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儒教という名の宗教 教義 上下二元論 支配と被支配 社会契約の破壊

儒教という名の宗教 教義 上下二元論 支配と被支配 社会契約の破壊
現代の国学
「やまとこころ」と近代理念の一致について                
第二章 宗教とは何か? 啓蒙との本質的な違いについて


前置きはここまでにして、ここからは儒教の教義を種明かししよう。江戸時代の朱子学者である林羅山は、「全てのものには序列あり」という観念的な妄言を残した。儒教の戒律はこの妄言に基づいたものであることは間違いなく、これこそが儒教の教義であることは間違いがない。

林羅山は、この儒教原理によってイエズス会の宣教師が唱えた地球球体説を否定している。儒教においては親と子の序列があり、キリスト教においては神と人間の序列があって、序列が世界の根源であると説き、天と地の序列が無くなる地球球体説は間違っていて、地球は上下が存在する箱型であることが真実であると林羅山は訴えていた。

儒教とは全てのことがらに上下を持ち出す観念的なイデオロギーであって、権威主義しか認知し得ず、実体構造も分からず公平性も持たないアイヒマンだけを造る宗教である。実体を知ることを否定して、上である権威を妄信することを強制する儒教は、単に人間の知的好奇心を否定するだけのものと言っても過言ではない。

戦国時代の織田信長は当代随一の知識人でもあって地球球体説を合理的だと評したが、織田家の人間や現代人からすれば箱型の地球は噴飯ものである。とはいえ、徳川幕府はこの世界観を公式に採用していたし、地球球体説を広めないために吉宗以前の将軍は蘭学を禁止していた。このことは、江戸時代が宗教による退化の時代であったことの一つの証拠である。

観念に基づいた権威主義序列だけが儒教の信者達の全てであって、自らの都合にしか興味を持たない彼等からすれば実体構造には何ら関心がなく、それは存在していないに等しいのだ。現代のアメリカにおいても進化論が否定されるだけではなくて、地球平面説を唱える宗教過激派も存在しているが、迷信が社会を支配しようとする点において、儒教と何ら変わるところがないと言えよう。

儒教における戒律である礼儀とは、人間の間の上下を明示するというものであり、「全てのものには序列あり」という教義の反映であるが、この観念的教義は「上下二元論」だと言っても何ら問題はない。国家と国民といった実体的必要性に基づいた共同体を無視するのが儒教の性質であって、権威と奴隷といった圧政的世界観がどこまでも貫徹されているというわけだ。

この儒教的な「上下二元論」は、「立場の上下」が判断基準とされる「比較への信仰」であって、他者との比較だけしか何事も考えられなくなる思考を生み出す。と言っても、この序列は実体や能力に基づいた序列ではなくて、どこまでも観念的で権威主義的で専制的な序列であることは言うに及ばない。事実がどうあるかではなくて、実体を観察する以前に上下を定めることであって、さらに言うならばその観念的上下を維持することだけが求められているのだ。

柔道の大会で結果の差が付くことと、宗教権威による依怙贔屓として上下の序列がつくことは、完全に意味合いが異なっていて、後者は前者を否定するものであろう。受験制度という人間の規格化と比較化は、科挙という中華の儒教的な制度から発展した歴史があるが、これは権威による強制に対する従順さに序列をつけるものでしかないのだから、創意工夫による技の自由さによって戦う柔道の大会とは、本質的に異なったものだ。あらゆる規格はそのままで使えるわけもなく、自らに合わせて常に修正して適用する必要がある。だが、柔道と違って受験ではその応用性がまるで要求されず、ある意味においてこれは兎跳び競争に類似したものであろう。

