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スキーマを広げる(9):文化相対主義

▼「スキーマを広げる」第9回のテーマは「文化相対主義(cultural relativism)」と,これと対になる概念の「エスノセントリズム[自民族中心主義](ethnocentrism)」です。

エスノセントリズム(ethnocentrism)

▼文化相対主義について理解するには,まず,その対立概念を先に理解した方がわかりやすいかもしれません。「相対的」の反対語は「絶対的」ですが,自分の文化を唯一絶対の正しい在り方だとする考え方のことをエスノセントリズム[自民族中心主義](ethnocentrism)と呼びます。これについては,2000年度に茨城大学前期日程で出題された英文(以下はその原文)を参考にしてみましょう。

One of anthropology's main goals is to combat ethnocentrism, the tendency to apply one's own cultural values in judging the behavior and beliefs of people raised in other cultures. Ethnocentrism is a cultural universal. People everywhere think that familiar explanations, opinions, and customs are true, right, proper, and moral. They regard different behavior as strange or savage. The tribal names that appear in anthropology books often come from the native word for people.
(人類学の主な目的の一つは,エスノセントリズムと闘うことである。これは,他の文化で育てられた人々の行動や信念を判断する際に,自分自身の価値観をあてはめる傾向のことである。エスノセントリズムは文化的な普遍性を持っている。人々はどこでも,なじみのある説明,意見,慣習が,真実であり,正しく,適切で,道徳的だと考えるものだ。彼らは異なる行動を奇妙だとか,野蛮だとみなす。人類学の文献に登場する部族の名前は,人間を表すその土地固有の単語からきていることが多い。)
(Conrad Phillip Kottak, Anthropology: The Exploration of Human Diversity, 1984, p.45,太字引用者)

▼このように,自分の生まれ育った文化の価値基準を使って,自らのものとは異なる文化について判断を下すことをエスノセントリズム(自民族中心主義)と呼びます。etnho-とは「人々,民族」,centr-は「中心」,-ismは「主義」の意味です。

▼「カルチャーショック」ということばがありますが,私たちは,自分のものとは異なる文化に出会った時,少なからず衝撃を受け,違和感を覚えます。もちろん,その違和感を楽しむことができれば良いのですが,残念ながら「この文化は野蛮だ(savage)」「この文化は劣っている(inferior)」「文明的(civilized)ではない,未開の(primitive)文化だ」といった否定的な評価を下すことがよくあります。こうした評価の基準となるモノサシが自分の文化の価値(value)であり,これが偏見(prejudice)や差別(discrimination)につながります。

▼そうしたエスノセントリズムの対立概念が文化相対主義であり,文化相対主義はエスノセントリズムに対する異議申し立て・反論として生まれてきたと言えるでしょう。

▼Ngram Viewerで検索すると,ethnocentrism と cultural relativism という2つの言葉の文献での使用は,1920年代頃から徐々に増え始め,第二次大戦後に大幅に増えています。使用されている件数に違いがあるとはいえ,この2つの言葉はほとんど同じような増え方をしているのが興味深い点です。おそらく,ethnocentrism は20世紀初頭までは「発見」されていなかった考え方であり,ethnocentrism を相対化する cultural relativism という概念が生まれて初めて ethnocentrism も「発見」されたと言えるのかもしれません

社会進化論とエスノセントリズム

▼19世紀には,社会進化論の考え方が主流でした。イギリスの哲学者・社会学者のハーバード・スペンサー(Herbert Spencer,1820年4月27日ー1903年12月8日)がダーウィンの『種の起源』から影響を受け,「適者生存」(survival of the fittest)ということばを生み出したとされています。

▼自然界の生物たちが進化するのと同様に,社会も進化する,というスペンサーの考え方は,近代的な直線的時間という意識にも合致していたと言えるでしょう。また,「野蛮な未開の文化(アジア,アフリカ)に対して,進んだ文明・文化(ヨーロッパ)を普及する」という啓蒙思想(enlightenment)とも親和性が高かったと考えられます。ここには,強く,進んだ文明(=ヨーロッパ)こそが適者であり,遅れた野蛮な未開の文化(アジア,アフリカ)を駆逐して生き延びるものだ,という傲慢ささえもが見え隠れします。ちなみに,スペンサーの思想は明治時代の日本の自由民権運動にも大きな影響を与えました。当時の日本では「脱亜入欧」が唱えられていましたから,「遅れたアジア」と「進んだヨーロッパ」という対立項を正当化するのにもスペンサーの思想は都合がよかったのかもしれません。もっとも,スペンサーから見れば日本も「遅れたアジア」の一部なのですから,そのような日本の在り方が非常に馬鹿馬鹿しく思えたかもしれませんが。

