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書評・古代学協会(編)『角田文衞の古代学(3) ヨーロッパ古代史の再構成』

 2021年の上半期は、岸本廣大『古代ギリシアの連邦』、南川高志・井上文則(編)『生き方と感情の歴史学』、中井義明・堀井優(編)『記憶と慣行の西洋古代史』、堀賀貴(編)『古代ローマ人の危機管理』といった研究書や論文集が続々と刊行されました。日本語で書かれた西洋古代史関連書籍が例年以上に豊富に世に出ているように思われます。
 こうした中、5月末に吉川弘文館より『角田文衞の古代学(3) ヨーロッパ古代史の再構成』という図書が刊行されました。これは、今は亡き古代史の大家である角田文衞が様々な図書・学術雑誌上で発表した文章を纏めた、いわゆる著作集形式の本です。内容としては、時代的には旧石器時代からビザンツ時代まで、地域的には東ヨーロッパ平原からスカンディナヴィア半島やイベリア半島までを見据えた、ヨーロッパ世界全体の概説的な論考と専門的な論文を数本含むものです。広範囲の時間や空間を扱っているという長所はありますが、ほとんどの論考が半世紀〜三四半世紀前のもので、内容は全体的に古く、多くの誤りもあります。ですが、そういった欠点があることを承知した上で、角田文衞という人の個人史・人物研究なり、史学史の視点からも検討できそうな本のようにも思います。
 本稿はこの本の紹介と書評です。……なのですけれども、上述した通り、本書の扱う時代・地域の幅はきわめて広いものです。本書を論じるとなると、人類学・考古学・古代史・中世史に渡る広い視野を持ち、総合的な思考ができる人物やグループが必要でしょう。かくいう私にその実力も資格もありません。ただそれでも最初から最後まで読み通したので、その備忘と、今後行われるであろう議論のたたき台になれば幸いと思い、筆をとった次第です。

1. 著者、角田文衞の紹介

 角田文衞(つのだ・ぶんえい)と聞いて「おやっ」と思った方は、日本古代史に関わる図書を読んでいる人や、そうした分野が学べる大学や講座などに籍を置いている人に多いように思います。彼の著作には講談社学術文庫入りしている『平安の春』や『平家後抄』、『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)や『佐伯今毛人』(人物叢書)といった本があり、古本屋などには時折“著者・角田文衞”の本が並びますし、大型書店ならば彼の本を新刊で置いている店舗もあります。または、読者の皆さんがお住まいの地域の県立図書館のOPACに彼の名前を入れて検索をしてみてください。角田文衞という人が、実に多くの本の著者であること、例えば『平安時代史事典』の監修者であることや、紫式部や平安時代に関わる著書をいくつも書いていることをご理解いただけるはずです。
 その一方で、1950年代に山川出版社から刊行された『北欧史』、『東欧史』の著者の一人に角田がいるほか、角川書店の『古代王権の誕生』シリーズのような、外国史に関わる本の分担執筆者や監修者に角田の名前があるのを認めた人もいるはずです。あまりにも研究領域が違うせいか「多分、同姓同名の角田さんだろう」と考えた人もいるのではないでしょうか。……大学時代の私もその一人でした。
 と、このように書けばお察しいただけたことでしょう。平安時代に関わる本を書いた角田文衞も、西洋史に関わる本を書いた角田文衞も同一人物です。彼は、日本史/東洋史/西洋史といった枠組みにとらわれることなく、既存の学問領域を越えた形での古代世界研究に生涯を捧げました。
 角田文衞の生涯について年代順に整理しておきましょう。角田は1913年に福島県に生まれ、東京の成城高校を卒業し、京都帝国大学に進学。大学では濱田耕作の指導のもと、考古学を学びました。1939年から1942年の間はイタリアに留学し、古代の遺跡・遺物を直に研究する機会を得ます。帰国後の1944年に召集を受けて出征することとなり、シベリアでの抑留を経験します。1948年に復員したのちは大阪市立大学で教鞭を執りつつ、1951年に“古代学協会”を設立します。この古代学協会ですが、学術雑誌の『古代文化』の発行元でもあります。そういえばその雑誌を見たことがあるぞ、読んだことがあるぞ、と思われた史学科生・史学科卒の人は、ある程度いらっしゃるのではないでしょうか。その後、1968年には平安博物館(現・京都文化博物館別館)の設立に尽力し、以降も、2008年に95歳で亡くなるまで国内外での発掘調査や、学術講演、執筆活動に勤しみました。
 このように、角田は旺盛な行動力と探究心、また広い視野や見識を持った人でした。文献史料と考古資料の両側面から古代の日本・地中海・ヨーロッパ・オリエント・中央ユーラシア地域などの研究を行い、80冊近くの単著・編著、800点にも及ぶ論文・評論・随筆を残しました。さらに、博物館や研究機関の設立、遺跡の発掘調査や古典籍の調査、後進研究者の育成にも心血を注いだのです ⁽¹ 。

2. 本の内容紹介

 内容紹介の前に、本書を含むシリーズと著作全体の位置づけについて触れておきましょう。
 本書ですが、「角田文衞の古代学」という全4巻本のうちの一冊です。シリーズ内の他の本としては、第1・2巻が平安時代史、第4巻が自伝に当てられています。
 CiNiiなどで調べたり、古代学協会のWebページやWikipediaの角田文衞の項目を閲覧された方、あるいは角田の業績に詳しい方ならご存知のことと思いますが、本シリーズに先立ち、1984年から1986年にかけて法蔵館から「角田文衞著作集」という全7巻本が出版されました。どうやら、この「角田文衞の古代学」シリーズはかつての「著者集」の続編的な位置付けにあるようです。
 ただ、前シリーズの「著作集」では、外国史に関わる巻は1巻だけに留まり、角田の世界史像をきちんと汲み取ったとは言い難い部分がありました。その一方で、角田は外国史に関わる自身の既発論考を纏めた『ヨーロッパ古代史論考』、『古代学の展開』といった研究書を公にしていますが、それでもこれらの著作に収められず、割愛された重要な論文・論考も数多くあります。本書『ヨーロッパ古代史の再構成』は角田の外国史関連の論考を再録し、「改めてその真価を学界に問」おうとしたものです。

