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健康だと思っていた自分が、ストレスを抱え、徐々に視野が狭くなり、思考が破滅的になり、そして孤立を深めていったプロセス。#299

ここ数日間。過去10数年間の中で1番というくらいに不健康だった。
とても視野が狭くなっていたのだと思う。世界の人間は全て私のことが嫌いで、わたしのことなんか必要としておらず、わたしはこの世に存在してはいけないのだと思い込んでいた。

1週間前まではそんなこと考えもしなかったのに。

「毎日が楽しいなあ。今日も図書館に行けて幸せだな」「明日も今日と変わらずに図書館に行って帰って来よう。(=^・^=)(=^・^=)」くらいの感じだったのだが、あっという間に(本当にあっという間に)株価が大暴落するかのごとく、メンタルがものすごい勢いで下降していった。

仮にメンタルの健康度が10段階だったとして、1~3が不健康(1に近いほど危機的)。4~7が普通。8~10が健康。そんなスケールが存在するとする。

4日くらい前までは、すくなくとも1週間前までは、7以上を保っていた自覚があった。客観的にどうこうではなく、その領域にいるという自覚があった。

でも、数日前に起こったイベントをきっかけに一気に下降していき、今日は1~2あたりを彷徨っていただろう感覚があった。これほどまでに急降下。かつこの不健康領域をうろつくのは、もしかすると病気以外では初めてではないだろうか。「世界は自分のことを敵視しており、わたしは世界に必要とされていない」そのくらいに思ってしまっていた。

後述するが、現在は回復し見える世界の広さも元に戻っている。「世界のすべての人間は自分を必要としていない。よって生きる意味は無い」というような、いわゆる「破滅的思考」からも脱出することが出来、こうして自分の行動を振り返ることが出来るまでになっている。現在時刻は金曜の22:14。週末の夜だ。最近は札幌にもたくさんの観光客が訪れており、狸小路、すすきの、札幌駅前通りは連日たくさんの人でにぎわっている。この勢いのまま他人の話を聞くサービスをやっていきたいが、その前にどうしても今回の記録を文章として残しておきたい。

長文になるとは思うが、他者に読んでもらうことを想定しているようで、想定しないかもしれない。半分は自分向けの文章である。まぁこういう文章が逆によく読まれたりするものだが、どうでもよい。

この文章は「健康だと思っていた人間が、もしかすると死の一歩手前まで行ったかもしれないという状態を書き綴ることで、今後の人生に生かすとともに、自分の取扱説明書の一部とするものである。


まずはじめに

このnoteは11000文字くらいあります。

わたしのプロフィール

40歳。男性
独身。一人暮らし
無職11か月目(失業保険受給中)
失業後の社会との接点は、主に所属しているオンラインコミュニティ内で行われるテキストチャット及び、ボイスチャット。

既往歴:てんかん(13歳)。パニック発作(37歳)など。
特にパニック発作の方は全快しておらず、現在もストレスには弱い。
だが、自分なりにローストレスに生きる生き方を模索して、ここ最近それが実りつつあった(と感じていた)

リアルな友人とのコミュニケーションも無い訳ではないが、最近は特にオンラインコミュニティに依存ぎみ。これは今回の原因のひとつ(後述)

1週間前の自分

平穏に毎日を暮らしていた。やらなければいけないことは無かったし、毎日自由に暮らしていたと思う。生活費は失業保険で賄えるし、お金についてもそれなりの蓄えはあった。

※実際には就職活動をする必要があったけれど、あえて見ないふりをしていた。とも言えるが。

ある日のスケジュール

  1. 8:00くらいに起きる

  2. コミュニティ内で開催されている「朝礼(zoom1枠を使用したお話会)」に参加し、会話欲を満たす。
    ※日中に会話をする相手がほぼ0であるため、日常的にコミュニケーションを取ることが出来る場は、実質ここしか無かった。

