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【31】「ジェンダー」は幻想なのか 『ジェンダーと脳』批判(3)

〔前回の続き〕
 ジョエルは『ジェンダーと脳』の後半を通して、「ジェンダーは根拠のない幻想(もしくは神話)なのだ」という立場をるのだが、これが正しいか否かは「ジェンダー」という言葉の捉え方次第であろう。
 この本は全体的に話が行ったり来たりしてどうも論旨がつかみにくいのだが、私の整理ではジョエルは以下の二つの論拠から「ジェンダーは幻想なのだ」と主張しているように思われる。

 1つは、彼女自身が唱える「モザイク脳」というコンセプトから。人間の脳は身体的な性別に関わらず、男性的な特徴と女性的な特徴がモザイク状に入り混じっているのが普通であり、男性脳と女性脳のどちらかに明確に分けられるものではない。ゆえにジェンダーなど幻想なのだ、と。

 もう1つは、脳がかなりの可塑性(かそせい)を持つことを示す様々な研究報告から。生殖器はたいてい男性と女性のどちらか一方の形態をとり(稀に間性の生殖器を持つ人もいるが)その形は生涯を通して変わらない。
 だが、脳の場合は違う。人の脳は、生まれつきの遺伝的特徴にストレスや生活環境、幼少期の生育条件、医薬品などの外部要因が複雑に相互作用しあって形成されていく。また、脳の器質(解剖学的な特徴)は訓練によっても変化する。ジョエルは一例としてロンドンのタクシー運転手を対象にした研究をあげる。

この研究では、運転手が長年にわたって無数の目的地への経路や通りの名前を覚えたことで、脳の海馬 ── 空間認識能力に欠かせない神経構造体 ── の体積が増大したことがわかった。迷路のように込み入った市内の通りを自在に走行する必要に迫られて、運転手の脳は難しい空間経験に対処していった のだ〈注1〉。 

 脳は人の行動を変化させるが、逆に行動や経験が脳を変化させもするのだ。人間社会では男女は生まれた瞬間から異なる扱いを受け、異なる経験をし、異なる行動をとることが期待される。
 事実として、男性の脳にありがちな特徴や女性の脳にありがちな特徴が観察されるにしても、その全てが生まれつきの遺伝的要因によるものとは言い切れない。社会から男性あるいは女性として扱われた結果としてそうなっている部分もあるのではないか。ゆえにジェンダーなど幻想なのだ、と。

 私の考えを述べていこう。何度か読むことでようやく把握できたのだが、ジョエルはどうも以下の5つの事柄を全てひっくるめて「ジェンダー」と呼んでいるように思われる。

①「男性と女性は明確に異なる」とか、「男性とはこういうもの」「女性とはこういうもの」といった固定観念
②「男性性」や「女性性」という概念
③「男性」や「女性」という概念そのもの
④「性別」という概念そのもの 
⑤ 「男性(女性)はこうあるべき」という社会からの期待や圧力

 このように区別した場合、先ほどあげた一つ目の論拠をもって「幻想」だと言い切れるのは、① の意味での「ジェンダー」に関してのみだと思う。たしかに具体的な個人を見る限り、全てにおいて男性的な人も全てにおいて女性的な人もおらず、「男性(女性)はこういうものだ」というひとまとまりのイメージが完全にあてはまる人など存在しない。その意味では「幻想」だと言えるだろう。
 
 しかし私が第27回で指摘したように、個々の「性質」の側から見れば、人間には男性的な性質と女性的な性質があることは明らかである。
 そもそも私たちがある性質を「男性的」だと感じるのは、それが実際に女性よりも男性(の身体を持つ人)に多く観察されるからだし、逆にある性質を「女性的」だと感じるのは、それが実際に男性よりも女性(の身体を持つ人)に多く観察されるからだ。

 例えば我々は車やバイクや鉄道を好むことを「男性的な性質」だと感じるが、それは実際に女性よりも男性にそれらを好む人が多くいるからである。同様に例えば我々は、ディズニーやサンリオのキャラクターを好むことを「女性的な性質」だと感じるが、それは実際に男性よりも女性にそれらを好む人が多くいるからだ。

 ここでは興味の対象を例にあげたが、気質や性行動についても同じことが言えるだろう。「男性的」とか「女性的」といったイメージの多くは根拠のない思い込みではなく、現実に即した感覚なのだ。
 
 したがって、「男性性」や「女性性」という概念、またその二つをそれぞれ担う「男性」(の身体を持つ人)と「女性」(の身体を持つ人)という区分は現実世界とほぼ対応しており、② ~ ④ の意味での「ジェンダー」は幻想などではないと考えられる。
 生物学的な観点から言っても、人間が有性生殖をする生き物であり、かつ全人類の99%以上の人は男性器と女性器のどちらかしか持たないのだから、「性別」という区分には明らかに物理的な実態がある。いかなるロジックをもってしてもこれを「社会的に作られた虚構」かのように見なすのは無理があるのではないか?
 ⑤ に関しては「人々が男性や女性に何を求めるか」という価値観の問題であり「現実か幻想か(実態を伴うか否か)」を直接問う対象ではないと思う。

 随分ややこしい話になってしまったが、これはジョエルが「ジェンダー」という、そもそもが多義的でぼんやりとした用語を、そのままぼんやりと多用していることに原因がある。この本を正確に読み解こうとすると「ここでいう『ジェンダー』とはどういう意味での『ジェンダー』なんだ?」とこちら側が注意深く区別して考えざるを得ないのだ。
〔次回に続く〕



〈1〉ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳 —性別を超える脳の多様性—』鍛原多恵子訳、紀伊國屋書店、2021、kindle版、No.311

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