 それでは、本書の内容・構成について紹介しましょう。
 この本『ヨーロッパ古代史の再構成』ですが、角田の膨大な論文の中から特にヨーロッパの古代史に関わる16篇を選び、四部構成(1. 旧石器〜青銅器時代、2. 古拙期ギリシア〜ローマ時代、3. 西北ヨーロッパの古代〜中世世界、4. 古代史と中世史の区切りを巡る議論)に再配置しています。
 まず、序章として「ヨーロッパ古代史の構想」が置かれます。巻末解題によると、この論考は未発表原稿のようで、角田は1970年ごろに『ヨーロッパ古代史』という単著を計画しており、その序文のみが執筆されたまま陽の目を見ずにいました。角田はどうやら「西洋歴史よりオリエント史を取り除き、純粋にヨーロッパ文化の歴史的経過を理解」すべく、旧石器時代からヘラクレイオス帝の即位までの歴史を「発展として把えようとして」いたようです。また「古代の没落によって中世が成立する」のではなく、「古代の上昇によって中世が成立すると考える」と自己の歴史認識を開陳しています。本書はある意味、この幻と終わった『ヨーロッパ古代史』を、角田の諸論考から「再構成」した試みなのでしょう。
 第1部は《始原時代・古拙時代のヨーロッパ》という題目で、事典の項目や一般向けの図書、学術論文から4本の論考を選び、時代順に配列しています。「始原時代のヨーロッパ」(19〜36頁)は、旧石器〜中石器時代のヨーロッパ各地における石器・骨角器などを手がかりにした概説。「ヨーロッパ初期植物生産者の文化」(37〜50頁)は、新石器時代の遺物やヨーロッパ全域の文化を纏めたもので、ギンブタスのクルガン仮説に強くインスパイアされたのだろうと思われます。「ヨーロッパ文明の定礎」(51〜87頁)では、ヨーロッパの青銅器文化について、中部・北部・西部・南部の4つに大別して、各地域の主要な遺跡・遺物を説明しています。「ヴァフィオの墳丘墓とその遺宝」(88〜121頁)は、現・スパルティ市郊外にあるヴァフェイオの墳丘墓に関わる先行研究、墳丘墓の構造、出土遺物を概観し、その被葬者について推測したもの。2008年に発表された、角田の生涯最後の学術論文です。
 次に第2部は《古典時代のヨーロッパ》と題されており、主に一般向け・学生向けの図書や博物館の図録から5篇が選ばれています。「ヨーロッパ古典時代の展開」(125〜161頁)は、アテナイ以外、ローマの主要部分以外にも目を配り、中心部を設定しない形でギリシア・ローマ史を叙述したものです。年代的にはミュケナイ期のギリシアから始め、フランク王国の成立やユスティニアヌス朝の終わりまでを扱うもので、先行する歴史叙述に対する強い対抗意識を感じます。「ヨーロッパ古典文化」(162〜184頁)は、アナトリア半島西部のポリス、西地中海のローマ期の遺跡、エトルリア、ガリア、ユーラシア・ステップといった、古代世界各地の遺構・遺物をもとに古代世界の生活や文化を紹介する論考。角田の興味関心の範囲の広さをよく示しています。「ヨーロッパ古典時代の金石文」(185〜198頁)は、ギリシア語碑文 ⁽² 、ラテン語碑文、エトルリア語碑文の特徴や研究手法の紹介です。「ポンペイの遺跡」(199〜249頁)は、ポンペイとヘルクラネウムの遺跡案内。まるで角田の解説のもと、遺跡を一緒に歩いているかのように感じられる文章で、本書の白眉と言える部分です。「東ヨーロッパ古代史」(250〜297頁)ですが、これはなかなか興味深い試みで、バルカン半島全体を扱おうとした古代史です。この地の自然環境と石器時代から筆を起こし、ギリシア、マケドニア、ローマの時代、ビザンツ期について政治史的な叙述を中心に年代順に触れていますが、どうしてもギリシア史・ローマ史叙述の比重が大きめです。また、トラキア人やイリュリア人といったバルカン半島の諸民族への言及は一言二言程度で終わっており、バルカン半島全体をバランスよく扱うような、“東ヨーロッパの古代史”へは至っていない感があります。
 第3部は《ヨーロッパにおける周辺文化の問題》という括りのもと、一般〜学生向けの図書に掲載された5つの論考が収められています。「ハルシュタット文化とラ・テーヌ文化」(301〜311頁)は、アルプス以北の後期青銅器〜鉄器時代を扱います。ケルト文化の始まりについて、短いながらも手堅く、要点をおさえる形で紹介しています。「ゲルマン・ケルト文化の源流」(312〜334頁)はヤストルフ文化やラ・テーヌ文化の遺物を紹介しつつ、紀元後4世紀ごろまでの西北ヨーロッパの諸民族について触れたもの。「境域を越えたギリシア・ローマ」(335〜346頁)は、古代ギリシアやローマの文化のユーラシア大陸各地への伝播を扱います。文化伝播に関わる諸現象をいささか単調、単線的に捉えすぎているようにも思われますが、角田の古代世界の認識をうかがい知る上では重要な文章です。「ヨーロッパ古典時代後期の地方文化」(347〜357頁)は、帝政ローマ期の属州の文化について、駆け足気味ではありますが、概観するものです。本項目の主題である帝国属州の文化を「傍系文化と周辺文化」に分ける試みは、取り上げる事例が少なく、紙幅が限られていることもあり、説得的とは言いがたいように思います。「北ヨーロッパ古代史」(358〜390頁)は、スカンディナヴィア半島およびバルト海沿岸地域における、旧石器時代からヴァイキング時代までを扱う概説で、1950年代の一般向け図書としては貴重な成果と言えます。なお、「スキョル王朝」の節(381〜383頁)は、おそらく『ベオウルフ』や『デンマーク人の事績』などをもとに再構成したもので、歴史というよりも伝説に属します ⁽⁴ 。
 第4部の《ヨーロッパ古代の終末》は「古代の終末問題」(393〜434頁)という単独の論文から成っています。これは史料を基にした実証研究ではなく、当時様々提出されていた古代の「没落」や「終末」に関わりそうな議論を検討し、それらに見られる欠陥を指摘しつつ、自らの歴史理解を述べるというものです。西ヨーロッパ地域の歴史研究で得られた発展段階に基づくような知見を、そっくりそのまま東ヨーロッパ地域や中国、日本に適用することに異議を唱え、ビザンツ帝国や明・宋の文化を再検討すべきと促しています。なお、角田が俎上に載せるのは当時盛んに理論の摂取が行われていたマルクスやウェーバー、歴史学の分野ではアルトハイム、ドプシュ、オストロゴルスキーといった人たちで、1950年代までの歴史学の潮流を角田の視点から確認できるでしょう。
 最後に、解題として本書所収の各論考の紹介と、角田の世界史の特徴が述べられています。

