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ベンゾジアゼピンという呪具 [Free full text]

保険を掛けておきますが、「(特にインターネット上で)ベンゾジアゼピン依存で苦しんでいると訴える方々の中には少数ながらこういう人もいるようです」というのが文意です。念のため。


パートタイム精神科医である僕ですが、ベンゾジアゼピンの減断薬に関して相談を受けたり、ベンゾジアゼピンの依存や離脱症状を訴えて受診される患者さんを診察をする機会は平均的な精神科医よりは多いのではないかと思っています。
そうした相談者様・患者さんの中には、訴えられる問題の大部分がベンゾジアゼピンに由来するものではないのではないかと思えてしまう方々もしばしばおられます。

原疾患が治っていなかったり、ベンゾジアゼピンを処方される理由であった不眠や不安の誘因(主に心理社会的要因)が解決していなかったり、身体症状症の要素が大きいのではないかと考えられる事例。
そしてそうした相談者様・患者さんは、自身の主な問題はベンゾジアゼピン以外の部分にあることを認めたがらないことが稀ならずあります。

こうなってしまっているのはベンゾジアゼピンのせいで、ベンゾジアゼピンを止めることさえできれば問題は解決するのだと信じたがっているようにさえ見えることがある。
私見では、彼ら彼女らは儀式的で複雑な減薬法を好み、反医療的な考え方(栄養療法であったり、今で言えば反ワクチン反マスクなど)との親和性が高い。言い換えれば、他力を頼ることを良しとせず、「自頭で考える」ことを好む、独力で問題を解決したがる傾向が強い方々であるということかもしれません。
そうした方々の一部が、しかしやはり問題が解決しない苦しさから僕の相談や診察を求めてくる。

病気やパーソナリティ、環境を改善・調整することは時に難しく、また他者(主に医療者)に委ねなければならない部分も小さくありません。あるタイプの方々にとってそれは耐え難いこととして感じられるのかもしれない。

SNS上でベンゾジアゼピンの問題を訴え、減薬の過程を書き連ねている方々の中には、苦痛や困難の理由を自分でコントロールできる物と行為に仮託する――錠剤を削ったり水溶液にしたりする――ことで自分が自力で問題解決に取り組み解決に向かっているのだと信じている(信じたがっている)一群が混じているのではないかと予想しています。

インターネットでベンゾジアゼピンの問題を訴える方々は均質ではありません。僕がお役に立てるとすれば主問題がベンゾジアゼピンの依存や離脱症状である"中核群"の方の相談・診療においてです。
極論、ベンゾジアゼピン以外には何の問題も抱えていない方。現実にはそのような相談者様・患者さんはいませんが(皆さん多かれ少なかれインターネットでベンゾジアゼピンに関するネガティブな情報に触れて相談・受診されるので)、ベンゾジアゼピンが主問題であることは減薬相談、診療の大前提になります。

僕がベンゾジアゼピンの減断薬を始めるための前提条件として「ベンゾジアゼピンを処方される理由となった原因疾患が完治しているか、ベンゾジアゼピン以外の治療法によって症状が良好にコントロールされていること」を繰り返し唱えているのは、つまりそういうことです。

精神科的あるいは心理社会的な問題はスティグマとして覚知されやすい傾向があります。ここにおけるスティグマは自らの問題に対して無意識に抱く偏見、セルフスティグマというニュアンスになるでしょうか。「ベンゾジアゼピンの影響も皆無ではないと思うのですが、メインの問題はそこではないかもしれませんよね」という医者からの問いかけに対して拒絶的な反応を示すのは、自身の問題を否認し、向き合うことを無意識のうちに避けようする心理機制が働くからかもしれません。
ベンゾジアゼピンは、そういった場合の問題のすり替え先、藁人形になりやすいツールの1つであるように思います。


神よ、どうかお与えください
変えられないものを受け入れる強さを
変えられるものを変える勇気を
そして、変えられるものと変えられないものを見分ける聡明さを
(ラインホルド・ニーバー)

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