  3. 午前中は自宅でだらだらする。インターネットを見る。

  4. 午後から図書館へ行く。

  5. 7時くらいに出る

  6. カフェで二次会

  7. コミュニティの投稿を見ながら本を読む(だいたいコミュニティが気になって本は読めていない)

  8. 22:00ごろ帰宅。引き続きインターネットを見る。

  9. 深夜2時くらいに帰宅。

  10. ・・の繰り返し。

どう考えても、不健康な生活だなと。特にインターネットに取られている時間が多いなと感じた。しょうがない。気づいてはいたが、ここまで危険な状態を経験したからには本気で改善していこう。インターネットになるべく触れない生活を作っていきたい。調べものや仕事でインターネットを使う分には問題ないが、ポルノなどのインターネットサーフィンをしてしまうことがよくない。

まぁ、対策は良い。

これでもなんとか回っていた。なぜなら毎朝会話をする場があったからだ。
これはこれでとてもありがたく、むしろこれが無ければ、自分の無職生活は成り立たなかったと言ってもいい。社会との最低限の接続を保つ意味でも、オンラインコミュニティは自分にとって重要なものだった。

精神を病むきっかけ1 就職面接(Web)

おそらくは4日くらい前のWeb面接だと思う。画面の向こうに現れた面接相手は、とても堂々としていてまた格好も良く、いわゆる「社会が出来る」人だった。半面わたしは、ほぼ1年近く無職で面接も寝起きの状態。そして掃除もされていない1Rの自宅から。画面越しに映るわたしの映像から覇気のようなものは全く感じられなかったと思う。同時に、わたしは、相手と自分を比較し、そして卑下してしまった。

「自分はこの人よりも社会的に劣っている」
「自分はこんな人みたいに立派にはなれない」
「自分は彼らのようにバリバリ働くことは出来ない」
「しかも彼らの方が年齢も若いし、私はますますお荷物では?」

CBT(認知行動療法)で言うところの「自動思考」である。

実は失業保険の給付が8月後半には終了する。こんなギリギリまでなぜ就職活動を行わなかったのか、と思うかもしれない。「前職に関連する業界だし、知り合いも多数転職している会社だし、何なら転職サイトで「応募歓迎!」と来ていたくらいだ。受かるに決まっている。とタカをくくっていたが、内容は散々だった。戦闘モードの会社員VS寝起き11か月無職の俺。まともに質問に答えられるわけもなく、言いたいことの3割も言えなかったと思う。スマホの画面上に移る、たるんだ自分の顔にただただ嫌悪感を抱くだけで、相手の質問は上の空だった。

また面接後、すぐに戻ってくると思っていた結果が数日たっても返ってこなかった。1週間以内に返すという話なので、何もルール違反ではないのだが、1日、また1日を日にちが経過するたびに、不安は増すばかりだった。

ただ、実はこの時点でのメンタルの健康度はせいぜい8が7から6に落ちた程度で、すぐに自己修復は出来たし、なんなら「面接をしてくれた彼らより、自分の方が社会的には実績も少ないかもしれないけれど、人生の豊かさにおいては自分の方が上だ。そういう自負もある」「失業保険だって、確かに今月(8月)末で切れはするけれど、仕事なんてどうとでもなるでしょう。貯金も少ないとは言え、生きることには何も支障は無い」と言えるくらいには健康度を保っていた気はする。

つまりこの時点ではまだ、追い詰められてはいなかった。

精神を病むきっかけ2 話を聞くサービスに挑戦したが、怖くて出来なかったこと。


これは表現が違うかもしれない。
正確には他人の目線が怖くて出来なかった。その事実を「他人の目線が気になる自分、マジで弱い」と解釈してしまったところにあると思う。

面接と前後して「他人の話を無料で聞く」というサービスを始めようと思いついた理由はいくつかあり、「他人の苦悩をもっと聞きたい(聞くことで自分の視野を広げたい」「リアルでもっと会話をしたい(不足しているため。飲み屋などは金がかかる)」「読書で得た知識のアウトプットにもなる」など。