兎跳びとは、有害性への信仰であるが、人間的探究精神の否定であるとも言える。これは、人間個々人に何をも制御させないために、不適格な方法を刷り込んで個々人の操作を破壊して、権威に服従させることで個々人のコントロールを奪うものに過ぎない。これは、人間個々人が一切の思考を使わない行動であって、全てを権威が管理する全体主義社会を造る洗脳そのものである。アーツとは、己で己を制御する技であって、体幹で間合いの先に力を突き出すものである。行儀や兎跳びといった人間個々人の動きを否定するためのもの、人間を支配するための権威による不自由とは対極のものだろう。

見栄のために無意味な序列に拘る儒教は、個人利益主義のアメリカの競争社会にも適合しているが、トランプ前大統領を見る限りは、アメリカの競争社会であっても見栄張りの序列競争を基盤としたものでしかない。儒教徒もアメリカ人も見栄張りで他人に勝つことだけを求めていて、それが故に他人に謝らないことを信仰していることは完全に共通する点なのだ。勝つか負けるかしか考えられない彼等には、他者を潰すべき相手としてしか認識出来ず、他者の心を理解することは不可能なことなのだ。

妄想に基づいた差別は実体に基づいた評価とは完全に別のものだが、「上下二元論」はヴァーチャリズムを駆使してでも他者を下に見たがる精神病理でもあるが故に、人を見下すために生きる「犬」が大量に生まれる。他人を下ろし、権威を上げることへの脅迫観念に取り憑かれ、色眼鏡の先入観を通してしかものを見れない彼等は、自分達か異教徒かという「我々と奴ら」という論理以外を拒絶する。「上下二元論」のような教義は、権威への狂信であって、そして非権威への徹底的な敵意であり、実体の無視と中立公平性の破壊そのものだ。

キリスト教における善悪二元論は善への服従を強制させるものであるが、これも上下二元論と同じような思考停止した権威に対する無抵抗の強制である。これらは、権威に追従することを信仰させ、権威に反する思考を持つことを弾圧するものであって、自分が全て正しくて他が全て間違っているという誇大妄想であり、思想の自由という近代理念に徹底的に反するものだ。

教義とは、権威による恣意的な正解を押し付けるものであって、これは実体に基づいていないのだからなんとだって言うことが出来る。読者の貴方が魔女であると定義して貴方を焼き殺すことも、かつての権威からすれば簡単なことでしかなかった。だが、愚か者達は権威主義序列を強制することに取り憑かれ、今日も近代的自由を否定することに躍起になっている。

現代社会は男女の分断が起きていると批判されることも有るが、プロテスタントフェミニズムは「男女二元論」でしかない。この「男女二元論」の元ネタの勤労カルヴィニズムの「選民非選民二元論」は、選民である自らは絶対に正しく何をしようが救われる、といった運命予定説であって、「上下二元論」と同じものである。これは、無条件の嘘も恣意的な弾圧もなんであっても正当化する性質を持っていて、自らではなくて他者が悪であるだと断じる観念を押し付けるだけのものでしかなく、父親の排除という帰結を生むだけだ。

「上下二元論」も「選民非選民二元論」もまるで同じように権威序列の競争社会を造り上げるだけの支配と被支配であって、勤労カルヴィニズムでも儒教でも「万人の万人に対する闘争」という分断社会を作り出す。このような選民思想は、自己顕示欲に取り憑かれ、比較優位を取ることにだけ熱意を向ける畜生道を社会に大量に増やすことになる。下らない競争で比較優位を教えるだけの現代の学校教育も、内律的な軸を持たず、創造というものについてまるで教えていない。

競争社会から生まれる人間の本質は、事実に関心を持たず、序列競争に勝つことだけを考え、未来を創ることになどまるで興味を持っていない畜生道であろう。マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘した非人道性は、現代に至って極大化することになった。そして、こうした畜生道は、他者に何もさせず、全てを失敗させ、虐めて叩き殺すことに全力を尽くし、文明社会を猿山の群れに変化させることしか出来ない。彼等彼女等は、権威に操られるだけで、己による制御が何もなく、政治哲学とも科学技術とも軍事権力とも、まるで無縁な存在なのだ。