3. この本の褒めるべきところ、刊行の意義

 ここで少々脱線し、個人的な話をさせてください。以前、あるシンポジウムにおいて、「こうした場において評者に与えられた役割とは、まず褒めることです」と仰っていたコメンテーターの方がいました。私も、著作物を評価するときは、なるべくこの姿勢に倣っています。単なるヨイショや、それとは逆に徹底批判に持ち込むのではなく、出席者(ここでは読者の皆さん)とともに今日の学問に活かせる部分を共有し、その上で疑問点や問題点を点検しようと考えています。
 以下、①史学史的な部分、②未発表原稿が載っている点、③角田の世界史理解を把握しやすくしている本であることの三点から、本書刊行の意義を述べておこうと思います。

①史学史的価値
 角田が書いた西洋古代史に関連する論文・図書ですが、『史学雑誌』の「回顧と展望」で言及されたことは過去に何度かありました。ただ、その成果の内容が批評されたことは決して多くなく、「大家の研鑽を讃えたい」「これが遺稿になった」のように、一言紹介するにとどまることが殆どで、古代ギリシア史・ローマ史のメインストリームに位置していた訳ではありませんでした ⁽³ 。今回、こうした形で角田の西洋古代史に関わる成果が一冊の本にまとめられたことで、改めて論評を許すものとして提示されたように思います。
 また、本書は今となっては入手が難しい論考・図書を収録しています。初出となった図書の中には、私の地元の話ではありますが、新潟市の中央図書館や新潟県立図書館に所蔵されていない資料も多いように思います。新潟市に限らず、自治体の公共図書館の蔵書によっては、ILL(図書館間の相互利用)を使わない限り角田の業績にほとんど接近できないところも多いはずです。特に『ポンペイの遺跡』(大阪市立美術館 1951年)などは閲覧可能な状態となっている館は殆どありませんし、再録された意義は大きいでしょう。
 さて、この図録に収められた解説文はそのまま「ポンペイの遺跡」という題で本書に収められています。この文章は一般向けに平易な語り口で書かれたものではあるのですが、内容的にはかなり高度で、ポンペイとヘルクラネウムの家屋、神殿、店舗、劇場といった遺構について、家屋の状態や特徴を一軒ずつ、出土遺物を含めて解説しています。特に公衆浴場の説明(208〜209、236〜238頁)はきわめて具体的で、実際にどういう導線で入浴したのかが分かりやすく説明されています。また、家屋で見つかった詩(CIL IV 9123)の日本語訳は七五調になっており、まさに美文です(221頁)。留学時代にこれらの遺跡を実際に見、歩いた経験のある角田だからこそ、かくも生き生きとした文章で綴ることができたのでしょう。
 ポンペイは今なお考古学的な調査が進められているわけですが、この論考は20世紀前半までのポンペイの発掘調査の進捗状況を伝えるものでもあり、調査の歴史、研究史の一つとして再検討する価値は充分にあるように思われます。

②巻頭の「構想」
 未発表作、というのはやはり興味を掻き立てられます。小説家の全集などには未発表作や構想のための「ノート」を収録しているシリーズもありますが、ああいったものを読むと、この人はかつてこんなことを考えていたのかと、想像の翼をどこまでも広げられますし、研究の材料にもなりえます ⁽⁵ 。角田のこの「構想」の場合ですが、彼個人の歴史認識の変遷をたどる、重要な手がかりの一つになることでしょう。
 彼の『ヨーロッパ古代史』は結局序文のみでそれ以上の着手はされず、幻と終わりました。仮に70年代にこれが刊行されていたら、太田秀通の「東地中海世界」や、弓削逹の「ギリシア・ローマ(を同一性のあるものとして理解すること)」とはまた違った角度から古代世界を捉えようとした著作として読まれたのかもしれません。この「構想」が巻頭におかれたことで、本書は単なる著作集の一つではなく、「ありえたかもしれない著作」となっているのです。