看板代わりのアイテムを100均で購入するなど、必要最低限のモノを準備しアーケード街に座ってみたが、座るまでは良かったものの、手作りの看板を掲げて、客を呼ぶまでがどうしてもできなかった。他人の目線が気になって仕方なかったからだ。みな、自分のことを馬鹿にするんだろう? そうやって、上から自分を笑うんだろう? 昔から変わらない考え方の癖なのだが、これが今の自分のストレスに拍車をかけた。結局やりたいことがあっても、自分で自分にブレーキをかけてしまう。解決策は見当たらない。どうしたらいいどうしたらいい。

自らストレスを増幅させていった

それだけならまだよかったのだと思う。アーケードに座る行為が1度だけなら、まだ十分耐えられた。それだけの余力が自分にはあった。たとえ、面接の結果が来ないという不安があったとしても(複数の不安要素が複合的になっていたとしても)、その状況であれば十分に耐えられたと思う。

ただ、自分は「くそ、昨日はダメだったけれど今日なら出来るのではないか?」

「今日はダメだったけれど、明日なら出来るのでは?」
「結局今日も街を歩く人の目線が怖くて出来なかった・・」
「結局自分は何もできないじゃん」
「でも、明日なら。。 今日もやっぱり駄目だった」

こうして、自らのストレスをどんどん増幅させていったように思う

くわえて

精神を病むきっかけ3 コミュニティ内のオフ会(対面のイベント)に参加出来ないフラストレーション。

オンラインコミュニティではあるある(?)なのかもしれない。

コミュニティ内ではコロナ開けをきっかけに、オフ会が開かれるようになっていった。そしてその頻度は最近特に加速度的に増えているように思う。

わたしも、実際に顔を合わせたことのあるメンバーたち同士が、オフ会を開きどんどん親密になっていく。オフ会はだいたいが、東京か大阪で開かれており、札幌に住んでいる自分はオフ会に参加したくてもなかなか参加できない。

そうして彼らはどんどん親密になっていく。自分だってその輪に入りたいのに、入れない。行けない。それはオンライン上の会話にも明確に表れる。ふとした瞬間に、わたしの知らない会話が出てくることが多くなった(昨日開催したオフ会のネタなど)。わたしは表面上は笑ってごまかすが、内心歯がゆい思いをすることが多くなった。これまでは、オンライン上というある種「同じ条件」でのコミュニケーションだったけれど、彼ら、彼女たちには「対面で会える」という選択肢が加わったため、「オンラインでのコミュニケーション」しか選択肢を持たない自分としては、出世レースから脱落した気分だった。

※なお、現在はこのような考えは持ってはいない。ストレスで視野が狭くなり、認知にゆがみが生じてこのようになった・・側面もあったとは思う。

複合的

オンラインコミュニティに依存状態となり他の世界が見えなくなった為、現実世界ではなく「画面の向こう側」が自分の全てになってしまっていた。

その上で1~3のストレスが急激に重なって重なって。
そしてある時閾値を超えたのだと思う。

その結果

参加しているコミュニティ内のメンバーに当たり散らす結果となってしまった。ある人には自らの正義をぶつけて委縮させてしまい、またある人には、議論からは到底ほど遠い、自分のエゴをぶつける言い合いをする形になってしまった。みな自分を信頼して対話に臨んでくれたと思っていただけに、本当に申し訳ない。自分でも見苦しい結果となってしまったし、何よりみなさんにご迷惑をかけてしまった。重ねてお詫びをしたい(話を聞いてくれて、かつアドバイスをくださったみなさん、ほんとうにありがとう)

みなさんのおかげで、一時的には回復するも、翌朝またもとに戻る。率直に言うと、その時の自分は他人のアドバイスや、温かい言葉、また手厳しい言葉を受け止めるだけの、余裕が無かったのだろう。要するにすでに精神的にかなり不安定になっており、少しの言葉でも敏感に反応してしまう状況だったのだと思う。ストレスがかなり深部にまで来ていたのだと思われる。