アメリカに良く見られるトランプ前大統領のようなリーダー気取りも、群れのボス犬程度の存在に過ぎない。何ら実体を観察も判断せずに、他者のことを、悪だなり、劣だなり、と決めつける不寛容な思考は、観念的二元論から生まれるのだ。権威に追従して権威の言うことを守ることにしか興味を持たない心性が、道徳であり善であるということは言うに及ばない。

現代社会の二元論の中で最もよく見られるものは、「多寡二元論」という民主制権威主義であろう。これは多が全てにおいて上で寡が全てにおいて下であって、群れることが善で群れないことが悪という実体無視の二元論であり、権威への迎合を尊び観念上の敵を捏造し続けて魔女狩りを繰り返すだけのものだ。この観念の下では、公正な統治を求めることこそが、権威に反することとして真っ先に処罰の対象となる。

これらの観念的二元論は、陰陽道における「陰」と「陽」のような相補的な二項論ではなく、「権力」と「権威」のように無縁なる二つのものの並びではない。電荷のプラスとマイナスの関係や、或いは事実と嘘のような、実体的な二元問題でもない。

これらの二元論は、「権威」と「非権威」の比較であって、実体構造の奥行きを徹底的に否定する二次元的な記号論でしかなく、レッテルを張るだけのラベリングだ。こうした二元論は、事実かどうかを考えることを否定し、権威かどうかだけを考える宗教であって、実体観察を重んじる科学技術とは徹底的に対立的であり、構造認知能力の破壊でしかない。

観念的二元論は、単なる分断の教義であって、実体と思考、感性と理性を分断することで、世界の美を認知するための人間の知性を破壊している。これらは、権威か若しくはそれに近いものが全て正しく絶対無謬であって、権威に反するものは全てが間違っていて生まれながらに罪深く絶対に否定すべきであり、宿命論的に抹殺すべきである、という中立性を欠いた立場論的な攻撃的妄想である。実体に基づいた自省ではなくて、責任転嫁と逆恨みを起こすだけの心性は、ここから発生していることは間違いがないだろう。

実は観念的二元論は、一つを正しいとしてその他を間違っていると否定するが故に、本質的には単一性への信仰であって、殆ど一元論であると言える。現実に存在するものは、単一の要素で構成される構造であっても、周囲への繋がりを持っていて、一定以上に広さと複雑性を有しているが、一元論はこれを無視している。

宗教とは教義を持つものであるが、教義とは「実体に関わらず権威は正しい」という観念であって、これ程に人間を盲目的かつ横暴に変えるものは存在していない。教義という一元論は、権威を絶対に攻撃するなというものであって、敵意の矛先を常に非権威に向けさせる平和主義的な洗脳であり、自ら以外の全てを破壊することへの信仰である。これは、権威の正当化のために非権威に犠牲を押し付ける「抑圧の委譲」でしかなく、権威の絶対無謬性によって下が罪人と化すのだ。

仮に、非暴力主義を徹底にするにしても、自らと権威が絶対に正当であり、他者が絶対に間違っていると観念的に認識させ、「観察と思考と行動」の「機能的な繋がり」を破壊するものでしかない。権威への同調と非権威への迫害こそが、観念的二元論が起こしうる帰結であって、これが社会に反映されれば一党独裁のイデオロギー社会が成立する。

こうした観念的一元論はアメリカの本源的な心性であって、仲間外れを作って団結する「群れ意識」であり、全てが自分達と同じでなければいけないという強迫観念的な同化欲求である。それは内面どころか肌の色までの同一化が求められるものであり、アメリカが望んでいるものは単一性であって、民主主義を嫌う彼等の言う多様性とはキレイゴトでしかなく、本質は「金のみ、見栄のみ、己のみ」といった「排除の論理」の分断に過ぎない。だがもしかすれば、「犯罪のデパート」のように負の多様性が存在している可能性はあると言えよう。