③一冊に纏めていることで角田の世界史観がある程度把握しやすくなった
 角田が生前に公にした西洋古代史に関わる論考は、時代的にも空間的にも広範囲に及びます。加えて、様々な全集、事典の項目、雑誌論文などにバラバラに掲載されていたため、全容がわかりにくく、しばしばアクセスが困難ですらありました。
 新潮社から刊行された「沈黙の世界史」シリーズにおける角田の担当巻『石と森の文化』や、論文集である『古代学の展開』などから角田の興味関心の広さを知ることができますけれども、前者は一般向けに書かれた概説書であり、後者は学術的(かつ論争的)な要素が強い専門書でした。本書はどちらかと言えばその中間的な、美術全集・考古学全集や学生向けの研究入門的な著作から再録した小品集のような構成で、角田の思想や業績を振り返る際に、過去の単著・著作集とは違った角度から見比べることを容易にしています
 また「皆様が将来ポンペイを見学される際にも、実際に役立つように書きました(199頁)」「現下に見られる二大陣営の深刻な対立をよく理解するためにも、東・北欧史を知ることが絶対に必要(358頁)」のように、実用性も踏まえて読者とこの地域の歴史を共有しようした姿勢を窺うことができるものです。
 個人的には、ヨーロッパ史を掲げつつも、黒海沿岸地域・イベリア半島・ブリテン島に関わる叙述が比較的少ないといった、地域ごとの濃淡が気になりましたが、それらは別の角田の著作から探れるのかもしれません。

4. この本の批判すべきところ、問題点

 著作集はその性格上、数年前~十数年前の古めの文章を収録しています。辞書には辞書の、註釈書には註釈書のといったように、本にはそれぞれ読み方があるわけですが、著作集もまた、ある程度古い文章だということを理解した上で、著者本人の思考や思想を辿るというのが作法として求められる読み方だと思っています。ですから、著作集に対して批判を加えるというのはあまり生産的ではないですし、むしろ適切に距離感を保ちつつ、現代の学問に不足しているもの、見逃してしまったものを掬い取ることこそ、望ましい著作集の使い方だと思っています。
 ですがそれでもあえて、本書全体の問題をまず指摘するなら以下の五点が挙げられます。
(a) 本書冒頭「構想」に掲げているようなヨーロッパとオリエントとを「分断」するモデルは1990年代以降、史料面・理論面で批判が加えられ、もはや成立しません ⁽⁶ 。
(b) プロコピオスや『学説彙纂』のみ(角田は根拠とする史料をこれしか挙げていません)を頼りに古代から中世への「止揚」を主張したり、「ビザンツ帝国」呼称を放棄してまで角田流の「中世ローマ帝国」呼称を導入するのは無理があろうと思われます ⁽⁷ 。加えて、本書所収の角田の古代末期理解はアンリ・ピレンヌ以前のもので、三四半世紀近く前の認識に基づいた記述であることを念頭に置いて読み解く必要があります。
(c) 古代世界各地の文化を「先進/後進」「傍系/周辺」のように二元的に分けるのは目的論的記述と言わざるをえません。
(d) 特に「ヴァフィオの墳丘墓とその遺宝」「ヨーロッパ古典時代の金石文」「古代の終末問題」といった論考に指摘できることですが、角田の先行研究評は具体的にどこが問題なのか示されないなど(とりわけ、本書407頁以下のアルフォンス・ドプシュへの批判がそうです)、説得力に欠けるものが多く見られます
(e) 関連して、先行研究を舌鋒強く批判する一方で、史資料を適切に汲み取りきらず、反「西洋中心主義」、反「西ヨーロッパ中心主義」に傾斜しすぎてしまっているように思われます。
 このほか、①史資料に基づいて証明できなかったり、混乱があるなど怪しい記述、②誤記誤植、③解題の問題、といった点を本稿では取り上げたいと思います。

①怪しい記述
 正直申し上げますと、本書のどのページにも内容・理解の点で古かったり、史料操作の点で怪しかったりする記述が見られ、全てを指摘することはできません。かいつまんで、ほんの数点のみを挙げましょう。
 まず、ギリシア人が領土的野心を持たなかった(127頁)というのは明確な誤りで、例えばデロス同盟期のアテナイは軍事的な入植地を地中海・黒海沿岸各地に設置しましたし、ポリスの破壊や征服、住民の奴隷化は、史料から確認できるだけで100例ほど見受けられます ⁽⁸ 。
 メロヴィング朝の開始時期についてですが、伝説的な王であるメロヴィクスを王朝の創始者とみなし、カタラウヌムの戦い以降からメロヴィクスが亡くなったとされる年までを起点とする箇所(158頁)と、ソワソンの戦いにおいて、クロヴィス率いるフランク族が、ソワソンのドゥクスであるシアグリウスを破った年である486年を起点とする箇所(327頁)の二つがあり、若干の混乱が見られます
 164〜165頁の「普遍的なものの考え方が醸成され」たことがギリシア人を「世界人」にしたという説明も些か安易です。角田が議論の対象とするアーケイック期(前800〜前600年)、つまりディオゲネス以前にこういった発想があったかというと、疑問符をつけざるをえません。
 165頁の、黒海北岸の諸民族の扱いも適切とは言えません。サウロマタイ人の話をしておきながら、彼ら/彼女らの墳墓、物質文化、美術工芸について概略的に提示するАрхеология СССРシリーズの一冊(Смирнов К.Ф., Петренко В.Г., Савроматы Поволжья и Южного Приуралья. М., 1963.)や、スミルノフのモノグラフ(Смирнов К.Ф., Савроматы: ранняя история и культура Савроматов. М., 1964.)については参考文献で触れていません。スキュタイについても、基本文献と言っても過言ではないミンズ(Minns, E.H., Scythians and Greeks, Cambridge, 1913.)をはじめ、邦訳のあるロストフツェフ(『古代の南露西亞』桑名文星堂 1944年)も挙げておらず、執筆当時にも入手可能だったはずの先行研究に注意を払っていません。結局のところ角田はサウロマタイやスキュタイをギリシア文化の受益者、ユーラシア世界への仲介者としてしか捉えきれておらず、彼らの社会や文化そのものの自律性へは踏み込めていません。本書から得られる古代の遊牧文化像はきわめて無機的です。
 古代世界の建造物に関しても、角田は無邪気に“現代のヨーロッパの住居形式の祖型”であると見出しますが(171頁)、家屋が古代以降も継続的に使用されている例は殆どなく、構造や用途も大きく異なります。要素の継承はあったにせよ、中世・近世との連続性を過度に強調すべきではないでしょう ⁽⁹ 。
 ドイツ北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ウィンデビーで見つかった、本書では「ヴィンデビの乙女」として扱われる湿地遺体ですが(317、374頁)、確かにこのミイラは長い間、14歳くらいで亡くなった女性だと思われていました。角田もその見解に与し、タキトゥスの『ゲルマニア』を引用しつつゲルマンの文化を解説しますけれども、近年のDNA検査の結果、この遺体がおそらく男性であることが判明しました。この箇所での角田の見解はもはや成立しません。このような、のちの研究で否定されてしまった箇所は、補註などで適切な説明が欲しかったと思います ⁽¹⁰ 。
 頭蓋指数をもとにした“人種”について(377〜378頁)ですけれども、頭骨をもとにした分析は法医学、自然人類学など学問分野によっては現在も行われています。ただ、人間の骨格は遺伝的な要因やライフスタイル、環境の変化などの影響を受け、時間の経過とともに徐々に変化すると考えられています ⁽¹¹ 。そうした点で角田の議論の信頼性は減じるでしょうし、それよりも何よりも“人種”は社会的に構築されたものであり、概念の操作には慎重な扱いが求められます ⁽¹² 。
 あとそれから、角田は時折「ゲルマン人の素朴で剛健な気性」(374頁)などのように、国や人々の集団があたかも一個の生命体であるかのように描写しています。これらは一般向け書籍故の分かりやすさを重視したサービスだったのかもしれませんが、特定の集団を一言二言で一括りにすることは大きな問題があることは言うまでもないことですし、学術性を大きく損ねています。