当然相手はそのようなことはわからないから、わたしがそのような反応を見せると「なんだこいつ?」となる。会話をしたいが、自分を制御できず怒りをまき散らすことになってしまう。でも、本心では会話がしたい。

さしずめ、「人間になりたい」の妖怪人間ベムである。

誰かに優しくしてほしい

辛いんだ。とってもつらい。この状況を誰かに知ってほしい。誰かから「がんばったね」って言ってほしい。自分は誰かに話を聞いてほしい。誰かに優しくしてほしい。通常であれば受け入れられるはずの言葉も、今は受け入れられない。受け入れる余裕が無い。それだけ心が弱っている。本当は笑顔で話をしたいのだが、何かにつけて不機嫌をまき散らしてしまう。そうすると周りの人は「あの人怖い」となって、余計に自分から人は離れていく。

このループは正直怖い。それを身をもって知った。

「不機嫌はよくない」
「不健康はよくない」
「陽気でいよう」

ということは、理屈ではわかっていたし、実際そうなのだけど、人間はそんなに強くない。いつどんな状況でその「不機嫌」側に行くか分からない。実際に今回自分は、簡単にそっち側へ行った。

事前に予防策を取ることは出来るだろう。
自覚をせずともそちら側に行かないことが可能な人だっていると思う。でも自分はそうじゃない。意識をしないとあっというまに、そちらの世界の見えない悪魔に心を食われてしまう。

それが今回の一件でよくわかった。

破滅的思考

専門的にはそういうのだけど、簡単に言うと最悪のシナリオしか見えなくなってしまうという現象である。他人が聞くと「どうしてそんなバカげた発想を? あるわけないじゃん」の一言で済むのだが、本人にとってはいたって本気だ。それしか見えていない。本気でそうなると思っている。

自分の場合は

  1. 「こんなにつらいのに、誰もコミュニティの中でかまってくれない」

  2. 「つまり自分はコミュニティの中でもう見放されている」

  3. 「つまり友達のいない自分にとっては、世間から見放されたも同然である」

  4. つまり、自分はもう二度と友達がつくれない。

  5. かつ、唯一のつながりであったコミュニティのメンバーを失った喪失感はとても大きい。

  6. 年齢的に結婚相手が出来ることも無い

  7. このまま一生孤独に生きるしかない。だれに頼ることも出来ない。

  8. 死ぬしかない。

    実際にこういう思考過程だった気がした。


その時のログ。8時間前。今日の午後2時か。「またこうやって弾かれるんだな」と過去の悪い時のことを想像していた。


実際に死への行動を取ろうとしたわけではないが、この状況がもしあと1日2日続いていたら、状況はさらに悪くなっていたと推測出来た。
回復に直接的につながったかどうかはわからないが、「破滅的思考という状態がある」ことを知っていたことは、良い方向に働いた。知らなければよりパニックに陥っていたと思う。知っていたので、頭のどこかに「今の状況は改善できる」というわずかな望みがあった。あとは通常の精神状態にいかに戻すかということだったと思う。

「メンタルなんで自分でコントロールするものでしょ!」
という方には「それが出来たら、世の精神病は全て無くなっていますね」と言っておく。それは単なるあなたの感想。

回復への道のり-反応してもらう

コミュニティ内でまずひとつメンバーの方から反応とレスをもらったこと
「ごはんを食べよう、やすもう」 これを言ってくれただけでも、とてもとても嬉しかった。「ああ、自分は世間からは見捨てられていないんだな」と再確認することが出来た。


すごくうれしかった

この「世間から見捨てられていない」ということについて「その程度で何をばかばかしい」と思うかもしれないが、その時の当人はいたって本気である。それがその時の精神状態。この発言をしてくれた本人にどのような意図があったのかはわからない。別に何の感情も無く、ゲームでもしながら携帯でポチポチ操作した結果、作り出された文字なのかもしれない。