本質的には分断でしかない「群れ意識」は、功利主義と実体的創造を否定して、権威主義と道徳観念に基づいて他者を抑圧することしか出来ない。実体的な理由に基づいて意見を考えることは放棄され、雰囲気と気分によって迎合を行い、思考停止した暴力を繰り返すことになるのだ。実体的な理念によって協働することが無ければ、分断状態になることしか出来ないが、トランプ前大統領は、「金と観念について以外は何もわからない」というアメリカの特性を最大限に体現していたが故に、同盟や国家どころか共和党までをも分断してしまった。

「郷に入らば郷に従え」の属地法を持ったローマ帝国は、公共の形成に成功した。だが、属人法しか持てなかったゲルマン民族は公共理念とは程遠く、身内意識に基づいた内輪のルールしか考えられず、国家も政府も持たない分断状態であったのだ。

これは、分派が多いプロテスタントの組織的構造に類似しているとも言える。理念や公共性を放棄して権威主義に走る心性を自己正当化する宗教を確立したのはルターであるが、美のイデアを知覚出来ないゲルマン民族は、それ以前から理念や公共性と無縁であったのが歴史的事実だ。高貴な思考を持たないゲルマン民族は、本質的に近代的自由と価値創造を恨んでいて、その精神の中核には徹底的なまでの自己と権威への偏愛が存在している。

ゲルマン民族とローマ帝国とは、「不寛容と分断」対「寛容と団結」の関係であって、些末な差異ばかりを気にして大同団結が出来ない集団には、政治というものを理解出来るはずがない。思考停止した群れの中では権威が生まれるが、人間個々人の中では社会契約が成立する。公共的目標を目指さず、国家的責務を放棄して、一市民的な成功に拘って売名を目指し続けることは、人間として何よりも惨めなことだ。アメリカンドリームやドイツロマン主義では、国家を造ることは絶対に不可能なのである。

自己愛以外を何も持てず、お互いに協力し合う目的も作ることが不可能であって、足の引っ張り合いに命を懸けることこそが、「蛮人の万人に対する闘争」というドイツ的な伝統であった。公法を創れないのならば、権威による人治主義以外を成立させることは出来ない。公共への意識が無く、権威に許されればそれでいいと思考することしか出来ないゲルマン的精神では、何もしないことが至上の選択肢となるが故に、ニーチェが言うように彼等は徹底した禁欲を尊んでいたのだろう。

儒教というものも勤労カルヴィニズムとほぼ同じものであって、理不尽を押し付けることで人間に我慢と権威主義を刷り込む「いじめ」とは、上下二元論を実体化させるための宗教儀式である。「宗教はアヘン」という言葉を前提にするのであらば、中華のアヘンはイギリスが持ち込んだものではなく、孔子が自家製造したものだ。実体を直視しない観念のアヘンが中華には既に蔓延していたのだから、化学物質としてのアヘンが蔓延することも当然のことだろう。魯迅の阿Q正伝を読む限り、中華のアヘン中毒は相当なものだったと推測される。

魯迅はニーチェに影響を受けたと言われるが、ニーチェは「善悪の彼岸」を超えた存在のことを超人と呼んだ。善悪とは観念論的な二元論であって、立場論的による表層的な判断でしかない。権威が押し付ける非合理・不自由・非実体に疑問を抱くのではなく、思考停止してそれらを崇めることが信仰である。善悪とは権威が決めるものであって、それ故に善とは権威に服従すること以外に興味を持たないことなのだ。

だが、こうした政治の腐敗化によって奴隷の平和が達成されるにせよ、言うまでもなく儒教的な洗脳によって汚染されていない外部の人間を権威に隷属させることは不可能でしかない。それが故に、権威的支配の洗脳術を重んじた中華王朝は、中華の外の勢力によって毎回毎回破滅しているし、朝鮮も似たようなものであった。この破滅の繰り返しは、儒教イデオロギーに閉鎖された観念化社会の外をまるで想定しない平和ボケから生まれるのだ。そして、説明不要のことであるが、キリスト教の教義の外を認知出来ない者には、ナチスに食い殺されること以外は何も出来ない。