②誤記・誤植
 この件を過度にほじくり返すのは酷かもしれませんし、一々あげつらうのも野暮なことでしょう。そもそも、各論考の初出を見るに、発表・公刊された時期や媒体も、想定する読者層も異なっています。ですので、カタカナ表記に揺れがあるのが仕方がないことなのかもしれません。それに何より、当時の一般向け日本語文献ではほとんど未開拓だったであろう領域や、訳語が決して定まっていなかった人名・地名・出来事名のカタカナ表記に果敢に踏み込んでいることは、先駆的な業績として価値のあることです。
 ですが、それを承知の上で指摘する必要がある箇所がいくつかあります。まずギリシア語のカタカナ表記から申し上げると、ミュケナイ/ミュケーナイ/ミケーネ、ボエオティア人/ボイオティア人、ソークラテース/ソクラーテス(←!?)など、多くの固有名詞に二種類三種類の表記揺れがあります。このほか、「ターレス」、「クラゾーメナイ」といった、ギリシア語的におかしなカタカナ表記も見られます。こうした
表記揺れが多すぎるせいか、本書には索引がありません。索引は別に必須ではありませんが、やはり不便ではあります。
 あまり一般的ではない表記をしている箇所も見受けられ、例えば159頁には「グレーゴリウス=フローレンティウス(五三八~五九四)の『フランク族史』」(→トゥールのグレゴリウスの『フランク史』)とあり、他方で387頁の「ノヴガラット王国」(→ノヴゴロド公国)、129頁の「オドリサエ王国」(→オドリュサイ王国)など、読者のセンスが問われるカタカナ表記もちらほらとあります。また、元のアルファベット表記が無いせいで分かりにくい部分もあり、例えば322頁の「ユトランド半島西海岸のデビエル」はDejbjergのことで、カタカナ表記するなら「ダイビェア」もしくは「ダイビアウ」かと思われます。

 誤植についても指摘するなら、ヘレスボソト(131頁、正しくはヘレスポントス)、ウソブリア人(134頁、正しくはウンブリア人)、聖セバティアーノ門(168頁、正しくは聖セバスティアーノ門)、ゲピート族/ゲピート王国(285~286頁、正しくはゲピド族/ゲピド王国)、Ann Abor(432頁註55、正しくはAnn Arbor)と、どこかの段階で写し間違ったであろうものがあります。あと、186頁の碑文(Syll.³ I, Nr. 35.)のギリシア語転写と翻訳も間違えており、正しく直すなら、

 ℎιάρōν ὁ Δεινομένεος

 καὶ τοὶ Συρακόσιοι

 τõι Δὶ Τυράν’ ἀπὸ Κύμας

「デイノメネスの子ヒエロンと、シュラクサイ人たちが、キュメからテュレニア[エトルリア]のものを(戦利品として)、ゼウスに(奉納した)」
のようになります。角田はτοὶ Συρακόσιοι
が西方方言では複数主格になることを読み落としています。

 432頁などのロシア語参考文献の表記については、人名の誤記(ЩтаерманではなくШтаерман、КаждаяではなくКаждан)、論文名の誤記(正しくはО некоторых спорных вопросах истории становления феодальных отношений в Римской империиおよび、О положении рабов, вольноотпущенников и колонов в западных провинциях Римской империи в IV–V векахなのですが、文字間に空白が無かったり、一部イタリックが反映されておらず、改行でもないのにимпе-рииのような謎のハイフンが見受けられます)、同一文献内であってもロシア語と英語とで地名表記が統一されていない(Москва表記とLeningrad表記の混在)、стр.の連続(страницаの略語で、「頁」のこと)といったように、不備が多いです。

