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現代スピリチュアリズムの批判と再構築:三次元の理解と身体感の重要性

近年、ストレス社会からの解放を求めるためにスピリチュアルへの関心が高まっている。現代の異常とまで思える混沌としたストレス社会から解放されたいと強く願っているのだろう。

振り返ればいつの時代もスピリチュアルは存在している。しかし、近年のスピリチュアルは逃げのスピリチュアルと云っても言い過ぎではなく、その言葉をもって強く批判したい。

多次元を語りそこと共鳴することは素晴らしいことだと思うし、それを実践する事こそ幸せには必要不可欠であると感じる。しかし、三次元を理解せずしてそれ以上の次元を分かったとて、残念ながらこの三次元の負担は減らない。むしろ、億劫な感覚から逃げるしか他ならない状態に自ら進んで陥り、只々現実逃避を促すだけだろう。

多くのスピリチュアリストは、身体感がとても脆弱である。身体に軸がなく、力強さが感じられない姿勢で動き、階段が極端に苦手で足腰が弱く、普段から極端に疲れやすい。体を動かすことが苦手で内向的な性格の人が多い。日常生活の簡単な動作でも、他人の動きを観察して真似ることが難しいことからも明らかだ。ズバリ指摘するとうつ病の人の特徴を多く兼ねている人が多いのである。

身体感は、主観の領域であり、他人と比べることができない領域だからだ。もちろん相手の感覚を自身と比べることができる人もいる。そのような人は、身体感がとても高く強いためで客観を取り入れることが出来るからである。それは身体的次元の違いとも言える。

身体感が脆弱であると、他人を参考にして自身を成長させることが出来ない。それには、神経が関係している。スピリチュアリストは、ミラーニューロンの働きがとても弱い。そのような人ほど身体運動が苦手な人が多く、非力な人がとても多いのである。

ミラーニューロンの働きが弱いと、お手本の姿勢や動きを見せても真似できない。むしろ、スピリチュアルな人ほどちゃんと出来ているとまで主張する始末である。認知が歪んでいるとも感じるほど、全く理解できていない。見えているものが見えていない。見えないものを見ようとするスピリチュアルな世界に生きようとしているのは、このせいだと感じさえもする。

その根底にある意識は、三次元の世界はそもそもきつくつらい世界で、本来の人間の生き方として高次元に共鳴することで魂が解放されると錯覚しているからである。またスピリチュアルを指導する人ほど強く信じて疑わない。

だから、無意識になんとか楽な世界で生きようと高次元に逃げるのである。しかし、逃避は三次元に鈍感になることで楽を感じるだけである。真の気づきと見えないものの存在は、実は身近というよりも既に自身が存在している三次元にこそある。体感と実践を誰が見ても、出来ているかが分かる唯一の次元が三次元である。

その中で身体感を高め三次元を理解し得意になることこそが、本来の三次元に人間として生まれた使命ではないだろうか。それに気が付けないでいる内は、多次元を悟ることは決してできない。多次元を悟る必要性は三次元をクリアしてからである。

多くの武術家は、晩年に多次元を悟る。自然と自ら気づき、だれからも教わらずにである。これは、人間として三次元に生まれ三次元をより多く広く深く理解し、体現したことへのご褒美であり、その中に多幸感を見い出すことで起こる現象である。

さらに実践的な本来のスピリチュアは宗教であるが、その従事者は伝統的に身体の操作を武術で学び、高貴な地位にある人ほどその身体レベルは高い。しかし、そのことには全く触れずに教えや捉え方のみが独り歩きし、そのような中でスピリチュアルを尊ぶ人々を観ていると情けなくすら思えてくる。

信仰や宗教の観点から、大昔の先人たちがスピリチュアルに生きた事実は誰もが否定しないだろう。しかしそれは、人の持つ身体的ポテンシャルを十二分に引き出す身体感があったからこそであり、日々の生活の中で体を実践で活かしてきたからである。

誰もが納得するであろう「現代人は先人の身体感には遠く及ばない」という事実をもって、この有様をご都合主義と言い切っても過言ではないだろう。現代の社会においてスピリチュアルが見直されているからこそ、身体感を今一度地球に向け、文字通り地に足のついた生活を送るべきである。

地に足のついた生活とは、歩くことが得意になることであり、重たいものを軽く動かせるようになることであり、自身を自由に繊細に動かす術を習得することで、肉体を慈しむ愛情と感謝をもって自身に意識を向けることである。歩けるのは地球があるからであって、何かを動かしたり運んだりできるのは地球があるからである。それは地球、宇宙に働いている根本原理の力があってこそではないだろうか。

地球に常に働いている引力という力、質量の持つ慣性や作用反作用の力学が常に体に作用している。しかし、この見えない宇宙に働く力は、自らが感じることでのみ自身に深く理解を及ぼし成長を促す。しかし、知識に溺れた現代人は先人を真似ることなく、言葉で分かることや納得できるレベルのことを見つけて、そこにスピリチュアルを見い出すことができると頑なに信じているだけに過ぎない。

例えば、重力の働かない夢や瞑想などの中で高次元の存在と共鳴しても、その存在は引力や慣性などを知らない。たとえ神や龍神などの多次元のその存在に認められたとしても、真の理解には及ばないのである。見えない存在や力に意識を傾けるスピリチュアルにおいて、完全に無視されているともいえる三次元に働く力学こそが最も身近に感じ、最も意識を向けて成長すべきスピリチュアルである。

それを無理やりに多次元を学び、高次元へあこがれることは逃避行動である。教えられたものは悟りではなく、ただの情報である。気づきと悟りは主観に存在存在している。主観の中に実践の活用をもって悟ることがスピリチュアルの基礎であり、それができる地球こそが学びの場である。

先人のスピリチュアルな生き方を尊ぶつもりで、何もわかっていない現代人は幸か不幸か、知らずして先人の生き方を馬鹿にしているのである。人間として多次元を学ぶために地球に生まれたのではなく、地球という三次元に生まれた理由に目を向けて成長してこそ、高次元へといざなわれることが真の悟りであり、大自然の法則に沿った在り方こそが真理である。その過程が真の魂の成長であるべきだと強く主張する。


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