教義の観念を妄信して古の形式的戒律を固守し、変化を恐れて動きを拒絶し、観察を否定して実体を黙殺することが、儒教の本質である。新しい流れを弾圧する権威に従っていれば社会が安全になるという信仰は、実体として吞気な油断に過ぎない。善なり上なりというレッテルを張ったところで、それが実体として重要なものになることはないのだ。

実体の流動性をただ恐れて拒絶する儒教では、危機を想定することは形式から外れることを思考することであるが故に、それは教義の否定とされ、徹底的に弾圧される対象となる。先を予見し実害を警戒し防災計画を立てる者は、権威の安全神話を疑う謀反人とされる。「上下二元論」とは、実体問題を意識せず、権威を恐れるだけの認知不全者を社会に増やし続け、それによって政教一致を成立させるイデオロギー的な教義なのだ。

実は、儒教では形式を順守して権威に従って問題が起こるならば、その者の人徳が足りないことが原因とされる。つまり、何もしないで問題が起きないことが徳とされ、危機対策をすることは不徳として忌み嫌われるのだ。世の中には絶対に問題が発生しないということは絶対に有り得ないのだから、リスクの存在を許さないという価値観は妄想でしかない。古の形式に従っていれば問題は全く起こりえないというイデオロギー的な信仰は、マルクス理論を現実よりも重視する共産主義に似た部分がある。

こうした観念は、問題の発生自体を忌避して、実害の評価検討や失敗へのリカバリーという知恵と勇気を拒絶する現実逃避に過ぎない。これは無警戒への信仰であって、悪いことを考えれば悪いことが起こる、実を視ることは権威への不信心でありそれによって祟りが起こるという迷信でしかない。実体状況とその未来の先をまるで見ようとせず、同じことが繰り返し続くという妄想は、単なる計画性の放棄であろう。

危険を見ぬふりしてフェイルセーフを拒否する信仰は安全を否定して安心を求める倒錯に過ぎず、これは安心至上主義とでも呼ぶべきだ。ノイズも外乱も「想定の範囲外」として、完全にクリーンなだけを想定し、実用性というものを拒絶して、政府というものを宗教団体に変えることが、儒教のヴァーチャリズムであると言えよう。変化を想定しない儒教では、未来を捉えることなど出来ず、形式主義によって無駄な動きを繰り返すのが関の山だ。

この安心という言葉は、単に権威と異なる考えを持たないという思考停止を意味している。起こり得ることへの対策を行わず、起こり得ないことに只管に恐怖する蒙昧は、こうした倒錯から生まれる精神なのだ。実体を無視して観念の殻に引きこもる斯様な信仰は、安全から最も遠いものであることは説明不要である。目的意識の欠如が儒教の本質的特徴だが、儒教とはカルト教祖が騙しによって地位を得るために作ったペテンであって、奴隷制社会で出世するための屁理屈でしかない。社会全体に硬直した非合理を強制し、公共を破壊すること以外は何も出来ないものなのだ。

安心至上主義は、権威には一切の責任が無く、被害者が全て有責であるという価値観であるのだから、「上下二元論」という教義の延長であると言えよう。彼等の述べる平和とは、人間が思考停止すれば問題なく生活出来るという意味であって、つまりは権威の支配を硬直化させることを意味している。核シェルターを造らずとも、安全神話を広める手法は、安心至上主義以外の何物でもない。

斯様な安心至上主義は、実体に何ら基盤が無く、人の目すら騙せればそれでいいという儒教的な怯懦そのものであると言えよう。こうした思想の基では、他者を騙す詐術だけが発達するも、科学技術は徹底的なまでに弾圧されることになる。キリスト教にしても儒教にしても、出鱈目の屁理屈を正当化するために、権威主義と妄信だけを社会に増やしていったわけだ。