▼社会進化論の発想に基づけば,社会や文化は〈未開/遅れたもの/非合理的/呪術 ⇒ 文明/進んだもの/合理的/科学〉と発達すべきという考えに至ります。そして,そのように発達できるのが「適者」だということになります。この考え方は,ヨーロッパがアジアやアフリカを植民地化し,自らの価値観を絶対的なものとして押し付けてきたことを正当化することにもつながります。その意味で,社会進化論はエスノセントリズムと親和性が高い考え方だ,と言えるでしょう。

▼しかし,冒頭で引用した茨城大学で出題された英文にあるように,エスノセントリズムはヨーロッパに限らず,どの文化でも多かれ少なかれ見られる普遍的な現象でもあると言えます。以下の英文は,先ほどの英文の続きで,茨城大学で出題された英文では割愛されていた箇所ですが,参考として引用したいと思います。

The tribal names that appear in anthropology books often come from the native word for people. "What are you called?" asks the anthropologist. "Mugmug," reply informants. Mugmug may turn out to be synonymous with people, but it also may be the only word the natives have for themselves. Other tribes are not considered fully human. The not-quite-people in neighboring groups are not classified as Mugmug. They are given different names that symbolize their inferior humanity.
(人類学の書物に登場する部族の名前は,人間を意味するその地の言葉からきているものが多い。人類学者が「あなたたちは何と呼ばれているのか」と尋ねると,「Mugmug だ」とインフォーマント[情報提供者]が返答する。Mugmug は人間と同義だと判明するが,それはその土地の人々が自分たちを表す唯一の単語であることもある。他の部族は完全には人間だとみなされていない。近隣の集団の「本当に人とは言えない人々」は Mugmug と分類されていない。彼らには,劣った人類を表すような異なる名前が与えられている。)
(Conrad Phillip Kottak, Anthropology: The Exploration of Human Diversity, 1984, p.45)

文化相対主義(cultural relativism)ということばの起こり

▼このようなヨーロッパ中心のものの考え方を絶対視する風潮を相対化するために生まれたのが「文化相対主義」という考え方だと言えるでしょう。文化相対主義については,2008年度立教大学[2月12日]第1問で出題された英文で次のように説明がなされています。

The founder of anthropology in the United States, Franz Boas, was the strong and vocal advocate of an approach to cross-cultural understanding that is often referred to as "cultural relativism," the idea that cultural beliefs and behavior can be understood and judged only in their own cultural context, and not by imposing outside standards. Behind this concept is Boas' belief that every culture has its own internal logic or line of reasoning, and customs and beliefs that may seem peculiar and meaningless from an outsider's point of view all "make sense" once you understand this internal logic,
(合衆国の人類学の創設者であるフランツ・ボアズは,異文化間理解への「文化相対主義」と呼ばれることの多いアプローチの強力な提唱者であった。「文化相対主義」とは,文化的な信念や行動が外側の基準を押し付けることによってではなく,それら自身の文化的文脈の中でのみ理解され,判断されることができるという考え方である。この考えの背後にあるのは,あらゆる文化にはそれ自身の内的な論理や推論の仕方があり,よそ者の観点からすると特別で意味が無いように見えるかもしれない慣習や信念は,いったんこの内的な論理を理解すれば全て「意味をなす」というボアズの信念である。)
( Sawa Kurotani, Behind the Paper Screen / Teaching models of 'Japan', The Daily Yomiuri, May 31, 2007,太字引用者)
http://www.yomiuri.co.jp/dy/features/language/20070531TDY15001.htm
※リンク切れ

▼なお,Wikipedia の Cultural relativism の項目には,以下のような記述があります。

The first use of the term recorded in the Oxford English Dictionary was by philosopher and social theorist Alain Locke in 1924 to describe Robert Lowie's "extreme cultural relativism," found in the latter's 1917 book Culture and Ethnology.[3] The term became common among anthropologists after Boas' death in 1942, to express their synthesis of a number of ideas Boas had developed.
(OEDに記録されているこの言葉の最初の使用例は,1924年,哲学者で社会理論家のアラン・ロックによるもので,ロバート・ローウィが1917年に出した『文化と民族学』の中に見られる「極端な文化相対主義」を描写するためであった。この言葉は1942年のボアズの死後,人類学者たちの中で一般的になり,ボアズが発展させていた多くの考えを統合させたものを表すようになった。)