それでもとても嬉しかった。
自分は必要とされていない人間ではなかったのだと実感することが出来た。
このおかげで、少し現実世界に戻ってくることが出来た。

余談だが、今日はこの件で朝から一日中ベッドから動けず、予定も2件リスケした。そんな自分がようやく動けるようになったのは、15:00を過ぎたころだった。動けるようになったきっかけは、このレスをもらえたおかげである。

回復への道のり-好きな人との電話

10時に予定を入れていたがリスケをせざるを得なかった。それだけしんどかった。電話に出てくれた人がちょうど好きな人であり、また事情を話したところ、心配の言葉をかけてもらったのがとても嬉しかった。ちょっとではあるが、メンタルの健康度合いが上がったのを実感した気がする。2から3へというような感じに。

回復への道のり-リアル読書会への参加。

前々から参加している読書会。今回で2回目。今日、開催で本当に良かったと思う。読書会に参加をしてみなさんと2時間、たわいもない話をしたり、本の話をしたことで「自分の世界はほかにもたくさんあるんだ」と実感することが出来た。これが大きかった。「自分のことを好いてくれている(少なくとも嫌ってはいない)」人が目の前にいる、ということを実感することが出来た。
読書会では小説の良さを教えていただいた。読書会に来てから文学作品にハマったという女性から、たくさん元気を分けてもらえた気がする。彼女も含めてではあるが、読書会のみなさまには感謝してもしきれない。読書会の帰り道。同じく参加者のひとりである、少し年上くらいの男性と話して、趣味のサークルへの参加方法などをいろいろ教えてもらった。彼も、無職時代にオンラインサロンに入っていたらしい。

自分の世界がさらに広がる気がした。

読書会の帰り道、みなさんと分かれてから直接カフェに来てこの記事を書いている。もう3時間くらいはぶっ通しでパソコンをたたいている。現在5500文字。過去最長の文字の多さだ。単純に読みづらい記事であることこの上ないと思うが、最初にも伝えた通り、読んでもらいたいというよりは、記録用としての要素が強い。

つまりどういうことなのか

他者との接触が圧倒的に足りていなかった。ただそれだけなんだと思った。それもオンラインではなくて直接会うことが大事だった。オンラインだけで満足できる人もいるのかもしれないが、自分の場合は直接会うことが大事。
直接会うことで、感情の細かな機微を感じ取ることが出来る。それは文章よりも音声、音声よりもビデオ、ビデオよりも直接会う・・なのだろうと思う。

自分が単に気にしいなだけというのもある。
でも、やはり直接会うにはかなわない。悔しいけど。

また「複数のコミュニティ(依存先)を持つことも大事なのだなと思った。

コミュニティが1つになると、そこが世界のすべてになってしまう。それでは仕事ばかりしているおっさんと何ら変わりない。そもそも、オンラインコミュニティはサードプレイスだったはずでは? いつからセカンドプレイス(職場)になったんだ。無職で時間が有り余るから、社会と接続するためにコミュニティに入り浸るのは仕方ないかもしれないが、ひとつのコミュニティに依存しすぎたこと。またそれがオンラインであったこと。それが視野を狭くしてしまった大きな理由のひとつだと思う。

※なお、ファーストプレイスは家庭環境


「すべての問題はともだちが足りないことに起因する」と評するインフルエンサーもいるが、まさに、そういうことなのだろうと思う。今回だって他人から愛を分けてもらうことで、回復していった。そういうことの繰り返しが、以前の自分に戻してくれたということを感じている。

自分ひとりでリカバリーできる優秀な人も世の中にはたくさんいるのだと思う。でも人間は決して優秀では無いし強くはない。

むしろ「人間だいたい欠陥あるのでは?」派閥である。
足りない部分を補って生きているのが人間なのだと思う。

今後に向けての覚え書き

・どのような種類のストレスが嫌で、またそのストレスはどの程度許容可能か

ストレスを避ける。でもいいのだけれど、それでは芸が無い。ストレスにだって良い影響を及ぼすストレスもある。であるなら「どのような種類のストレスが自分によっては嫌と感じて」「また、そのストレスはどの程度であれば許容可能なのか」を知ることが大事だと思った。