儒教の社会には権威の支配が存在するだけで、理念に基づいた公共が存在しないのだから、誰もが社会を守ろうともしないし、それが崩壊しても一切において問題とされることはない。社会問題の解決ではなくて身分序列を崩さないことが何よりも重視されるが、支配の維持こそが儒教の教理であるのだからこれは当然のことだ。

儒教を妄信して実体構造を「想定の範囲外」とすることは、宗教が教義の観念世界の外の事実実体に無関心であることを如実に示す例であって、「記憶にございません」ということ以前にそもそも事実を認識出来ていない。分からないと呆けることで全てが許されるというならば、その知的好奇心の低さは政治における禁治産でしかない。

地球が箱型であるという迷信は、実体を拒絶して宇宙の姿までもが儒教の観念教義によって捏造された結果であった。実体に観念を当てはめようとする神学は、実体を捉えてそれを活用する科学技術から最も遠いものだろう。この箱の世界像は、人間の認識感覚を立場論の権威主義の教義の中に閉じ込めるための知性への怨念でしかない。実体を視ることもなく、観念に合わせて生きることは、単に権威に脅され騙されているだけなのだ。

認識を閉じ込める箱の中では、人間の知的感性は息が出来ない。実体に基準がなく、権威序列にしか基準がないのだから、会話が成立する由もなく、権威への迎合のみが成立し、故に社会契約が成立することは絶対に有り得ない。実体結果を否認否定するために、屁理屈をこね続けることは、知性というよりも単なる見苦しさ以外の何物でもなかろう。合理性とは、実体との結びつきを有したものであって、それがないものは単なる観念論に過ぎない。

立場論の身分教である儒教においては、事実がどうあろうとも、哲学者や科学者が真摯に世界を探求しようとも、上なり教祖なりが述べる教義が絶対とされる。中立的に話を俯瞰することは処罰の対象であって、権威の妄言を狂信することこそが道徳として称揚されることだ。権威に疑問や批判、否定というものを向けることは絶対に不可能であり、こうした行為は権威のメンツを潰す行為とされて、場合によっては死罪となる。実体がどうあろうとも、ただ権威は偉大であると思い込ませておかなければ、権威の理不尽を正当化することなどは不可能となるが故にだ。この点に関しては、キリスト教でも儒教と完全に同じだろう。

「上下二元論」を唱える権威は間違いを認めることが不可能であって、それ故に社会に自浄作用は全く以て存在しない。客観中立性や実体功利性といったものは放棄され、立場序列のみが問われて、権威の恣意性によって嘘が正当化されることが横行し、そこに異を唱えることが観念的に不道徳とされ、現実はただ只管に否認される。実体性のない危険と罪悪の観念によって人間を脅し尽くし、危機意識と問題解決能力を破壊することによって、権威による社会支配に硬直するということが箱の中の全てだ。

儒教の本質とは、社会の停滞と人間の拘束による権威の支配の固定化であって、それはつまりは科学技術や政治哲学といった人間による流動的な制御を抹殺することである。これは、社会の進歩と発展を否定してでも、権威の安全を守るという浅ましさでしかないが、保身しか頭にない者は、被害妄想に走って責任転嫁を行うことしか出来ない。とはいえ、このような社会は確実に滅ぶのだから、権威の保身も実は不可能であって、これも安全ではなくて安心を追求しているだけに過ぎない。

儒教とは、自らが傷を負わないことを考えるだけで、問題解決を何も考えない畜生道を、社会に増やし続けるものだ。ニーチェの述べた超人や吉田松陰が提示した狂気の人間だけが、善悪上下を超克した高貴さを持ち、権威に外発的に植え付けられたヴァーチャリズムによる認知の檻を破壊して、誤魔化しと媚び売りと躊躇いを超えて実体現実を認知して問題解決を行うことが出来る人間だろう。

