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「共感」の持つ可能性と危険性。

最近よく言われる話ですが、「共感」は、経済合理性の外にある複雑な問題を解決していく際にとても重要な要素の一つと思っています。あしたの寺子屋をつくり、広げていく中で「共感」は根底に流れる大事なキーワードなのです。

特に興味を持っている「共感に関わる3要素」がこちら。

①共感は、一般的 に「認知的共感」と「情動的共感」の2つに、機能的に分けられる。 

・認知的共感・・・他者の心理状態を推論するなどして理性的に正確に理解しようとするもの
・情動的共感・・・他者の心理状態を感情的に共有し、同期しようとするもの

前者は他者の背景や状況を踏まえた理性的なプロセスをたどるものであり、ある程度 オン・オフを切り替えることができる。
しかし、後者は厄介なことに、無意識的にそれこそ情動的に、湧き出てしまうものであり、オン・オフの切り替えがなかなか難しい。
(デイビッド・ヒューム が「理性は情念の奴隷である」というのは、このため。)
この2つの機能が相互補完し、単独/同時に動くことで、私たち人間は他者や社会と共存している。

②共感は、全員ではなく特定の誰かしか照らさない「スポットライト的性質」と、自分にとって照らすべきだと思えた相手しか照らさない「指向性」を持つ。

スポットライト的性質は、数的感覚を鈍らせる。
だから、飢餓による1人の死は心を動かすエピソードで、100万人の死は統計データと思われてしまう。
マクロなデータより、1つの現場事例が意思決定の際に過度に重要視されてしまうのも、この一例かもしれません。

③共感という行為は、「A:共感できるか?(能力)」と「B:共感したいか?(性向)」に分けられる。加えて面白いのは、神経科学の観点からAとBは別の心の働きだと検証されてきていること。

AとBは全く別の営みであるから、サイコパスは、共感能力は高いが自分の都合よく共感量をコントロールして、犯罪行為に至るとか。

これらの事実から思うこと。

「共感」がこういった要素を持つからこそ、共感しあう(したいと思い合う)人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションをとらなくなってしまう可能性があります。


そして、こうしたある種の心理的安全性をもたらしてくれる同質的な人たちと繋がって、もっと何かを感じようと思い、インターネットやSNSに性急に接続すると、私たちは孤独から逃げることができます。


こうして、1人で自己に集中する能力が退化していき、1人でいるときの自己に確信を持てなければ、自己を維持するために「だれか」という他者に依存するようになってしまう。

東京大学先端科学技術研究センター准教授、熊谷晋一郎先生の「自立とは、依存先を増やすこと」という自分自身も大切にしている言葉もありますが、果たしてこれは本当に優しい社会の在り方なのでしょうか?

あえて辛辣な言葉を使うと、共感という便利な言葉を武器に、「物言わぬ傀儡」を作っているのではないでしょうか。

「みんなで考えて、みんなで沈んでいくなら、トップの人たちが物言わぬ傀儡を動かすほうがいいのでは」といった趣旨の考えを下記のG1のYoutubeで見ていた時に、そんなことを考えました。(この動画は、学びが多いです)

未だ見ぬ理想の社会にむけて、ぼくらはどう連帯していくのが良いのでしょう。考える毎日です。


ただ、一つ言えるのは、自分自身がイイと信じてやまないものを、まずは自分から、良い共感を得ながら創っていこうと思っています。
「だれか」や「社会」に迎合することなく、まずは、自分から。

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