 カタカナ表記や参考文献表記の揺れについては、他の西洋古代史の大家の著作集も「そのままにしておいた」とするものがありますし ⁽¹³ 、参考文献間(118〜121、180〜184、429〜434頁)での表記を改めて統一するとなると、角田のオリジナルの文章から離れてしまうことになります。場合によっては編集部に多大な手間暇を要求してしまいますので、あまりとやかく言うべきではないでしょう。

③解題の問題
 本書巻末には解題として山田邦和「新たなるヨーロッパ古代史像への挑戦」が掲載されています。
内容としては、本書冒頭の「構想」発見の経緯を報告し、かつ本書の内容を手際よく纏めたもので、こうした点では有益と言えます。ただ、この中で、日本語圏の「世界史」や「西洋史」に対して批判を行っている一節があるのですが、少々首をかしげざるをえない記述が見受けられました。

③-1. 旧石器時代について
 まず、440頁の「日本で出版された『世界史』または『西洋史』を冠した書物や講座・全集本」は、「最初の巻を古代オリエント文明や古代ギリシア文明から始めている」。『岩波講座世界歴史』の昭和版と平成版がそれであり「旧石器時代は完全に『歴史』から排除され」ている。日本史の場合「旧石器時代から叙述を始めるのは常識」であり、それに比べ世界史や西洋史の「守旧墨守はなんとしたことであろうか」とのご指摘ですが、これには四点ほど疑問……と申しますか反論ができます。
 第一に、旧石器時代から筆を起こす「世界史」「西洋史」に関わる本はいくつも存在します ⁽¹⁴ 。例えばですが、大貫良夫ほか『人類の起原と古代オリエント(世界の歴史1)』中央公論社 1998年、青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方(興亡の世界史00)』講談社 2009年、原聖『ケルトの水脈(興亡の世界史07)』講談社 2007年、でしょうか。これらは文庫化され、いまも初学者に広く読まれているでしょうし、とりわけ『ケルトの水脈』は民俗学や言語学といった手法を援用し、先史時代から近現代のヨーロッパまでをケルト人の視点から捉えなおそうとする著作です。こうした図書と角田の手法の比較がないのは少し物足りなさを感じました。
 第二に、平成版『岩波講座世界歴史』でも、旧石器時代の西アジアやフランクティ洞窟を扱っています(『岩波講座世界歴史(2)』岩波書店 1998年 97〜102頁; 『岩波講座世界歴史(4)』岩波書店 1998年 3〜5頁)。
 第三に、『岩波講座世界歴史』や概説書のみを取り上げて学問全体への評価を下すのは論理の飛躍ではないでしょうか。
 第四に、確かに「旧石器時代から叙述を始める」のは重要かもしれませが、対象とする地域によっては史資料に制約や限界があります ──アイルランド史は人類の到達の都合上、中石器時代から始まりますし、アイスランドについては前4世紀のピュテアスの記述が現状おそらく最古です── し、ビッグヒストリーやディープヒストリーといった研究手法が開拓されつつあるいま、画一的に「旧石器時代から叙述を」とするのは形式主義的な歴史叙述を相手に求めるものだと思います。
 あと、「排除」のような強い言葉や、「守旧墨守」のように読者を無用に挑発するような文言をわざわざ解題に織り込むのは、図書そのものの学術性を損ねるものでしかなく、あまり適切ではありません。

③-2. 古代と中世の連続性について
 446〜447頁における「それまでの日本の学界では、ヨーロッパにおける古代の終末と中世の開始は、西ローマ帝国の滅亡とそれに続くゲルマン諸王国の勃興によって語られてきた」と述べ、その上で角田の論考「古代の終末問題」の独自性を評価する箇所ですが、(編者として角田を高く評価するのは分かりますが)私には過大評価のように感じられましたし、同時に山田氏が日本語圏の西洋古代史研究の積み重ねを軽んじているようにも思いました
 というのも、古代と中世の連続性に関わる議論であれば、すでに戦前から高村象平と増田四郎がアンリ・ピレンヌの所説を紹介してきましたし、戦後であれば井上智勇(『地中海世界史』弘文堂書房 1947年)と秀村欣二(「古代・中世境界論: 学説史的展望」『東京大学教養学部人文科学科紀要』(2) 1953年)
がこの問題を取り上げていました。要するに角田が「古代の終末問題」を書く以前から古代・中世の時代区分に関わる議論は交わされてきたのです。特に秀村の議論は、同時代であれば『史学雑誌』の「回顧と展望」や、かつての学部生向けのブックガイドである『文献解説 ヨーロッパの成立』(南窓社 1981年)、最近では南雲泰輔『ローマ帝国の東西分裂』(岩波書店 2016年、初出は「ローマ帝国の東西分裂をめぐって」『西洋古代史研究』(12) 2012年)でも取り上げられており、全く知られていなかったり忘れられた文献というわけでもありません。先行する研究や、あるいはピーター・ブラウン以降の「古代末期」研究の中で、角田の議論がどう位置付けられるかをもう少し真面目に検討して欲しかったように思います。

※実は
 実は本書への批判的な文章はこれとは別に、もう4万字程、根拠となる註や参考文献も付けて公開する用意ができています。ですので、角田の史料操作・歴史認識のどこに誤りがあるのかを、さらに細かく指摘することは可能ですし、そうすることもやぶさかではありませんが、本稿は本文のみで14000字を超えており、この上に追加して長々と書くべきではないでしょう。要望があれば、後日noteなどで追加の投稿をいたします。

おわりに

 長々と書き連ねてしまいましたが、そろそろ総評じみたことを申し上げましょう。

(イ)