嫌なストレスは無い方が良い。でも避けられるほど自分には力が無い。
であれば、どのストレスが嫌かを知るだけでも全然違う。

今わかっている範囲で言うなら、自分は人に何かを強いられることが圧倒的に嫌である。でもお金をもらえるなら、ある程度は我慢できる。
そのくらいの解像度。

・インターネットに貼りつく時間を減らす。

かなり大きな要因だと思う。1日のスケジュールにもある通り、起きてすぐインターネット。家に帰ってきてからもインターネット。1日6時間以上はやっていると思う。内容はSNSかポルノを見るか、広義での自己啓発系動画を見ること。そして自宅は狭い9畳の1R。画面の中の向こうが世界のすべてになっていたように思う。現実世界であろうと、パソコンの中の向こうであろうと、物事をどう受け取るかが大事なのだから、その意味では現実もインターネットも変わらないのかもしれない。

が、インターネットはツールでとして使う分には最強なのだが、情報接種をするゲートウェイとしては気を付けなければいけないのは周知の事実だと思う(インターネット依存)。

今回の原因を仮に一言で説明しなければいけないとするのであれば、この言葉を使うと思う。

「インターネット依存症」

プレイス(場所)がパソコンの中には複数あるのかもしれないが、少し視点を抽象化すると、その人はパソコンの画面しか見ていない。事情があって外出が難しいのであれば、その生活でまったく構わないが、わたしは外出が出来るので、であれば外出しよう。外の空気を吸おう。

そして運動をしよう。散歩をしよう。早く家を出よう。
そして可能であれば広い家に引っ越そう。

・依存先を複数つくる(可能であればリアル)

・現在無職ということもあり、オンラインコミュニティにどっぷり漬かってしまっていたということが、悪い方向に出てしまった。オンラインコミュニティは距離や時間の制約をほぼ無効化出来るというメリットを持っている。だが、わたしのように「それだけ」になってしまうと、来る日も来る日も画面に張り付くただの依存者になってしまう。

以前インターネット依存症の本を読んだ時に、SNSにハマり、そこで人間関係のトラブルを起こし殺人まで起こしたという人の事例を読んだことがあったが、今回苦しかった最中でも、その事例は頭の中をちらちら過ぎってはいた。読書が役に立ったなと思った瞬間でもある。

前述したように、リアルに近ければ近いほど、他者から受ける正のエネルギーをより多く受けられると思う。その意味でも少しずつではあるが他者とのかかわりを増やしていきたい。
もちろんオンラインにはオンラインの良さがある(様々な方と付き合える。距離の制約を受けない。話したい時に話せるなど)。

ただ、間違っても所属しているコミュニティをセカンドプレイスにしてはいけない。

世の中は広い。困ったら空を見よう。

オンラインコミュニティは適切な距離感で。
確かにそうなんだが、言うのとやるのはちがう。

道を知るのと実際に歩くのは全くちがう。むずかしいからこうなった。

・人間は弱い生き物で、ふとしたきっかけでそちら側に行くのだということを自覚しておく。

これはとても大事。今回を機に自覚せざるを得なくなった。人間は間違っても弱くない生き物ではない。「自分はそんなことない!」もしくは「自分は大丈夫!」という人がいたら、それは思い上がりだと言いたい。それは「自分は詐欺に騙されることはありません」と言って、知らないうちに詐欺にあう若者と同じである。

もちろん個体差はある。当てはまらない人もたくさんいる。ゴリゴリ進めてしまう人はたくさんたくさんいる。ただ、個体差という意味でも自分は強い側では無い。それをしっかり認識しておく。

・認知行動療法(CBT)