▼なお,ボアズ自身は「文化相対主義」ということばを用いてはおらず,彼の死後,弟子たちが彼の思想をまとめてそのように呼ぶようになったようです。

文化相対主義の陥穽

▼文化相対主義は,異文化を理解する上では重要な考え方ではありますが,そこに落とし穴も潜んでいます。それは,相対化が行き過ぎると「何でもあり」になってしまいかねない,ということであり,絶対的な価値基準を否定することによってニヒリズムに陥る可能性がある,ということです。先の茨城大学で出題された英文には次のような一節があります。

The opposite of ethnocentrism is cultural relativism, the argument that behavior in a particular culture should not be judged by the standards of another. This position can also present problems. At its most extreme, cultural relativism argues that there is no superior, international, or universal morality, that the moral and ethical rules of all cultures deserve equal respect. In the extreme relativist view, Nazi Germany is evaluated as nonjudgmentally as Athenian Greece.
(エスノセントリズムの反対が文化相対主義である。これはある特定の文化の行動を他の文化の基準によって判断すべきではない,という主張である。この立場もまた,問題を引き起こしうる。きわめて極端になると,文化相対主義は,いかなる優れた,国際的な,あるいは普遍的な道徳も存在しない,つまり,すべての文化の道徳的及び倫理的なルールが等しく尊重される価値がある,と主張することになる。極端な相対主義的な観点では,ナチスドイツが古代ギリシアと同じくらい無批判に評価されている。)
(Conrad Phillip Kottak, Anthropology: The Exploration of Human Diversity, 1984, p.45)

▼たとえば,国連では数年前から女性性器切除(FGM: female genital mutilation)が問題とされています。FGMを行っている地域では,様々な社会的,宗教的な理由を挙げています。

『女性性器切除の廃絶を求める国連10機関共同声明』(PDF),2008年

▼仮に,上で述べたような「極端な文化相対主義」の立場に立てば,普遍的に適用される国際的な倫理や道徳,そして人権も否定されますから,こうした風習すらも正当化されてしまう可能性がある,ということになります。また,「我が国独自の文化を守る」という名のもとに外国人や異文化を排斥する運動の拠り所にすらなる恐れもあります。

▼実際,文化相対主義についてはこうした観点からの批判がなされ,より精緻に理論化すべきである,という動きもあります。

【参考】浜本満「差異のとらえかた:相対主義と普遍主義」(魚拓)

https://archive.is/20121219101348/http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html

良き文化相対主義に向かうには

▼文化相対主義はあくまでも,自分と異なる文化が存在することを「認める」だけのものであって,それぞれの文化の在り方を「正当化」するものではない,と考えることもできます。文化相対主義とは,異文化に対する偏見を排して異文化を観察するためのものの見方のことであって,その異文化の風習を支持・擁護することまでは含まれていない,と言えるでしょう。茨城大学で出題された英文の続きには次のような一節がありました。

I believe that anthropology's main job is to present accurate accounts and explanations of cultural phenomena. The anthropologist doesn't have to approve customs such as infanticide, cannibalism, and torture to record their existence and determine their causes.
(人類学の主な仕事は,文化現象の正確な説明を提示することだと私は思っている。人類学者は,嬰児殺し,人肉食,拷問といった慣習の存在を記録し,その原因を決定するのに,そうした慣習を承認する必要はないのだ。)
(Conrad Phillip Kottak, Anthropology: The Exploration of Human Diversity, 1984, p.45)

▼また,文化の在り方と道徳の在り方を序列化して「文化と道徳,どちらが優先されるべきか」という問いの立て方そのものが誤りである,と考えることもできるでしょう。これらは全く別次元の問題だからです。

▼そして,あらゆる価値観から自由になったゼロ地点の状態,あらゆる文化から等しく離れた距離の地点は存在せず,ある文化現象を見る際に常に自分が拠って立つ基盤との距離を測ることが,「良き文化相対主義」を目指すうえにおいて欠かせないことだと言えるのではないでしょうか。


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