 アレコレ批判しましたが、もちろん、刊行の意義はあります。
 本書をもって『角田文衞の古代学』全四巻が出揃いました。自伝を含むこのシリーズは角田の歴史認識の見取り図を多くの人に提供するものですし、閲覧自体が困難な文献を採録している点は大いに評価できます。角田の仕事に興味を持った人はこのシリーズを手掛かりにして『著作集』やほかの論文集を手に取るといいのではないかと思います。

(ロ) ただし、史資料の扱い方や議論の仕方には問題が多い。補註が欲しい。
 角田の史料の読解はナイーヴさがありますし、先行研究の扱い方・評価も適切とは言い難い箇所が多く見受けられます。あと、今日的な目で読み直してしまうと、

やはり全体的に「古い」と言わざるをえません。西洋史研究者の助言を受けるなどして、適切な補註が欲しかったと思いますし、特に、上述した本書186頁のヒエロンが奉納した兜のような、ギリシア語史料の転写・翻訳に明らかな間違いがあるのにもかかわらず、そのまま掲載しているのは学術的な価値を減らしてしまっています。

(ハ) 問題点を踏まえて、提案。
 補註が無い以上、別途論集や雑誌論文などで再考的な企画をすると良いのかもしれません。その際、本書所収の各論考が西洋古代史の中でどのように位置付けられるのか、専門の研究者(先史時代・西洋古代史・西洋中世史・西洋美術史・ケルト学・言語学など)を交え、元の文章自体の問題箇所を確認し、丁寧に検証していただければと思います。


(1) 角田の業績については古代学協会のWebページが参考になります。「財団法人古代学協会|角田文衞博士の紹介」 https://www.kodaigaku.org/tunodaroom/tunodaroom.html
(2) 角田はInscriptionに「碑文」という訳語をあてることを「碑銘は、金石文の一種にすぎない」として苦言を呈しています(195頁)が、日本語圏の西洋古代史に関わる文献の大多数は「碑文」という学術用語を採用していますし、何より私は学部・院時代の授業において一貫して「碑文」という語で学び続け、慣れ親しみました。この記事においてのみ呼称を変える必要性は感じません。「金石文」は石材に加えて金属も含む、一見すると幅の広さのある言葉に見えます。しかし、日本語圏の西洋古代史における「碑文」は陶器や建物の壁に刻まれた文字・図像もまた扱う、より柔軟な用語でもあります(岡田泰介「古典古代史料研究(4) 碑文」『高千穂論叢』(40-5) 2006年 117頁)。金属と石材は「碑文」で扱う史料の材質の一部なのです。「碑文」という訳語そ批判するにあたり、その材質の一種類しか扱っていないことを問題視するのなら、「金石文」もまた数ある材質の中の二種類のみを選んだものにすぎませんし、材質のみを注視しがちになります。なお、よりニュートラルで総称的な用語として「銘文」を採用している研究者もいます(クック, B.(細井敦子訳)『ギリシア語の銘文』學藝書林 1996年 122頁)が、少数に留まります。用語・訳語についての議論は往々にして不毛なものですが、一応、角田の用いた訳語とは異なる訳語を用いたので、自分の立場表明をしました。それと、誤解を防ぐために書いておきますが、私は何も「金石文」表記が誤っていると主張したいわけではありません。念のため。
(3) 史学会(編)『日本歴史学界の回顧と展望(20)』山川出版社 1988年; 栗原麻子「ギリシア」『史学雑誌』(118-5) 2009年 308頁
(4) 伝説を単なるフィクションとして、あるいは現実から遊離しているものとして歴史学的な検討の埒外とするのは賢明なことではないでしょう。また、詩や伝説が当時の政治や社会から中立で自由なものとするのも適切なことではありません(とはいえ、史料批判や先行研究の把握が充分でないまま、出来事や人物があたかも過去に実際に存在していたかのように扱うことや、過度に政治的な読解をすることで伝説の本来の存在意義や機能を見誤るのも問題ですが)。作家は好き勝手に話を作ったわけではなく、当時の社会において事実を超越した「本当のこと」として合意されていたものの上に自らの詩を付け加え、それが聴衆に受け入れられ、時に別の創作物へと合流し、結果的に写本という形で残ったのです。『ベオウルフ』の場合、ゲルマンの文学文化の伝統の中で形成されたものであり、詩からはゲルマン社会に特徴的な側面(例えば、コミタトゥス、王が持つべき資質、アウトサイダーへの視線、など)を抽出することができるでしょう(cf. Amodio, M.C., The Anglo-Saxon Literature Handbook, Malden, Mass., 2014, pp. 277-294.)。
(5) 『堀辰雄全集(7)』筑摩書房 1979〜1980年、『荷風全集(29)』岩波書店 1995年、『中島敦全集(3)』筑摩書房 2002年などを念頭においています。ちなみに、古代アッシリアを舞台にした中島敦の「文字禍」について、彼のノートをもとにして外国語の研究資料を創作に活かした過程と、中島の作中の年代認識を明らかにしたものに、三津間康幸「中島敦「文字禍」の年代設定過程解明」『東方キリスト教世界研究』(4) 2020年 89〜107頁があります。
(6) 周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』京都大学学術出版会 2006年 31〜33頁
(7) 私としては、例えば①神託やオリュンピア祭などに代表される古代ギリシアの祭礼や宗教が消滅したこと(Bonnechere, P., “Divination”, in: Ogden, D. (ed.), A Companion to Greek Religion, Malden, Mass., 2007, p. 158; 井上秀太郎「残照のオリンピア」桜井万里子・橋場弦(編)『古代オリンピック』岩波新書 2004年 196〜197頁。加えてビザンツ時代のオリュンピアはスラヴ人が居住する集落へと変貌したことも指摘できましょう。Vida, T. und Völling, T., Das slawische Brandgräberfeld von Olympia, Rahden, 2000.)、②帝国の東西で宮廷や社会が大きく乖離したこと(e.g. Cameron, A., Claudian: Poetry and Propaganda at the Court of Honorius, Oxford, 1970.)、③コンスタンティノープルだけでなく帝国全体の都市の変化やインフラの放棄、④専制皇帝への変質(井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会 2009年)、⑤歴史叙述の変化などをはじめとする人々の心性の変化(Papaioannou, S., “The Byzantine Late Antiquity”, in: Rousseau, P. (ed.), A Companion to Late Antiquity, Malden, Mass., 2009, pp. 17-28; 井上浩一「ビザンツ帝国と「ヨーロッパ・アイデンティティ」 」谷川稔(編)『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』山川出版社 2003年 72〜87頁)、など、ビザンツ帝国内部の変容や断絶を鑑みると、無邪気なまでに古代から中世への“止揚”を謳う角田流の「中世ローマ帝国」には疑問を感じます。このほか、「ローマ帝国は、5世紀以来引き続いて隆盛であり、没落の徴候などは何一つなかった(405頁)」などのような、具体的な史料・遺物の提示に基づかない主張は、歴史上の出来事の表面的な観察による矮小化や無視にすぎず、有益な見方ではありません。近年のリーベシュッツやウォード=パーキンズらによる文字史料の読み直しや考古資料などをもとにする、都市や物質文化の「衰退」の議論を踏まえるなら、この時代の上昇的な見方については、もはや積極的に採用はできません(e.g. Liebeschuetz, J.H.W.G., East and West in Late Antiquity, Leiden, 2015, pp. 45-47; ウォード=パーキンズ, B. (南雲泰輔訳)『ローマ帝国の崩壊』白水社 2014年 262〜266頁)。
(8) Hansen, M.H. & Nielsen, T.H. (eds.), An Inventory of Archaic and Greek Poleis, Oxford, 2004, pp. 120-123.
(9) 堀越宏一『ものと技術の弁証法』岩波書店 2009年 116〜124頁
(10) Price, T.D., Ancient Scandinavia, Oxford, 2015, p. 304. ちなみに、グルーぺらはこの湿地遺体が実際には少年の遺体であったにもかかわらず、長きにわたって「姦婦」として扱われてしまったことについて、論者にとって都合のいい物語を提示することで、センセーショナルな表現や誇張された表現が用いられた例であると指摘しています(Grupe, G., Harbeck, M. und McGlynn, G.C., Prähistorische Anthropologie, Berlin und Heidelberg, 2015, S. 38.)。
(11) Eveleth, P.B. & Tanner, J.M., Worldwide Variation in Human Growth, 2nd ed., Cambridge, 1990, pp. 145ff.

