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私の原点/原初体験

前回の投稿では、人生の分岐点というテーマで、42年の半生を振り返って、今に至るまでのタラレバについて書いた。

今回は、今の仕事に就く上での私の原点、原初体験について綴っていきたい。

トレーニングコーチやトレーナーのような専門知識を身につけて、特殊技能を磨き、それを職業としている人というのは、一般的な会社員と違い、好きなことや、やりたいことを仕事にしているというイメージを持たれ、実際、そうであることが多い。
つまり、高校3年生や大学4年生の段階で、就活をして、(多くの人は)様々な企業を受けながら、内定を勝ち取っていくようなパターンではなく、大学や専門学校に進む段階から、ある程度、専門分野の勉強や実習などの教育課程を経て、その後の仕事に結びつけている場合が多いのではないだろうか。

実際、私も現在、過去に思い描いた仕事、つまりやりたい仕事、あるいは好きなことを仕事にいる。

では、そんな私にとっての原点はどこで、何だろうか。

それは、高校時代に遡る。
当時、私は愛知県立明和高校という、今でも県下有数の進学校に通い、熱心な監督の下、身の丈にあった目標設定ではないながらも「甲子園」を目標に掲げ、日々の練習に明け暮れていた。
中学時代、オール5で学年順位でトップだった成績は、高校時代になると下位10〜20%に入るほどとなり、それほどまでに野球に懸けて取り組んでいた自負はある。
しかしながら、2年時の夏の県大会でベスト16となったことが最高で、3年時に市内県立大会で優勝したぐらいが、唯一実績として残る程度の成績だった。

そんな高校野球生活を送る一方で、1学年下の弟が進んだ、愛知の私学4強と言われる高校では当時からトレーナーと契約し、実際、弟の身体はみるみる大きくなっていくことを目の当たりにしていた。

そして、これが私にとって、今の仕事に至る原初体験となっている。

ただでさえ、スポーツ推薦や特待制度で、良い選手を集めている私立高校の強豪が、さらにトレーナーと契約して、フィジカル強化に取り組んでいた。
その一方で、「甲子園出場」を絵に描いた餅に近い雰囲気で目標に掲げる県立高校は、野球の能力で劣り、さらにフィジカルの強化も本格的にはしていない。
この対照的な2つの高校を比較した時、これでは私学4強と言われる相手に勝てる訳がないと感じ、このままではチャンスがないという焦燥感のような思いに駆られた。

そして、この時、自身の将来を夢想し、具体的なロールモデルが居たわけではないものの、漠然と「トレーナー」になり、トレーナーとして裏方の立場で自身が果たせなかった甲子園出場を果たしたり、一流の選手に携わりたいという想いを描いた。

それにより、(ざっくりと)トレーナーを目指し、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を一般受験し、合格を果たした。
ただ、トレーナーを目指して大学•学部を選択したものの、大学合格の一報を高校野球部の監督にした途端、監督より早稲田大学の野球部のマネージャーに連絡して頂いたことがきっかけとなり、選手として東京六大学の舞台となる神宮を目指すことになったのだ。

その後のことは、先の投稿の通りとなり、今に至っている。
もちろん、私が思い描いたことを会社として行なっている「ストレングス工房」との出会いがなければ、今の私はないものの、あの時、漠然ながらもトレーナーを将来の夢として考えていなければ、今の私はないと思う。

こうやって、今の自身の活動と照らし合わせて考えてみると、実は随分前からやりたいことを想像し、実際その通りとも言える立場で活動していることが分かる。

つまり、「念ずれば通ず」の言葉通り、まずはどうなりたいか、何をしたいのか、そういったことを具体的に考え、行動していくことが大切だと言える。

もっとも、私のような立場の人が皆、同じようなきっかけや動機で、仕事に就いているわけではないものの、将来トレーニングコーチやトレーナーを目指す人にとって、何かの参考になればと思い、今回は原点について綴ってみた。

なお、今の立場に至るまでの物語については、またの機会にまとめていきたいと思う。
今日はここまで。

JPFストレングス工房
鬼頭 祐介

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