「わたしは、私。」に怒れなかったあなたへ。


年明けの西武そごうの広告が炎上した。


女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。


と、昨今社会問題となってきた女性を取り巻く差別や不平等を想起させるワードを使用しながらも、


来るべきなのは、一人ひとりがつくる「私の時代」だ。
「わたしは私。」


と、社会構造の問題を個人の問題へとすり替え着地させているように取られかねない表現が女性の反感を買った。


私はこの広告を見た時に、激しい怒りを感じることはなかった。のちに、たくさんの意見を読みながらそのどれもに「なるほど」と唸りはしたのだけれど、どうして自分はそう思えなかったのか。昨年まで8年間務めた、自分の会社員時代を思い返していた。


私の会社は、物を売った人しか勝てない会社だったので、出世についてだけは男女差を感じることはあまりなかった。
10人の中間管理職のうち女性の割合は3割。その割合は低いと思われるかもしれないが、中にいる人間としては内訳については妥当だと思っていた。
ただどこかで、「ウチは古い会社だから」と悟るように思っている部分もあった。女性が育児と両立するにはハードな職種で、そのことから会社の上司たちは平成最後のこのご時世に「女性だから、どうせいつかは辞めるよね?」なんて悪気なく(本当に彼らは気遣いのつもりで言っていた)言葉を掛けてきたし、実際自分も、いつまでこの仕事をやっていけるのか、人生プランを立てられずにいた。
しかしそれが返って期待されてない分、女性社員たちの自由さと良いパフォーマンスを生んでるような印象さえあった。
現場では圧倒的に女性の方が元気に見えた。
8年間、女だからという理由で、出世や、現場仕事そのものにおいて窮屈だと思ったことは本当にほとんどなかった。


でも、だからよかった、ということでは、なかったんだ。
自由であるということは、減点されているということだった。
期待されてないということは、無視をされているということだった。


目先の自由さや楽しさにかまけて、古い会社であることを受け入れてしまいすぎていた、「期待されてない」なんて自嘲しすぎていた。世の中を知ろうとしない、構造を変えようなんて考えてもこなかった。もっと、自分は怒らなきゃいけないんだって。そんなことも忘れていたのだって、世の中の人たちの怒りの渦に、広告以上に勇気をもらった。


広告に「怒れなかった」みなさんへ。怒れない「わたし」を作ってしまったのは、「私」ではきっとない。たくさんの言葉のパイをぶつけられ、見えない何かから逃げているうちに閉じていってしまった扉を2019年一緒に開けて見ませんか。


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