(12) 「身体的特徴に依拠する「明らかな人種」には生物学的な論拠があると主張されているが、これは厳格な検証に耐えうるものではない。人種という言葉の定義が適切でない上に、その存在を正当化するはずのデータにも説得力がなく、それが残虐な行為を容認することにもなりかねないのなら、人種という言葉を使用することは、いくら注釈をつけたところで、やめたほうがいいと考えるのは当然だろう」(ジョルダン, B. (林昌宏訳)『人種は存在しない』中央公論新社 2013年 46頁)
(13) 『村川堅太郎古代史論集(全3巻)』岩波書店 1986〜1987年や、『秀村欣二選集(全5巻)』キリスト教図書出版社 2002〜2008年がそうです。
(14) 列挙すると、江坂輝彌・大貫良夫『文明の誕生(ビジュアル版 世界の歴史1)』講談社 1984年、岡正雄ほか(編)『民族とは何か(民族の世界史1)』山川出版社 1991年、井上幸治(編)『ヨーロッパ文明の原型(民族の世界史8)』山川出版社 1985年、川田順造(編)『黒人アフリカの歴史世界(民族の世界史12)』山川出版社 1987年、青山吉信(編)『イギリス史1 (世界歴史体系)』山川出版社 1991年、成瀬治ほか(編)『ドイツ史1 (世界歴史体系)』山川出版社 1997年、関哲行ほか(編)『スペイン史1 (世界歴史体系)』山川出版社 2008年、大貫良夫ほか『人類の起原と古代オリエント(世界の歴史1)』中央公論社 1998年、福井勝義ほか『アフリカの民族と社会(世界の歴史24)』中央公論社 1999年、周藤芳幸『ギリシアの考古学(世界の考古学3)』同成社 1997年、高宮いづみ『エジプト文明の誕生(世界の考古学14)』同成社 2003年、木村有紀『人類誕生の考古学(世界の考古学15)』同成社 2001年、 藤井純夫『ムギとヒツジの考古学(世界の考古学16)』同成社 2001年、桜井万里子(編)『ギリシア史(新版世界各国史17)』山川出版社 2005年、川田順造(編)『アフリカ史(新版世界各国史10)』山川出版社 2009年、青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方(興亡の世界史00)』講談社 2009年、原聖『ケルトの水脈(興亡の世界史07)』講談社 2007年、藤本強『考古学でつづる世界史(市民の考古学6)』同成社 2008年といったものがあります。全集本ではありませんが、周藤芳幸『図説 ギリシア』河出書房新社 2007年、金七紀男『ポルトガル史(増補新版)』彩流社 2010年、金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』河出書房新社 2011年、木村正俊『ケルト人の歴史と文化』原書房 2012年、小田中直樹・帆刈浩之(編)『世界史/いま、ここから』山川出版社 2017年、 服部良久ほか(編)『大学で学ぶ西洋史 [古代・中世]』ミネルヴァ書房 2006年、下田淳『世界文明史』昭和堂 2017年も旧石器時代から叙述を始めています。


画像出典
Druids celebrating at Stonehenge.jpg | Wikimedia Commons (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Druids_celebrating_at_Stonehenge.jpg)

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