ストレスが発生してしまったものはしょうがない。というか発生する。
発生した時に、それを適切に受け流すためにも、軽くでよいのでもう一度CBTを勉強しよう(さわりは知っている)。ただし、なんとなく知っていても、うまく使えない時もある。今回のように。人間こわいね。

・困ったら友達(他者)に頼る。

自分にはともだちがたくさんいる。それを思い出す。

困ったらどんどん頼ろう。
・ボイスチャットで、悩みを聞いてくれて、かつ友達の定義について考え方を教えてくれた友達もいた。
・家族がいるなか、話に付き合ってくれて「考え方がちょっと偏っているよ」って教えてくれた友達もいた。
・DMで励ましてくれた友達もいた。
ほかにもいっぱいいっぱいいた。

なお、友達の定義を変えたことにより、友達が一気に10人以上増えた。うれしい。

昔と違って今は友達がたくさんいる。
自分ひとりではどうしても視野がせまくなりがちになってしまう。ほかの人はそうじゃないのかもしれないが、自分はそういう生き物なのだろう。

また、ストレスなどが重なり、視野狭窄に陥った場合でも、他者の視点があることで元の世界に戻れることが多々ある(メンタルヘルスの本で何度も読んできたことだ。幸か不幸か今回、身をもって実践することとなってしまった)

健康の定義として「身体、精神、社会」の3つがあるが、今回は社会的つながりの偏りおよび欠落が不健康を招いたのだと思った。

・ほか。

良い方法があれば、コメントにておまちしております。

自分を助けてくれたことば

が実はある。
それが「(あなたが見ている目の前の現実)これこそが東京ですよ!!!(怒)」だ。

東京に旅行に行った時、渋谷、新宿、上野など、自分は目に映る様々なものを「地方 対 都会(東京)」というフィルターを通して見ていた。そのうえで「東京とはどのような場所か」を自分なりに定義づけようとしていたと思う。

ある時、大田区のゲストハウスに宿泊したことがあった。
閑静な住宅街。そこは札幌と何ら変わらない街並みだった。もしかすると札幌よりも落ち着いていたかもしれない。

ゲストハウスの主人に「渋谷は―。新宿は―」と世間の人が思っているであろう東京像をぶつけて、「都会の生活」についていろいろ訪ねていた気がする。

その時に、その主人から言われた言葉だ。

「現実を見ろ」と言われた気がした。

ここは渋谷じゃない。新宿でもない。池袋でもない。
人も少ないし、夜になれば人通りも無くなる。
あなたが思っている都会像は、世間の人が作りあげた虚像であり、ここ(大田区)にはそのようなものはない。

でも、ここだってまぎれもない「東京都」である。
あなたはちゃんと目の前の現実を見なさい。

そういわれた気がした。

読書会に参加していた時、実は最初の方は頭の中はオンラインコミュニティのことでいっぱいだった。そんな中、この言葉を思い出し、少しずつ目の前の現実に向き合っていけたという経緯がある。

ゲストハウスのオーナーには感謝してもしきれない。

ただ、この言葉に気づけたのも、そもそも他者によって、もっとも危機的な状態を回避できたからであり、それが無ければ、このフェーズも存在しなかった。

おまけ。他者の二重性

他者というものには二重性があり「生のあじわい」としての他者と「脅威の源泉」としての他者の2つの側面がある(※ともだち幻想~菅野 仁より

脅威の源泉としての他者性にフォーカスすることになると「他人が怖い」となり、「生のあじわい」としての他者性にフォーカスすると「ともだちっていいよね」になる。

おたがいの派閥(人が好きVS人が怖い)の過激派同士が、なかなか分かり合えないのは、この他者の二重性をひとりの人間が兼ね備えているからということを、理解しているようで実は理解出来ていないからだと思うよ。知らんけど。


困った人を見たら「あいつ馬鹿じゃねえの。自業自得」というのではなく、「なんかあったのかな」とその人に寄り添えるように。そんな人でありたいです。

とりあえず、こっちの世界に戻ってこれておめでとう俺。

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