説を聞いて「春の眠気、わかるなぁ」とクラス一同うなづいたのをよく覚えている。
漢字が規則正しく並ぶ字面の美しさ、レ点や返り点を使ってまるでパズルのように読み解いていく面白さにすっかり夢中になった。

そのあと教科書は "春望(杜甫)" "黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る(李白)" と続く。
"春暁"では春の眠たいあたたかさを、"春望"では煙った霧の向こうに傘を被り船を漕ぐ人影を、"黄鶴楼ー"では春の穏やかによってより際立つ身の切なさをそれぞれ鮮明に思い描くことができて、同じ国の同じ春を同じルールに則ってうたっていてもここまで変わってくるのかと感動した。そして改めてよく見れば、"黄鶴楼ー"に出てくる孟浩然は、はじめに出会ったあの"春望"の作者!なんてきれいな伏線回収!
漢文の項は、国語の教科書という1冊の短編集の中ですっかりお気に入りの一編となった。

こんなにも感動を与えてくれた漢文だけど、わたしは今現在、恥ずかしながら教科書で扱った詩しか知らないままでいる。
授業後の盛り上がった気持ちで岩波文庫の杜甫詩篇を買ってはみたものの、やっぱり自分で読むとなると難しいし内容がよくわからないものもあって、本棚にしまいこんでしまった。

わたしの人生で漢文を扱ったのは今のところ国語や古文の授業でだけで、日々の生活にはちっとも役に立ってない。でもわたしはあの時の感動とワクワクは今でも大事にしているし、出会わせてくれた学校と国語の教科書にとても感謝している。だってそうでもなきゃ絶対に自分からは触れずに過ごしていたに決まっているもの。

学校という場所のありがたさって、そういうところだよなと、離れてみて思う。
人によって学校の思い出や関わり方はそれぞれだろうけれど、少なくともわたしは学校を"勉強する場所"だとは思っていない。
学校とは、知らないこと、興味のないこと、意味のないことが無条件に、無差別に降りかかってくる出会いの場だ。
人生にまるで役に立たない漢文はそれでも美しい記憶として残ったし、理不尽な決まりや泣きたくなる人間関係のいざこざも、いつかはこの時のためと思える日が来るんだろう。そんな日が来なかったとしても、その時はじめて「無駄なことだった」ってわかるからそれはそれでとても楽しみだな。

子どもたちが知らないこと、興味のないこと、意味のないことに文句を言いながら、ふと気づいたらなにか特別なものを見つけている。そういう時間と場所を守れる大人でありたいと思う。それは春の夢のような曖昧さかもしれないけれど、もう子どもじゃないわたしの切なる願いだ。

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