中華では、儒教の「上下二元論」の教義によって中央集権と政教一致が千年以上も前から起きていたのだから、上命下服の全体主義は伝統的なものであり、それこそがアジア的専制と呼ばれたものだ。現代において、本質的には平等を唱える共産主義であっても実質的な身分制度が中華に存在しているのは、共産主義という看板はフェイクであって、彼等の内実は民族主義と虚飾の儒教であり、これこそがまさに「羊頭狗肉」というものだろう。民族政党による一党独裁とはナチスと同じ体制であって、そこに民族主義はあっても国家は存在しない。

紀元前五百年前後には既にギリシャの都市国家が存在していて、国民間の法的な平等と言った概念が存在していた。そして、その後に誕生したローマという共和制国家では、奴隷も解放されれば一応は国民となれる制度が実在した。だが、同時代の極東において、孔子は愛弟子が死んだ時の葬式の在り方にすら身分制度を持ち出す始末である。

この際に、孔子は自分の馬車を売って弟子の葬式代を充てることを拒否した。一方で、源義経は自分の馬を売って部下の葬式代に当てたことは日本人の我々には身近な話である。彼は日本史史上屈指の「ますらおぶり」の勇将でありながらこのような繊細な「たおやめぶり」を持ち合わせていたわけであって、だからこそ家臣達は義経の最期の時まで付いていった。義経と孔子のどちらが人として温情と真心に溢れた人間であって、どちらが浅ましさとメンツの冷血な生き物であるかは、教義によって教祖を絶対化しないのであれば、誰にでもわかることだ。

論語では葬儀は特に重要視されるイベントである。その葬儀にすら身分制度を持ち出すのだから、もはや孔子にとっての身分制度は、人間にとっての空気のようなものであるかも知れない。孔子が共和制ローマに旅行にでも行った際には風呂の中で溺れて窒息死するのではないだろうか? かの有名なテルマエ・ロマエとは逆となるが、西洋人が古の中華にタイムスリップして、あまりの身分制度の硬直性と権威主義にショックを受けるといった物語を想像してしまうのは筆者だけではあるまい。

「ますらおぶり」も「たおやめぶり」も持たない宦官精神の孔子が、悪代官を三味線屋が絞殺するという「必殺仕置き人」を視聴した際には、おそらくショック死してしまうと考えるのは筆者だけではあるまい。儒教を批判していた吉宗や光圀も、現代に作られた創作劇の中では、武力を以て敵を切り捨てる覇道の人間と化している。

だが、史実においても彼らは儒教的な王道からまるで遠い人間達であって、創作の中に一定のリアルが存在していることは確かだ。刀を振り回す光圀像や吉宗像は、フィクションとノンフィクションの中間、つまりは夢と現の狭間であるが故に面白いのであって、これはロマン主義的なヴァーチャリズムとは全く文学性が異なっている。

論語の中には為政者と支配される盲民と言った「上下二元論」の社会構造しか存在していない。林羅山はそれが儒教の教義であるとまで言い放った。これは「全ての者に政治と教育を」という近代民主主義の理念に真っ向から対立する。現代のヨーロッパにおいて、イスラム教が近代社会に反すると非難されることもあるが、実はキリスト教であっても近代社会に反する過激派が存在している。

だが、何より儒教こそがまず近代社会の精神に反するものであって奴隷制を推進しているということを、我々日本人は理解するべきだ。明治時代に廃仏毀釈の代わりに廃儒毀孔を起こしておけば、天皇機関説が排撃されることはなく、太平洋戦争が起きることもなかったのだ。明治維新のその後に、西郷隆盛は江戸城を焼かないことを後悔したらしいが、業を清算し切らないが故に改革が不全に終わったことは紛れもない事実であった。

 

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